2016年2月23日火曜日

長崎被爆体験者訴訟 【長崎地裁の判決要旨】





2016年2月22日
長崎地裁・被爆体験者訴訟の判決要旨




<死亡した原告の訴訟継承と地位確認請求>
被爆者健康手帳の交付を受け、被爆者援護法による援護を受けられる権利は、一身専属的なもので相続の対象にならず、地位を継承できない。訴訟は原告の死亡で終了した。手帳の交付を受けていない段階で、援護法1条3号の「原爆の投下時やその後において身体に原爆の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」とする地位確認を求めることは、確認の利益がなく不適法だ。
<援護法の意義と立証の程度>
援護法1条3号にいう状況は、原爆の放射能で健康被害を生じる可能性がある事情の下にあったことと解するのが相当。原告らはその事実の存在について高度の蓋然(がいぜん)性を証明することが必要だ。
<手帳の交付申請却下>
爆心地から7.5キロ以上離れた被爆未指定地域には原爆から放出された初期放射線は届いていないから、未指定地域の住民の被爆の原因はもっぱら放射性降下物からの放射線だ。未指定地域の住民は、放射性降下物による外部被ばくと、放射性降下物を呼吸や飲食などで摂取することで、内部被ばくが生じるような状況にあった事実が認められる。
外部被ばくは100ミリシーベルト以下の低線量領域の被ばくで、内部被ばくは具体的な線量が明らかではない。未指定地域の住民の内部被ばくは、それのみで健康被害が生じる可能性があるほどの内部被ばくが生じる状況を認めるに足る証拠は見当たらない。しかし、低線量の外部被ばくでも人体(健康)に対する悪影響が生じる可能性があるというのが相当で、影響の程度は被ばく線量に比例するものとされているから、被ばくした線量を具体的に推計する必要がある。
日常生活で自然放射線によって世界平均で年間2.4ミリシーベルト程度の放射線被ばくが生じ、個人の被ばく線量の典型的な幅は1〜13ミリシーベルトだ。原爆投下による年間積算線量が、2.4ミリシーベルトの10倍を超える25ミリシーベルト以上である場合には、25ミリシーベルト前後の被ばくでの健康被害の報告、研究内容に照らすと、原爆の放射線により健康被害を生じる可能性がある事情の下にあったというのが相当だ。
原爆投下当時の戸石村と矢上村の一部に居住していた原告は、原爆投下時とその後、原爆投下による年間積算線量が25ミリシーベルト以上と推計される。年間積算線量を過剰に推計している可能性はあるが、内部被ばくが生じるような状況で、内部被ばくには危険性、特殊性があり、当時の生活状況や住居では、現在よりも生活環境中に存在する放射性物質が皮膚に接触したり、体内に取り込まれたりする可能性が高かったから、援護法1条3号の「身体に原爆の放射能の影響を受けるような事情の下にあった」というのが相当だ。
長崎県知事と長崎市長がこれらの原告の手帳交付申請を却下したことは違法で取り消されるべきで、知事と市長は、手帳を交付する義務がある。健康管理手当の支給認定申請を却下した処分は違法で、これも取り消されるべきだ。
その他の原告については、知事と市長が手帳交付申請を却下した処分に違法はなく、取り消しを求める請求には理由がない。訴えは、訴訟要件を欠き、不適法だ。健康管理手当の支給認定申請を却下した処分は適法というべきだ。


2016年2月2日火曜日

長崎被爆未指定地域「被爆体験者」の声(毎日新聞)



控訴審へ・被爆体験者の声:/1 「被爆者の権利勝ち取る」 森章弘さん /長崎
毎日新聞 2012年11月27日 地方版

◇森章弘さん(77)=東彼杵町

「灰などの放射性降下物で健康被害を受けた」と主張し、被爆者と認めるよう訴えた。だが、6月の長崎地裁判決は、全面敗訴だった。帰りの列車の中でぼう然とした。

「我々の被害を認めると、福島第1原発事故で被ばくした何十万という人の被害を認めなくてはならなくなる。だから負けたのではないか」。そんな思いすら頭をよぎった。

10歳の時、爆心の東約8キロの旧矢上村(現長崎市)で原爆に遭った。馬を見ていて、閃光(せんこう)と爆音に見舞われた。「昼間なのに薄暗くなった。真っ赤になった太陽だけは記憶にある」。間もなく体の半分が焼けただれた人が歩いて来た。家は玄関の戸が倒れ、ガラスが割れたので、黒っぽい灰が積もったカボチャ畑に布団を敷いて寝た。しばらくして髪の毛が抜けた。

戦後は「病気ばっかり」。30歳の頃、黄疸(おうだん)がひどくなって入院。行商をしていた66歳の時には、大腸がんと甲状腺の異常が見つかり、ともに手術を受けた。「原爆のせいとしか思えない」

佐世保の朝市で衣料雑貨を売りながら、訴訟を続ける。「地裁判決は憤り以外にない」と批判し、「死ぬまでに絶対、被爆者としての権利勝ち取る」と誓う。




控訴審へ・被爆体験者の声:/2 「裁判官もっと勉強して」 城戸ミヨ子さん /長崎
毎日新聞 2012年11月28日 地方版

◇城戸ミヨ子さん(68)=長崎市

原爆に遭ったのは1歳2カ月だった。「被ばくの証拠を出せと言われてもどうすればいいのか」。被爆体験者訴訟で訴えを却下した6月の長崎地裁判決に顔をゆがめた。原爆放射線の影響を受ける可能性があったことの「高度の蓋然(がいぜん)性」を原告が証明しなければならず、証明が不十分だと指摘した。

