2018年8月6日月曜日

広島に原爆投下3日後の写真、少女のその後の人生は



2018年8月5日(TBS)

広島に原爆投下3日後の写真、少女のその後の人生は

8月6日、広島は被爆73年となる「原爆の日」です。がれきの中に立ち尽くしていた少女の姿が、1枚の写真として今に残されています。少女はその後、どんな人生を送ったのか、家族の思いとともにその足跡をたどりました。
不安げな表情で、少女はカメラを見つめています。原爆投下から3日後、混乱が続く広島で新聞記者が撮影した写真です。ただ、右腕と顔を負傷した少女は誰なのか、70年以上わかっていませんでした。

「これが記憶にあった。このおかっぱ頭が」(藤井哲伸さん)
インターネットで偶然、この写真を目にした藤井哲伸さん(58)は、すぐにある人の面影に気付きます。藤井さんの母、幸子さんです。
「(母親と)似ているなと。決定的だったのは、顔かたちもそうだったけど、やっぱりこの右手のやけどを子どもの頃から知っていたのがあって」(藤井哲伸さん)
藤井さんが新聞社などに名乗り出たことで、少女は当時10歳だった幸子さんと確認されました。幸子さんは、爆心地からわずか1キロほどの自宅で被爆しました。すべての建物が破壊され、住民の4割が即死したという場所でしたが、奇跡的に一命をとりとめました。
「窓に向かって、右手をついて座っていたところにぱっと光が来て、右腕のところだけやけどをした」(藤井哲伸さん)


小学校の時はクラスのリーダーだったという幸子さん。広島の高校を卒業した後、1959年に結婚し、藤井さんと妹の2人の子どもに恵まれました。しかし、懸命に子育てをしていた30代の頃から、原爆の放射線の影響とみられる体調不良に苦しめられます。
闘病を続けた幸子さんは、藤井さんが高校に進学した直後、42歳の若さで亡くなりました。死亡診断書の病名は、骨髄がんでした。
「何も訳わからず亡くなられた方はたくさんいらっしゃるわけですから。少なくとも私は母親が被爆しても、何年かは母親と子どもの関係が作れたので、納得できる部分はある」(藤井哲伸さん)
広島の原爆資料館は来年、展示内容を大幅に変えてリニューアルオープンします。幸子さんの写真は、年間150万人を超える来館者を迎える資料館の入り口に大きなパネルにして展示されることになりました。
藤井さんは、幼いころの母の写真から「核兵器が長い間、人を苦しめることを知ってほしい」と話します。
「母親の人生を理解していただいたときには、核兵器はやはり将来にわたって悪影響を及ぼすというか、人類の未来、社会に対して全く無責任な武力だと」(藤井哲伸さん)
破壊された広島の街角に立ち尽くしていた少女は、核兵器が何をもたらすのかを訴え続けます。



2018年8月3日金曜日

原爆病院の被爆者 約4割がん




2018年8月3日(NHK 長崎放送)


被爆者の治療や健康管理を行う長崎市の日赤長崎原爆病院で、昨年度、入院して治療を受けた被爆者は1702人でこのうち、およそ4割はがんの治療だったことがわかりました。

日赤長崎原爆病院は毎年この時期に被爆者の診療状況を発表していて、3日は平野明喜院長が記者会見を開き、ことし3月までの1年間のまとめを明らかにしました。

それによると、昨年度、原爆病院に入院して治療を受けた被爆者は、前の年度より81人少ない1702人でした。

このうち最も多かった病気は「がん」で639人と全体の37.5%を占めました。

がんの種類は「肺がん」が219人と最も多く、「悪性リンパ腫」が52人、「大腸がん」が50人、「胃がん」が49人などとなっています。

また、入院している被爆者の平均年齢は2年前から80歳を超え、昨年度は80.5歳で、女性が81.6歳、男性が79.5歳となりました。

長崎原爆病院はことし5月に新病棟が開設され、外来患者の抗がん剤治療を受けられる治療室を拡大したほか、2年後にはがんの痛みを和らげる「緩和ケア病床」の運用も始める予定です。

