2014年12月30日火曜日

泉田知事の発言問題について感じていること




関連リンク

〔泉田知事へのメールを公開〕(2014年7月)

http://renree.blogspot.jp/2014/06/blog-post.html







〔追記:2014年12月30日〕

残念ながら再三の要求を無視して泉田知事は発言訂正をしないままです。

一時ほとぼりが醒めていましたが最近また、この過去の発言の流布がインターネットで始まっています。

現在でもいろいろなところで知事の発言が誤って受け取られていて誤解が絶えません。

事実を知らずに善意で拡散している人にくわえて、日頃から被爆者手帳制度を快く感じていない人たちがおり、知事のこの発言を悪意を持ってわざと拡散しています。

また反原発を掲げている人の中に、これを自分たちにとって都合の良いように嘘の解釈をして利用している人たちもいます。

放置している泉田知事ご本人も、これを広めている人達も、どちらも無責任極まりないため、再度、私は批判します。

これが泉田知事の失言であることは新潟県庁も勿論わかっています。

もし間違いを認めてしまうと、たとえば以下のことが困るのでしょう。


(1)・知事の立場にありながら、原爆症認定制度と被爆者健康手帳制度の違いなどの基本的事項を知らなかったという粗末な県政認識がばれる

(2)・「被爆者に係る地方行政実務」における知事職の重要性を認識していなかったこと、また、そのあらゆる審査・承認を委任命令(施行令および施行規則)の定めに則して自ら行い、正しく遂行すべき義務が法律上あるところ、これまで部下任せで行っていなかった無頓着さが世間にばれる

(3)・今でも原爆被爆者の訴訟が続いているという一般社会常識に欠け、被爆者問題に意識の低かったことが露呈する




他にも理由はあるでしょうし知事のプライドが失敗を認めることを許さないのでしょう。この発言は原発事故のことで政府の対応に不満を感じている多くの人たちから「素晴らしい」「筋が通っている」「よく言ってくれた」などと絶賛を浴びました。「泉田知事が言うのだから間違いない」とたやすく信じられてしまいました。それについて事実とは異なる箇所があることを誰も指摘せず、いつの間にか下のような写真まで作られて延々と大拡散されていったことに私は愕然としました。




しかし、どんな理由で引っ込みがつかなくとも知事としての立場上、必ず御自身の発言の訂正は責任をもって行うべきであり、うやむやにする姿勢は政治家・特別職公務員として許されません。被爆者にとって重大な負の結果を引き起こしたことは事実です。

繰返しますが私は、知事が勘違いして間違えてしまったこと自体については何ら批判をしていません。もともと善意からの発言であったことも理解しています。原発事故被害を被った人たちを慮っての発言意図は支持しています。

私が批判しているのは、その後の対応のことです。発言中の明らかな間違い(被爆者手帳)の部分について何度も指摘をうけながら訂正を拒否し、被爆者の医療援護についてあらぬ誤解を大きく招いてきた状況を知りつつ不適切な放置(約16か月間)を続けていることです。誤りだと気がついた時点で、この一部分についてのみ知事御本人から訂正を行うべきでした。



以下が、新潟県庁が私からの質問に対して最後まで「回答を避けた」文章であり
原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(第二条)です


関連リンク

「累積1mSvで被爆者手帳は交付されない」 それを新潟県庁が、しぶしぶ認めるまでのやりとりを公開します


http://renree.blogspot.jp/2014/07/1msv.html




「差別」という言葉には危うさがあり、ややもすると問題の本質から逸れて感情的、短絡的な意味で受け取られかねません。ですから私はこの言葉を安易には使わないよう普段はかなり自重しています。しかし今回は違います。いつまでも当たり前であるはずの軌道修正ができない。その一因として被爆者医療給付に対する嫉妬感情が背後に隠された被爆者差別問題があると思います。政治家と多数派市民が一緒になり誤解や無理解を率先して助長している現代版の被爆者差別です。