原爆投下時、爆心の東約8キロの旧矢上村(現長崎市)で、自宅の縁側で寝かされていた。後に母から「空が赤黒くなって風がすごいこと吹いて、ごみみたいなのが落ちてきた」と聞かされた。夕方、国道沿いにあった自宅には、傷ついた何十人もの避難者が「水をください」と訪ねてきた。母や兄は、ひしゃくで飲ませたという。

17歳の頃、歯茎が異常に腫れ、削り取る治療を受けた。48歳の時、子宮の腫瘍で、子宮と卵巣を摘出した。さらにリンパにがんが見つかり抗がん剤治療を受けた。58歳の時、皮膚組織が炎症を起こす蜂巣炎になった。

02年には、精神疾患などに限定して被爆体験者への医療費支給が始まったが、3年後には「記憶がない」と、打ち切られた。「母も亡くなり、造船所で被爆した父ももういない。私たちの体験はうそじゃない。裁判官はもっと勉強してほしい」




控訴審へ・被爆体験者の声:/3 病と原爆無関係「絶対うそ」 水田美智子さん /長崎
毎日新聞 2012年11月29日 地方版

◇水田美智子さん(69)=長崎市

甲状腺機能亢進(こうしん)症、慢性疲労症候群、変形性頸椎(けいつい)症、胃潰瘍……。養護学校の教諭だった99年、上司に提出した文書(コピー)には、多くの病名が記されている。

爆心の南西約10キロの旧香焼村(現長崎市)で原爆に遭った時、2歳8カ月。鮮明な記憶はない。後に姉から「母と一緒に買い物に行った帰り、山道の峠の近くで被爆した」と聞かされた。母ヨシエさんは、原爆のことをほとんど語らなかった。

中学の時、貧血がひどく、学校の集会などでたびたび倒れた。20代で自律神経失調症と診断された。50歳の時、「汗がひどくて、心臓がバクバクした」。甲状腺機能亢進症と診断された。その後もさまざまな病気に苦しみ、休職を余儀なくされた。

香焼村の造船所で被爆した父は胃がんで死亡。水田さんに被爆状況を教えてくれた姉も昨年7月に肺がんで逝った。叔母やいとこらもがんで苦しんだ。

被爆体験者訴訟で水田さんらは「原爆の放射性降下物で健康被害を受けた」と主張したが、6月の長崎地裁判決は「合理的根拠を欠く」と一蹴した。水田さんは「病気と原爆が関係ないっていうのは絶対にうそだ」。怒りをあらわにした。





控訴審へ・被爆体験者の声:/4 「放射能の灰かぶった」 里輝男さん /長崎
毎日新聞 2012年11月30日 地方版

◇里輝男さん(79)=長崎市

「真っ暗になって太陽だけがかすかに赤く見える。雨と灰が降った。あんなのは生まれて初めてやった」。原爆を受けた時の様子をそう証言した。

67年前、爆心の東約11キロの旧戸石村(現長崎市)で原爆に遭った。山で松やにを採っていると、閃光(せんこう)を感じ「バジャーン」という音がした。爆風で葉っぱが巻き上げられ、とっさに伏せた。辺りは真っ暗になり、太陽だけが赤く見えた。

「ちょっとしてからですね、灰がものすごくベロベロ降ってきたですね」。体中が真っ黒になった。紙幣も舞い落ち、母が拾った。家に帰ると、爆風で建具が倒れていた。雨も降った。7歳だった妹の山口千枝子さん(74)は庭で灰をかぶった。頭がただれ、髪の毛が抜けた。

自身も26歳の時、甲状腺がんと診断され手術を受けた。6年ほど前には大腸がんが見つかった。近所の人が何人も白血病で亡くなった、と訴える。体調が悪く、外出がままならない人も大勢いる。

繰り返し訴えてきたが、6月の長崎地裁判決は、原告の証言の信用性は低い、と切り捨てた。「放射能の灰をかぶったっちゅうのは事実やけん。被爆者として認めてもらいたい」。声を絞り出し、訴えた。




控訴審へ・被爆体験者の声:/5 「認知症の母原爆語れず」 梅野清子さん /長崎
毎日新聞 2012年12月01日 地方版

◇梅野清子さん(71)=長崎市

4歳で原爆に遭い、当時の記憶はほとんどない。近所の母・江上ニワさん(100)宅を訪ね、入浴やおむつ交換などの介助をしている。認知症が進み、語ることができない。

爆心の南西約10キロの旧深堀村(現長崎市)で原爆に遭った。覚えていないが、下痢や嘔吐(おうと)をしたという。一緒にいた母は後に「熱風が吹き、顔の右側が熱くなり、長崎の空が真っ赤になった」と教えてくれた。

被爆して顔に包帯を巻かれた叔母が連れて帰られた姿は覚えている。長崎医大病院にいた祖母と叔父は爆死。市内へ捜しに行った父は髪が抜け、歯茎から出血した。

子どもの頃から肺炎や関節炎、膵臓(すいぞう)炎などに見舞われ、45歳で胆のうを摘出した。一緒に原爆に遭った弟は2年前に65歳で亡くなった。被爆状況を知るのは、今では母が唯一の肉親だ。

訴えを全面的に退けた6月の長崎地裁判決は、原爆放射線で被害を受けた可能性の「高度の蓋然性」を原告らが証明しなくてはならないと指摘した。「原爆放射線で健康被害を受けた可能性があることを証明せよ」と。