日赤長崎原爆病院の平野明喜院長は「被爆者の治療や健康管理を行うのがこの病院の使命である。被爆者はがんが多く、在宅治療などを充実させるほか最新の医療を提供するなどして被爆者の治療に関わっていきたい」と話していました。




2018年8月2日木曜日

「被爆者健康手帳」申請の壁と低い交付率

年々立証難しく 「まずは相談を」

被爆者健康手帳の申請時には、原則として罹災(りさい)証明書や2人以上の第三者の証明を添えるなどとされる。だが、戦後70年以上が過ぎて被爆の立証が難しくなり、交付が認められる割合は減っている。厚生労働省によると、2013年度に交付が認められたのは申請の約47%だったが、年々低くなり、16年度は約34%だった。
日本原水爆被害者団体協議会の代表委員、田中熙巳さん(85)は「被爆者は高齢化し、幼少期に被爆した場合は特に証人を探すのが難しい」と話す。県原爆被害者の会の辻村さんは「証人がいないことで諦めている人はまだまだ多いと思う。まずは相談してほしい」と呼びかけている。

広島、長崎で原爆に遭ったとして被爆者健康手帳の交付を求める申請が、被爆から70年となった昨年8月以降の1年間で303件に上ることが、47都道府県と広島、長崎両市への取材で分かった。いまだに多くの申請がある背景には、被爆者が自身や子供の結婚などでの差別を恐れ長年申請をためらってきたことや、高齢になり医療援護の必要性が強まってきたことなどがあるとみられる。


被爆手帳申請 なお303件 「差別」に長年ためらい


2016年7月31日(毎日新聞)
広島、長崎で原爆に遭ったとして被爆者健康手帳の交付を求める申請が、被爆から70年となった昨年8月以降の1年間で303件に上ることが、47都道府県と広島、長崎両市への取材で分かった。いまだに多くの申請がある背景には、被爆者が自身や子供の結婚などでの差別を恐れ長年申請をためらってきたことや、高齢になり医療援護の必要性が強まってきたことなどがあるとみられる。

申請は、21自治体にあり、うち広島市134件、広島県64件、長崎市37件、長崎県11件と被爆地が8割を占めた。他に多かったのは、大阪府12件、福岡県9件、東京都7件など。
厚生労働省によると、申請数は2013年度719件、14年度582件、15年度436件−−と減少しているが、被爆者の平均年齢が80歳を超えた今もなお、申請が続いている。広島市の担当者は「差別があってすぐに申請できなかったという話や、体が弱ってきたので申請したという声をよく聞く」と説明。福岡県の担当者も「家族や子供への影響を考えて踏み切れなかった人や、被爆事実を証明する証人が探し出せないなどの理由であきらめていた人もいる」と話す。
一方、審査結果が出たうち交付は68件、却下は100件、審査中が129件で、却下が交付を大きく上回った。取り下げなどが6件あった。国は被爆当時の罹災(りさい)証明書や第三者2人以上の証明などを申請者に求めているが、高齢化した被爆者が自力で探し出すのはほぼ不可能な状態になっている。
長崎市は申請37件のうち6割超の25件を却下し、交付は1件にとどまる。同市の担当者は「年数がたち、証拠や第三者の証明が見つからないこともあり、なかなか取得につながっていない」と説明。広島県の担当者も「できるだけ客観的なもので被爆事実を証明してもらわなければならず苦労している」と語った。【樋口岳大、青木絵美】

救済の解決策を

被爆者問題に詳しい田村和之・広島大名誉教授(行政法)の話 おおむね10歳以上で被爆し、体験をよく覚えていた世代は高齢化で記憶があいまいになり、逆に若年被爆者には記憶がない人もいる。証拠や証人がなければ認めないという姿勢を行政がこのまま続けると、救済されるべき人が切り捨てられる可能性がある。知恵を出し合って解決策を考える必要がある。