挙句には被爆者側から「被爆者にとっては大事なことなので、虚偽が拡がるようなことはやめてください。困っています。怒っています」という強い抗議をされても、なお態度を改めず事実の黙殺を続けようとする。これが「意識せず無自覚なままに差別する側になること」への鈍感さと軽薄さ、醜悪さです。踏みつけている側にその自覚はなく、当事者意識も罪の意識もないことが一番の問題なのです。

「ずっとこちらの足を踏んでいますので、とにかくどけてください」と言うと、「いいえ、これは床です」と強弁され踏み続ける。「ここは床である」を政治家が訂正しないため多くの無関心な人達が足を床だと信じて疑わず次々と踏んでいく。

そして「足である」という当然のことを指摘している私をあれこれと非難し、口を塞ごうとしてくる人が何人もいました。

また、谷岡郁子・元議員の事実誤認による被爆者援護法についての不正確な発言が訂正されないことや、大山弘一市議(現・南相馬市議会議員)の拡散行為についても同様です。全員が政治家です。軽率かつ無責任です。

他人の大切な実人生に悪影響をそのまま及ぼしかねないことであり、本来は細心の注意を払って扱われるべきこと。私は軽視できません。そのことに直接的であれ間接的であれ、政治家があまりにも鈍感すぎる。影響力の大きな公職の立場としてもそうですが人間として、人に迷惑をかける間違いをすみやかに訂正するという簡単なことが何故きちんとできないのでしょう。

人々が原発事故被害の補償を政府に強く求める心情は理解できますが、1ミリシーベルトという数字だけにとらわれ過ぎて周りが見えなくなり嘘であろうと何であろうと押し通して被爆者を利用する。モラルも吹き飛んでしまう一部の人達は常軌を逸しています。最低限やっていいことと悪いことの区別さえもつかないのでしょうか。



以下でお話されている山田寿美子さんは、御自身も被爆者です。原爆により両親を亡くされて孤児として育ちました。その経験から長年にわたり被爆者相談員としてソーシャルワークを続けられ沢山の被爆者と向きあってこられました。被爆者の問題は今でも現在進行形であり決して過去ではありません。

山田さんのように、被爆者の事実を伝えようと地道な努力を続けてこられた方は沢山います。

今までの話とも関連するところがありましたので、この記事(ほんの一部)を掲載しておきます。
手帳を持てないままでいる被爆者だけに限らず、社会から捨て置かれている方たち全般についての想像力と配慮を、どんな理由であれ絶対に軽視してはならないことを、「保身を優先して上からの視点で眺めがちになる権力を持っている方」は特にしっかり肝に銘じてほしいと思います。





平和をたずねて:原爆写影 支援の恩返し/24 

人を大切にする社会を=広岩近広

毎日新聞 2014年06月19日 大阪朝刊

慰霊の夏が終わり、秋が去り、広島は師走を迎えていた。昨年12月9日、東京から法政大学中学高等学校の中学3年生が修学旅行にやってきた。ケアマネジャーの山田寿美子さんはかつての職場だった福島生協病院(広島市西区)近くの「いきいきプラザ」に、担当する17人の生徒を迎えた。
山田さんは広島県原爆被害者団体協議会(金子一士理事長)被爆者相談所の所長を務めている。週に1度、部会に出て相談員から報告を受けて内容を検討し合う。相談が多いのは、被爆者健康手帳の取得や原爆症の認定問題だと話した。生徒の一人が、健康手帳を取得できる割合を質問すると、山田さんは「直接被爆者」「胎内被爆者」など4タイプの原爆被爆者がいることを説明してこう答えた。
「たとえば被爆者健康手帳を申請するための相談を20人から受けたとして、私たちが努力しても数人しか認めてもらえません。だから被爆者の数は、国が発表している数字より多いはずです。高齢の被爆者は多重のがんなどの健康不安と生活不安を抱えて暮らしているので、これ以上苦しめてはなりません」
被爆者健康手帳にまつわる痛ましい相談も増えてきた。介護保険は1割負担であるが、被爆者は国などの助成により、負担金を免除されている。このため「被爆者の人はいいよね」とあからさまに言われて傷つけられることもあるという。
「四国の村では、たった一人の被爆者が村役場に、手帳を返したいと申し出たそうです」。山田さんは声を強めた。「被爆者が被爆者だと名乗れなくなると、核被害を訴える力を弱めてしまいます」
次世代を担う中学生に、山田さんは被爆孤児の体験を語り、チェルノブイリ原発事故の被災者との出会いを話した。最後にこう述べて締めくくった。
「人間は一人では生きていけません、つながりが必要です。つながり、関わり合いを持つなかで、自分を成長させていくことが大切です。人が大切にされる社会は、平等な社会であり、平和な社会です。皆さんの手で、そうした社会をつくってほしい」
このあと近くの福島地区原爆犠牲者慰霊之碑に生徒を案内した。折り鶴をささげ、師走の空の下で、平和を誓い合った。17人の生徒は東京に戻ると、感謝の手紙に感想を添えて山田さんに送っている。畑中夏葵(なつき)さん(15)はこうしたためた。

