来年で原爆投下から70年になりますが、長崎原爆の「被爆体験者」には被爆者健康手帳が交付されず、原爆症認定申請を却下された人の訴訟も相次ぐなど、被爆者援護を巡る問題は解決していません。「援護の外」に置かれた人たちを支える広島、長崎の医師に話を聞きました。
◇続く司法判断と行政との乖離−−広島共立病院健診センター長・青木克明さん(66)
−−被爆2世とのことですが、両親のどちらが被爆されたのですか。
◆母が松川町(現南区)に住んでいて、勤務先だった宇品の陸軍船舶司令部で被爆しました。当時は、近所の人たちが水主町(現中区)に勤労奉仕に出ていました。うちは祖母が母に「お勤めがあるから代わりに行く」と伝えて出ました。水主町まで向かう途中だった祖母は助かりましたが、大やけどを負います。(被爆死した)若い人たちが先頭の方を歩いていたということですから、母が出ていれば亡くなっていたかもしれません。
−−幼い頃から被爆体験を聞きましたか。
◆祖父母はよく語ってくれましたが、母はあまり話しませんでした。私は、昔から傷をつくる度に化膿(かのう)していました。成人した後になって、母は「自分の被爆のせいじゃないかと思っていた」と話してくれました。1948年生まれの私は、被爆時は母の卵巣にいたことでしょう。被爆2世というよりも「卵巣内被爆」と呼ぶのが実態に合っていると思います。
−−医師になろうと思ったのはいつごろ。
◆高校時代に大学進学を考えた時、医学部を選びました。大学ではしばらく広島を離れたので、被爆者を診ることはほとんどありませんでした。1990年に、被爆者に寄り添い、自身も被爆者で詩人でもある広島共立病院の丸屋博院長(当時)と話す機会があり、将来は広島に帰るつもりだったので「今なら自分のしてきたことを生かせる」と戻りました。
−−原爆症訴訟支援に長年携わられています。
◆2000年に最高裁で松谷英子さんが勝訴するまでは、原爆症の申請に必要な書類を書きはしましたが、認められるのは難しいものだと思っていました。それが裁判で道が広がると知り、広島地裁で06年に41人全員の勝訴判決が出された集団訴訟には最初から関わりました。次第に認定基準が緩和され、昨年12月には一部の非がん疾患で「放射線起因性」という言葉が消えましたが、それは言葉を具体的な距離や時間に置き換えただけで、現状制度の追認に過ぎません。司法判断と行政との乖離(かいり)は続き、さらなる抜本改正が必要です。
また、認定されても3年ごとの更新で治ったと判断されると、支給される医療特別手当は特別手当に切り替えられ、手当が減額されます。引き続き医療特別手当が支給されるのは広島市では約8割、肺がんなどではもっと低い。国の被爆者関連予算の執行率は7割程度しかありません。高齢化し、健康状態が悪いなかで生活の糧を取り上げられるのはよくありません。【聞き手・加藤小夜】
◇広範囲被ばく米報告書に根拠−−長崎県保険医協会長・本田孝也さん(58)
−−被爆体験者訴訟で「長崎では、被爆体験者がいた区域を含む広範囲で放射性降下物の健康影響があった可能性がある」との原告側意見書を提出されましたが、根拠を教えてください。
◆原爆投下の翌月の9月20日から10月6日に長崎に派遣され放射線を測定した米軍マンハッタン管区原爆調査団の最終報告書です。報告書は、長崎放送の記者が1995年に米国立公文書館からコピーを持ち帰り、長崎大の研究者が邦訳したものです。
報告書には、旧長崎市から島原半島に至る284地点で測定された放射線のデータが記載されていました。そのデータを、原爆放射線の推定方式「DS86」で示された残留放射線の推定方式にあてはめて、原爆投下から1年間に原告がいた各地区の外部被ばく線量を推計しました。
その結果、爆心地の東約8キロの矢上地区にいた第1陣原告の1年間の外部被ばく線量は25・5ミリシーベルトと推定されました。これは、福島第1原発事故で国が居住の可否の目安としている年20ミリシーベルトを超えるものです。
また、調査団のデータは、45年9月に枕崎台風などが上陸し風雨の影響を受けた後に測定したものですが、DS86は風雨の影響を考慮しないで被ばく線量を推定しています。風雨の影響を考慮した推定方法を用いると、矢上地区の原告の外部被ばく線量は64・9ミリシーベルトと、より大きくなります。
−−意見書では各原告の甲状腺の被ばく線量も推計しています。
◆福島第1原発事故後に福島県飯舘村で測定された雑草の放射性物質の濃度を参考に、第1陣原告が長崎の各地区で汚染された野菜や果実を1日に200グラムずつ食べた場合のヨウ素131による甲状腺の被ばく線量を計算しました。外部被ばく線量の推定値が最も低かった茂木地区でも、甲状腺の被ばく線量は風雨の影響を考慮しない場合で5・6ミリシーベルト、考慮した場合は14・2ミリシーベルトとなり、国際放射線防護委員会(ICRP)が一般公衆の線量限度としている年1ミリシーベルトを超えています。他の核種による被ばくを考えれば、内部被ばく線量全体ではさらに大きくなると推定されます。
−−長崎原爆の放射性降下物による内部被ばくの影響だと考えられる例はありますか。
◆45年10月から九州帝大などが爆心地の東約3キロの西山地区で実施した研究では、住民の白血球が異常に増加し、46年4月にピークになります。原爆投下時には県外にいた人が、終戦後に西山地区に戻って生活するうちに白血球が増加した例もあり、内部被ばくの影響だと考えられます。【聞き手・樋口岳大】
■ことば
◇被爆体験者
長崎県内に7187人いる。長崎の爆心から約7〜12キロで原爆に遭いながら、国の指定地域外のため「被爆者」と認められていない。2002年に支援事業が始まったが、国は「放射線による健康被害はないが、精神的要因の影響は認められる」として、医療費支給を精神疾患や合併症に限定し、がんなどは対象外。07年から被爆体験者約560人が被爆者健康手帳の交付を求めて提訴したが、第1陣訴訟は12年に長崎地裁で敗訴。本田さんは、福岡高裁で係争中の第1陣控訴審と、長崎地裁での第2陣訴訟に意見書を提出した。
■人物略歴
◇ほんだ・こうや
1956年、長崎市出身。慶応大医学部卒業後、神奈川、千葉の病院勤務を経て95年に長崎市中里町に内科医院を開業。同市東部の間の瀬地区で原爆投下後に降ったとされる黒い雨の調査や、米原爆傷害調査委員会(ABCC)職員が作成した黒い雨に関するリポートの分析などに取り組んできた。
■人物略歴
◇あおき・かつあき
1948年、広島市出身。74年、横浜市大医学部卒。90年から広島共立病院で勤務し、副院長や院長を歴任した。被爆者支援広島ネットワークの代表世話人、核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表などを務める。