被爆者手帳 交付3割どまり 昨年度申請 322件


2017年8月5日(毎日新聞)
広島、長崎で原爆に遭ったとして被爆者健康手帳の申請が昨年度約320件あり、交付が認められたのは3割にとどまることが厚生労働省への取材で分かった。医療援護の必要性などから申請は依然多いが、交付割合は年々減少傾向にある。原爆投下から72年が経過し、申請に必要な被爆の証明が困難になっている現状が浮き彫りになった。
    交付事務は各都道府県と広島、長崎両市が行い、厚労省によると、昨年度は26自治体に計322件の申請があり、交付は34%に当たる111件だった。交付の内訳は、広島市45件▽広島県12件▽神奈川県8件▽長崎県6件▽長崎市6件--などとなっている。
    一方、申請に対する交付件数と割合は、2013年度が申請719件に対して335件(47%)▽14年度が582件に対して244件(42%)▽15年度が436件に対して183件(42%)--で、交付割合は年々減っていた。
    国は申請する際、被災証明書など被爆を証明する書類や第三者による証言を求めている。ただ、申請件数が全国最多の広島市の担当者は「近年は証明書類の提出は少ない。日記や写真を持参する人が多いが、被爆が分かるものはごく一部。証人の記憶が明確でないことがある」とし、認定の難しさを指摘する。
    一方、手帳の申請が現在も300件を超すことについて、手帳取得の相談に当たる広島県原爆被害者団体協議会の佐藤奈保子さん(70)は「偏見を恐れて申請できなかった人たちが、高齢化で医療援護が必要となったりしたケースが多い。限られた時間の中で支援する我々も焦りを感じる」と話している。【山田尚弘】

    被爆手帳、交付わずか3割 証人が減少…認定のハードル高く


    2018/07/29付 西日本新聞

    終戦から73年を迎えようとする今も、原爆に遭ったことを証明する「被爆者健康手帳」の交付を求める人たちが後を絶たない。原爆放射線によるとみられる病気になり、健康不安や医療援護の必要性にさらされているからだ。ただ、第三者2人の証言が必要とされるなど認定のハードルは高く、交付割合はわずか3割にすぎない。支援者は「今の姿勢を行政が続ける限り、救済されるべき人が切り捨てられる」と訴える。
    厚生労働省によると、手帳の申請件数(交付件数)は、2013年度719件(335件)▽14年度582件(244件)▽15年度436件(183件)▽16年度322件(111件)▽17年度392件(122件)-。17年度の交付割合は31%で、年々下がり続けている。
    国は原則として、行政が発行した当時の罹災(りさい)証明書などの公的書類や、第三者2人以上の証言を求めている。公的書類が新たに見つかることはまずなく、証言頼みなのが実情。被爆者の高齢化で記憶があいまいだったり、幼児期の被爆で記憶が十分になかったりし、証言の信用性がないと判断されるケースもある。
    福岡市原爆被害者の会は11年以降、29人から手帳の申請について相談を受けた。結婚や就職における差別を懸念して、親が被爆を伏せていた人がほとんど。第三者の証言が得られないなどの理由で18人が申請できなかった。申請できた11人についても4人は証言の信用性などを理由に却下されたという。
    爆心地から約3キロの長崎市の自宅で被爆した平山美穂子さん(76)=福岡県=の場合、長崎市職員だった父は差別や偏見を恐れてか、市の原爆被害調査に平山さんの被爆を「なし」と回答していた。それを覆す第三者の証言も得られず、一時は諦めていたという。
    相談を受けた同会は、手帳を取得していた父自身も同じ調査に「なし」と回答していた点に注目。「原爆症の有無」と勘違いして回答した可能性があるなどの理由を添えて昨年末に申請した。福岡県は6月末、長崎市が保有する父親の手帳交付時の申請書を確認し、申請理由なども総合的に判断して平山さんを被爆者と認めた。
    同様に家族や親族が手帳を取得していた場合で、その申請書に本人の被爆の記述があった場合や、約9万人の被爆者を調査した米国の研究機関の調査票が後継団体の「放射線影響研究所」(広島市、長崎市)に残っていた例もある。いずれも手帳交付につながったが、こうした記録がなければ認定は難しい。
    同会相談活動委員長の木村誠吾さん(75)は「70年以上がたち、証拠や証人探しは困難になっている。行政は、本人の記憶の具体性など申述をじっくり聞いて判断してほしい」と話した。