<過去は変えられないけど未来は変えられます。だから、山田さんの戦争のない核のない平和な世界という思いを胸に私たちが責任を持ち、たくさんの人と手をとり合いながら平和な世界を創り上げていこうと思います>
今夏、被爆地は69回目の原爆の日を迎える。そのとき山田さんは71歳になる。「原爆は、私のような被爆孤児をつくりました。このことを知ってほしいので、語り続けていきます」

(記事おわり)





2015年1月現在。公開されている広島県府中市の公式ページ冒頭部分です。70年後の今でも、これが現実です。







黒岩晴子(ソーシャルワーカー)
「原子爆弾被爆者の保健、医療、福祉を考える」







大里巌
「生存原爆被爆者の受けた被害と救済対策」





被爆者健康手帳の交付を受けようとする者は、その居住地の「都道府県知事」に申請しなければならず(被爆者援護法2条1項)、「都道府県知事」は、同申請に基づいて審査し、申請者が前記2(1)~(4)のいずれかに該当すると認めるときは、その者に被爆者健康手帳を交付する(同条3項)

健康管理 「都道府県知事」は、被爆者に対し、毎年、厚生労働省令で定めるところにより,健康診断を行い(被爆者援護法7条)、同健康診断の結果必要があると認めるときは、当該健康診断を受けた者に対し、必要な指導を行う(被爆者援護法9条)

医療特別手当の支給 「都道府県知事」は原爆症認定を受けた者であって当該認定に係る負傷又は疾病の状態にあるものに対し医療特別手当を支給する(24条1項) 上記の者は医療特別手当の支給を受けようとするときは上記の要件に該当することについて「都道府県知事」の認定を受けなければならない

特別手当の支給 都道府県知事は、原爆症認定を受けた者に対し、その者が医療特別手当の支給を受けている場合を除き、特別手当を支給する(被爆者援護法25条1項) 上記の者は、特別手当の支給を受けようとするときは、上記の要件に該当 することについて都道府県知事の認定を受けなければならない

都道府県知事は、被爆者であって、造血機能障害、肝臓機能障害その他の厚生労働省令で定める障害を伴う疾病(原子爆弾の放射能の影響によるものでないことが明らかであるものを除く。)にかかっているものに対し、健康管理手当を支給する(被爆者援護法27条1項)

保健手当の支給 都道府県知事は、被爆者のうち原子爆弾が投下された際に爆心地から2㎞の区域内に在った者又はその当時その者の胎児であった者に対し、これらの者が医療特別手当、特別手当、原子爆弾小頭症手当又は健康管理手当の支給を受けている場合を除き保健手当を支給する(被爆者援護法28条)

その他の手当等の支給 「都道府県知事」は、一定の要件を満たす被爆者等に対し,原子爆弾小頭症手当(被爆者援護法26条)、介護手当(被爆者援護法31条)等を支給する

原爆症認定の申請 原爆症認定を受けようとする者は,厚生労働省令で定めるところにより、その居住地の「都道府県知事」を経由して、厚生労働大臣に申請書を提出しなければならない(被爆者援護法施行令8条1項)

厚生労働大臣は、原爆症認定の申請書を提出した者につき原爆症認定をしたときは、その者の居住地等の「都道府県知事」を経由して、認定書を交付する (被爆者援護法施行令8条4項)


2014年12月11日木曜日

核の傷痕 医師の診た記録 〔郷地秀夫医師編〕




毎日新聞連載〔平和をたずねて〕からの転載です

郷地秀夫医師についての記事(計四回)を抜粋







平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/10 

人生を支配する病=広岩近広

毎日新聞 2014年09月23日 大阪朝刊
その症状は「晩年ブラブラ病」といえるものだった。被爆から60年もの歳月をへて、激しい倦怠(けんたい)感に襲われて何もできないと訴える高齢の被爆者が見られ出した。かつて被爆者は脱力感、無力感に悩まされた。病人らしくないのにブラブラしているので、いつしか「原爆ブラブラ病」と呼ばれた。だが、過去の症状ではなかったのである。
特定医療法人神戸健康共和会・東神戸診療所(神戸市中央区)の所長として、被爆者治療を続けている郷地秀夫医師は、これまで兵庫県下の2000人の被爆者を診てきた。250人の主治医でもある。郷地医師は語る。「体がひどくだるい、疲れる、胸が苦しい、下痢をする……と訴えは多様です。検査をしても、数値や画像で症状の説明ができる異常値や病変は見つかりません」
郷地医師は原爆症の認定申請にあたって、この症状を持つ8人の病名を「慢性原子爆弾症」と書いた。
「原爆ブラブラ病はもちろん、慢性原子爆弾症も日本の医学界では病名として認められていません。文献の検索をしても、原爆ブラブラ病に関するものは皆無です。もっともブラブラ病という呼び方には差別的なニュアンスが含まれているので、私は申請にあたり、慢性原子爆弾症と明記しました。ほかに病名が思い当たらなかったからです」
だが国は、「この病名では受け付けられない」とか「書類の不備」を理由に受理するのを引き延ばしたという。郷地医師は「高齢で慢性原子爆弾症になると寿命が短いのに、3年から4年も引っ張って却下された例も珍しくありません」と話し、事例をあげた。
長崎で幼児期に被爆した女性は2005年に「慢性原子爆弾症」で申請したが受理されなかった。その後、甲状腺がんが見つかり、再申請の末に原爆症と認定された。だが、2年後に膵臓(すいぞう)がんのため74歳で亡くなった。
別の女性被爆者は、原爆症と認定されるや離婚した。「あんな、いいご主人なのに」と周囲は驚いた。だが、彼女の夫は「晩年ブラブラ病」の妻を、簡単な家事しかしなくなった、適当にやっていると怒り始め、時には酒乱に走ることもあったらしい。
 「孤独な生活を我慢してきた彼女は、甲状腺がんで原爆症と認定されると、毎月13万5540円の医療特別手当が支給されるので、それを待って離婚したのです」。郷地医師はつらそうな表情で続けた。「彼女は心臓病が悪化して、まもなく亡くなりました。ぎりぎりに痛めつけられ、全身ボロボロになって死んだのです」
「慢性原子爆弾症」の女性は、概して家庭で悩み、男性は職場で悩んだ。自分に我慢を強いてきたが、それも限界に達して、郷地医師の診療を仰ぐのだった。

 「誰とも会話ができなくなって、診療所に見えられるのです」。郷地医師は、語調を強めた。「慢性原子爆弾症は、それ自体が被爆者の人生のすべてとなって支配し、苦しめています」