    「被爆なし」記載も手帳交付 差別の恐れ考慮

    2018年8月1日(毎日新聞)

    福岡県が今年5~6月、男女2人の被爆者健康手帳の申請について、亡くなった親族が過去に手帳を取得した際の申請内容などを基に手帳を交付していたことが分かった。うち1人の女性は、1960年に父が自らの手帳を申請した書類には「被爆なし」と記載されていたが、県は「差別を恐れて子どもの被爆を隠していた可能性がある」などの事情を考慮して被爆者と認めた。

     国は手帳申請者に対し、罹災(りさい)証明などの公的書類や「第三者2人以上の証明」などの提出を求めているが、被爆から73年となる中で申請者自身が捜し出すのは困難になっている。2人の手帳取得を支援した福岡市原爆被害者の会は、福岡県の判断を「被爆者の実態を踏まえた柔軟な対応だ」と評価している。
     福岡県大野城市の平山美穂子さん(76)は3歳の時に長崎市の爆心地から約2.4キロの自宅で被爆したが、第三者の証人が見つからなかった。一方、被爆当時に同居していた父(72年に死去)は長崎市職員として勤務先で被爆し、15年後に手帳を取得していた。
     平山さんは、支援者の協力を得て父が申請した際の書類を長崎市への開示請求で入手。父は家族の被爆の有無を記載する欄に「被爆なし」と記していたことが分かった。父は生前、平山さんたちが差別を受けることを恐れてか、被爆についてほとんど話さなかったが、平山さんは姉や亡き母から被爆時の状況を聞かされていた。
     福岡県は平山さんについて、父の申請書類には「被爆なし」の記載があったものの▽一般的に被爆者が子どもの結婚などに支障が出ることを心配し被爆を隠すことがある▽当時3歳だった平山さんが1人で自宅を離れていたとは考えにくい--などとして6月に手帳を交付した。免疫が低下する病気を抱えている平山さんは「手帳はありがたい」と話す。
     また、5歳の時に長崎市で被爆した福岡市博多区の男性(78)は、差別を恐れる両親から「被爆したことは誰にも言ってはいけない」と口止めされていた。ともに被爆した兄は滋賀県から手帳交付を受けていたが、2004年に死亡。男性は、兄から生前にもらっていた申請書の下書きに「(男性も)被爆時に自宅にいた」との記載があったことを手がかりに昨年8月に福岡県へ申請。今年5月に手帳の交付を受けた。福岡県は、滋賀県に兄の申請内容を確認するなどしたとみられる。
     厚生労働省によると、被爆者健康手帳の申請は17年度に全国で392件あり、交付は98件。認定のハードルは高く、多くが却下されている。【樋口岳大】
    広島で自らも近距離被爆した居森清子さん(故人)は原爆で家族を全て失い孤児となりました。
    戦後は晩発性の原爆症による多重がんなどを度々発症、原爆の後遺症に苦しみました。

    30歳で結婚後、居森さんは夫のいた横浜に広島から移り住みました。
    最も身近な妻である清子さんの姿を通して、原爆被害について何も知らなかった夫も被爆者が抱えている苦しみを少しずつ時間をかけて理解していくようになりました。

    しかし様々な事情により理解者が誰もいないという孤独なケースも珍しくありません。

    関東の病院で居森さんと偶然出会った被爆者の女性から
    「被爆したことは私は隠しています。今さら主人にも子どもにも言えません」と、こっそり打ち明けられたという体験を、居森さんは後年語っています。

    (46分37秒~)
    https://youtu.be/Iqz6ODgSEe0?t=2797

    居森さん「そんな人、けっこういるんですよ」