平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/11 

ガラス片、心も刺す=広岩近広

毎日新聞 2014年09月30日 大阪朝刊
被爆者の診療を30年余にわたって続けてきた東神戸診療所(神戸市中央区)の郷地秀夫所長が、最初に彼女を診たのは2003年のことだった。
「体中に数え切れないガラス片が残っているのですから、まさに満身創痍(そうい)でした」。郷地医師は続けて、こう語る。「ガラス片を摘出しても、傷口が硬くなっているため縫合できず、開放されたままの傷口も見られました」
彼女は14歳のとき、長崎で被爆した。爆心地から約1・1キロの兵器工場で、魚雷の部品を作っていた。爆風で吹き飛ばされ、顔から胸、手足にまでガラス片が突き刺さった。救出される途中で意識を失い、気づいたのは10日後である。一緒に働いていた3人の学友は爆死した。海軍病院のベッドに横たえられた彼女の体には、大きなガラス片を取り除いた傷口が、全身のあちこちに見られた。
その後、彼女は体内に残った無数のガラス片に苦しめられる。毎年、体のどこかに埋まっているガラス片が熱を帯び、化膿(かのう)するため摘出手術を受け続けた。1975年には太ももから5センチ大のガラス片を取り出した。その7年後には、右目の下、顎(あご)、首、右手などから10個以上を除去する。だが、元号が平成に変わっても、ガラス片の摘出手術は繰り返された。
彼女は、成人するまで鏡を見ず、死ぬことばかり考えていたという。郷地医師に、こう話している。「顔の洗い方しだいで、ピリピリと激しい痛みがはしります。どうして何十年もたって、ガラス片が化膿するのでしょうか」
郷地医師によると、このガラス片は原爆から放出された中性子線によって誘導放射能化されていたとみられる。彼女を突き刺したガラス片は放射性物質となり、体内から放射線を出しているため、傷も治りにくいし、化膿しやすい−−。郷地医師は「単なる体内異物ではありません。内部被ばくによる原爆症です」と断じる。
しかし、国は彼女の認定申請を却下した。郷地医師は今も怒りを隠さない。
「このような無残な体にされた被爆者を、原爆と関係がないなどと、どうして言えるのですか。単なる体内異物では説明がつかないし、長い間の傷の経過があり、それに伴う困難や苦しみまであるのですよ」
彼女は原爆症の認定を求めて、裁判に訴える。法廷でこう述べた。
 「被爆者は生き地獄からもがき、苦しみながら今日まで生きたえてきましたが、ともしびも、だんだんと、うすらえて、今にも消えそうです。どうか、あかりを、さしのべてください。お願いいたします」
法廷内のスクリーンに映し出された彼女のレントゲン写真には、ガラス片の白い影が浮かんでいた。裁判所は彼女を原爆症と認める判決を下した。
郷地医師は言った。「放射化された体内異物であるガラス片は、被爆者の体と心を傷つけ、複合障害を引き起こしていたのです」




平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/13 

ケロイドも放射線障害=広岩近広

毎日新聞 2014年10月28日 大阪朝刊
早春の3月14日、大阪地裁民事2部で原爆症認定集団訴訟の口頭弁論が開かれ、医師の証人尋問が行われた。証人は東神戸診療所長の郷地秀夫さんだった。原爆症と認めない国を相手に、被爆者が集団で訴えたノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟の支援医師である。

この日の1007号法廷は、支援の傍聴人で埋まっていた。証人の人定を済ませ、郷地医師が宣誓書を読み終えると、裁判長は「イスに座っても結構です」と伝えた。証言席の郷地医師は毅然(きぜん)として応じた。
「座ると気合が入らないので、このまま立たせてもらいます」
原告の一人で、14歳のときに広島で被爆した男性は、火傷瘢痕(はんこん)(ケロイド)を認定申請した。だが国は皮膚が快復するときに盛り上がってできた肥厚性瘢痕ではないかと主張し、原爆放射線の影響を否定した。
郷地医師は述べた。「爆心地から1・7キロの校庭で被爆しているので、大量の放射線を浴びているはずです。左半身の皮膚がなくなるほど、体の広範に火傷を負ったうえ、放射線急障害とみられる症状に苦しめられました。翌年の春になってもまだ火傷部分の化膿(かのう)が続き、治療には長い時間を要しています」
続いて郷地医師は、しみじみと言った。「危険な状態を乗り越えて、よく助かったと思います」
郷地医師が怒りをにじませたのは、原告のケロイドは放射線の影響というより衛生状態に起因している、と国が主張したことへの反論だった。
「アメリカは占領時、日本の医師が被爆者の研究をするのを、限られた協力者を除いて禁止しました。多くの医師はケロイドの原因を究明して、患者の治療に当たりたいと願っていただけに、悔しい思いをした」
このあと郷地医師は、広島大学医学部教授のエピソードを法廷で明かした。「ケロイドを研究しないと、何ともならない」と東大の先輩教授に相談したら、「何を言うんだ」と語気を荒らげて、こう諭されたという。「ろくなことにはならないから、ケロイドには手を出さないほうがよい」
郷地医師は証言席で右手を握り締めた。「一方で、アメリカは被爆者を対象に多くの研究をしてきたが、ケロイド研究はゼロといっていいほどです。放射線が人体に与える影響についての本にしても、もともと日本人はケロイドが生じやすかったのと、栄養状態が悪かったからだと、そう書いてあるだけです。原爆放射線による悲惨な実態を隠すためだったとしか、私には考えられません」

 郷地医師の批判は国に向かう。「原爆ケロイドが当時の栄養や衛生の状態に起因しているなどと主張するのは、被爆者、そして真摯(しんし)な態度で被爆者治療に取り組んできた医師に対する冒涜(ぼうとく)というしかありません」
 郷地医師は結んだ。「原告は、原爆ケロイドのすべてを備えた放射線障害です」
 傍聴席の支援者が一斉にうなずいた。


平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/14 

ゆがめられた真実=広岩近広

毎日新聞 2014年11月11日 大阪朝刊
「私は、原爆症に苦しむ被爆者を診ながら、あなたの病気の原因は原爆放射線によるものだとは言えませんと告げて、落胆させてきました」

東神戸診療所(神戸市中央区)の応接室で、所長の郷地秀夫医師はそう明かした。原爆症認定集団訴訟の法廷で、認定を認めない国の主張を論理的に突き崩した臨床医とは、まるで別人のように映った。
郷地医師は言った。「原爆放射線の被ばく線量を過小に評価し、だから放射線障害も過小に論じた研究を、私は信じていました」
郷地医師が被ばく医療の教科書にしたのは、原爆投下直後に米軍が設置したABCC(原爆傷害調査委員会)と、この機関を1975年から日米共同運営にした放影研(放射線影響研究所)の研究だった。
「ABCCは原子力を推進していくうえで不都合な情報を排除し、原爆放射線の危険性を低く評価してきたと思います。放影研は、内部被ばくに起因する残留放射線のデータが不確実ではないでしょうか」
そう述べてから、郷地医師は率直に語る。「しかし私は、当初、この研究機関が提示した知識によって被爆者の症状を判断してきました。被爆者が話す体験談と身体にこそ、被爆の実相と真実があるのだと後に気づいてから、生涯をかけて過ちを償う決意をしました。法廷で証言しているのも、そういうことなのです」
郷地医師は原爆症認定集団訴訟の支援活動に参加するなかで、次の「五つの原爆症像」のあることに気づいたという。

(1)米軍の原爆症=ABCCによる原爆の威力評価
(2)行政の政治的原爆症=多重障害の原爆症を放射線起因性に特化して判断
(3)司法上の原爆症=原爆症認定集団訴訟のなかで示された認定制度の不備
(4)医師の考える原爆症=郷地医師ら被爆者を支援している医師の見方
(5)被爆の実相としての原爆症=被爆者自身の体験

郷地医師は、(5)が(1)から(4)を包括して「一つの原爆症像」になったとき「原爆症が社会に理解されるはずです」と強調して、こう続ける。「私は、政治権力によってつくり出された原爆症の概念に毒されていました。医学者や科学者の考え方とは関係なく、その背景の力によって、真実がゆがめられてしまうこともあるのです」
郷地医師は、著書「『原爆症』 罪なき人の灯を継いで」(かもがわ出版)で明言した。<被爆国の日本の国民として、被爆の実相を知ることは義務であり、責任であるといえば言い過ぎであろうか? 原爆被害を葬り去るもの、それは誰でもない、被爆国・日本の国民、あなた方一人一人の意識に他ならない>

 この言葉は、被爆70年を前に、核廃絶を推し進める主役は誰であるかを、私たちに問いかけている。


2014年11月1日土曜日

広島から、長崎から: 訴訟支援の医師  司法判断と行政、乖離訴え  米記録精査、被ばく量を推計



来年で原爆投下から70年になりますが、長崎原爆の「被爆体験者」には被爆者健康手帳が交付されず、原爆症認定申請を却下された人の訴訟も相次ぐなど、被爆者援護を巡る問題は解決していません。「援護の外」に置かれた人たちを支える広島、長崎の医師に話を聞きました。

◇続く司法判断と行政との乖離−−広島共立病院健診センター長・青木克明さん(66)

−−被爆2世とのことですが、両親のどちらが被爆されたのですか。
◆母が松川町(現南区)に住んでいて、勤務先だった宇品の陸軍船舶司令部で被爆しました。当時は、近所の人たちが水主町(現中区)に勤労奉仕に出ていました。うちは祖母が母に「お勤めがあるから代わりに行く」と伝えて出ました。水主町まで向かう途中だった祖母は助かりましたが、大やけどを負います。(被爆死した)若い人たちが先頭の方を歩いていたということですから、母が出ていれば亡くなっていたかもしれません。
−−幼い頃から被爆体験を聞きましたか。
◆祖父母はよく語ってくれましたが、母はあまり話しませんでした。私は、昔から傷をつくる度に化膿(かのう)していました。成人した後になって、母は「自分の被爆のせいじゃないかと思っていた」と話してくれました。1948年生まれの私は、被爆時は母の卵巣にいたことでしょう。被爆2世というよりも「卵巣内被爆」と呼ぶのが実態に合っていると思います。
−−医師になろうと思ったのはいつごろ。
◆高校時代に大学進学を考えた時、医学部を選びました。大学ではしばらく広島を離れたので、被爆者を診ることはほとんどありませんでした。1990年に、被爆者に寄り添い、自身も被爆者で詩人でもある広島共立病院の丸屋博院長(当時)と話す機会があり、将来は広島に帰るつもりだったので「今なら自分のしてきたことを生かせる」と戻りました。
−−原爆症訴訟支援に長年携わられています。
 ◆2000年に最高裁で松谷英子さんが勝訴するまでは、原爆症の申請に必要な書類を書きはしましたが、認められるのは難しいものだと思っていました。それが裁判で道が広がると知り、広島地裁で06年に41人全員の勝訴判決が出された集団訴訟には最初から関わりました。次第に認定基準が緩和され、昨年12月には一部の非がん疾患で「放射線起因性」という言葉が消えましたが、それは言葉を具体的な距離や時間に置き換えただけで、現状制度の追認に過ぎません。司法判断と行政との乖離(かいり)は続き、さらなる抜本改正が必要です。

 また、認定されても3年ごとの更新で治ったと判断されると、支給される医療特別手当は特別手当に切り替えられ、手当が減額されます。引き続き医療特別手当が支給されるのは広島市では約8割、肺がんなどではもっと低い。国の被爆者関連予算の執行率は7割程度しかありません。高齢化し、健康状態が悪いなかで生活の糧を取り上げられるのはよくありません。【聞き手・加藤小夜】


◇広範囲被ばく米報告書に根拠−−長崎県保険医協会長・本田孝也さん(58)

 −−被爆体験者訴訟で「長崎では、被爆体験者がいた区域を含む広範囲で放射性降下物の健康影響があった可能性がある」との原告側意見書を提出されましたが、根拠を教えてください。
 ◆原爆投下の翌月の9月20日から10月6日に長崎に派遣され放射線を測定した米軍マンハッタン管区原爆調査団の最終報告書です。報告書は、長崎放送の記者が1995年に米国立公文書館からコピーを持ち帰り、長崎大の研究者が邦訳したものです。
 報告書には、旧長崎市から島原半島に至る284地点で測定された放射線のデータが記載されていました。そのデータを、原爆放射線の推定方式「DS86」で示された残留放射線の推定方式にあてはめて、原爆投下から1年間に原告がいた各地区の外部被ばく線量を推計しました。
 その結果、爆心地の東約8キロの矢上地区にいた第1陣原告の1年間の外部被ばく線量は25・5ミリシーベルトと推定されました。これは、福島第1原発事故で国が居住の可否の目安としている年20ミリシーベルトを超えるものです。
また、調査団のデータは、45年9月に枕崎台風などが上陸し風雨の影響を受けた後に測定したものですが、DS86は風雨の影響を考慮しないで被ばく線量を推定しています。風雨の影響を考慮した推定方法を用いると、矢上地区の原告の外部被ばく線量は64・9ミリシーベルトと、より大きくなります。
 −−意見書では各原告の甲状腺の被ばく線量も推計しています。

 ◆福島第1原発事故後に福島県飯舘村で測定された雑草の放射性物質の濃度を参考に、第1陣原告が長崎の各地区で汚染された野菜や果実を1日に200グラムずつ食べた場合のヨウ素131による甲状腺の被ばく線量を計算しました。外部被ばく線量の推定値が最も低かった茂木地区でも、甲状腺の被ばく線量は風雨の影響を考慮しない場合で5・6ミリシーベルト、考慮した場合は14・2ミリシーベルトとなり、国際放射線防護委員会(ICRP)が一般公衆の線量限度としている年1ミリシーベルトを超えています。他の核種による被ばくを考えれば、内部被ばく線量全体ではさらに大きくなると推定されます。
−−長崎原爆の放射性降下物による内部被ばくの影響だと考えられる例はありますか。

 ◆45年10月から九州帝大などが爆心地の東約3キロの西山地区で実施した研究では、住民の白血球が異常に増加し、46年4月にピークになります。原爆投下時には県外にいた人が、終戦後に西山地区に戻って生活するうちに白血球が増加した例もあり、内部被ばくの影響だと考えられます。【聞き手・樋口岳大】


■ことば

 ◇被爆体験者

 長崎県内に7187人いる。長崎の爆心から約7〜12キロで原爆に遭いながら、国の指定地域外のため「被爆者」と認められていない。2002年に支援事業が始まったが、国は「放射線による健康被害はないが、精神的要因の影響は認められる」として、医療費支給を精神疾患や合併症に限定し、がんなどは対象外。07年から被爆体験者約560人が被爆者健康手帳の交付を求めて提訴したが、第1陣訴訟は12年に長崎地裁で敗訴。本田さんは、福岡高裁で係争中の第1陣控訴審と、長崎地裁での第2陣訴訟に意見書を提出した。


■人物略歴

 ◇ほんだ・こうや

1956年、長崎市出身。慶応大医学部卒業後、神奈川、千葉の病院勤務を経て95年に長崎市中里町に内科医院を開業。同市東部の間の瀬地区で原爆投下後に降ったとされる黒い雨の調査や、米原爆傷害調査委員会(ABCC)職員が作成した黒い雨に関するリポートの分析などに取り組んできた。

■人物略歴

 ◇あおき・かつあき

 1948年、広島市出身。74年、横浜市大医学部卒。90年から広島共立病院で勤務し、副院長や院長を歴任した。被爆者支援広島ネットワークの代表世話人、核兵器廃絶をめざすヒロシマの会共同代表などを務める。