2016年1月13日水曜日

鎌田七男医師 〔2014年6月 札幌講演〕


被爆者の人生に見る非人道性




 1961年卒業でインターンを終えて62年に広島大学 の「被爆内科」に入局した。
被爆内科は被爆者のための外来、入院できる内科で広島大に初めて創設された。
以来、52年間被爆者とお付き合いしてきた。





1.非人道性と核廃絶への流れ


今日はまず、「非人道性と核廃絶への流れ」と いうことについて少しだけ私の考えを述べたい。
次に核兵器の非人道性の証拠、3番目に被爆者の生涯から見た非人道性についてお話しする。4番目に時間があれば、入市被曝の人体への影響についてお話しする。

私は、大学在職中から、原爆を受けた方が 8月6日以降どういう生涯をたどったかを、ずっと調べさせていただいている。
500メートル以内で被爆して奇跡的に助かった方が20年経った段階で78人おられた。
この人たちの健康診断を私が担当することになり、今までずっとフォローさせてもらっている。
今存命の人は12人。その方々の生涯から見た非人道性ということを今日はお話ししたい。

まず、非人道性と核廃絶への流れでいうと、地雷とクラスター爆弾では、まず禁止条約を国際的に結んで、それから廃止に向かう、というのがこれまでの道順だが、核兵器に関しては禁止条約締結の前の「核不拡散」という状態で足踏みしている。
3年前、ジュネーブの国際赤十字から核兵器の非人道性の問題が投げかけられて議論され始めた。
広島や長崎の 名前は知られているけれども、広島で何が起こったか、核兵器の非人道性については、まだ十分に知られていないのではないか。
広島、長崎の過去をしっかりと世界に知らせていく必要がある。それが、われわれ広島の人間の務めだと思う。






2.核兵器使用が非人道的行為である証拠


2番目の核兵器の非人道的証拠の話に入る。
その本質は「遺伝子の異常を起こさせる」という一言に尽きる。
1945年3月10日の東京の空襲で10万人が亡くなり、焼夷弾で大勢の人がやけどをした。
東京でも全く同じ規模で死傷者が出ているけれども、あとあとがんが出てくるという放射線の影響はない。
広島や長崎にはそれがある。その1点がその後の大きな問題を起こしている。

身体的苦痛、精神的な苦痛、社会的な苦痛という面について、特に身体的な苦痛はその人の人生の中で、どういう時期に被爆したのかで人生の破壊度がさまざまに違う。
胎内被爆の場合、幼少期に被爆した場合、成・壮年期に被爆した場合に分けてお話しする。
それから全世代で共通して被爆の刻印として起こっている染色体異常について話を進めたい。



胎内被爆の場合


この写真の左側は胎内被爆の小頭症の方です。
長崎の方で、身長、体重も低いし、重度の精神遅滞もある。
小頭症で精神障害が出ている人が広島では48人、長崎で17人、合計で65人。存命の方は広島市に10人おられて、みなさん68歳になる。
いろんな行動に稚拙なところがあり、介護がどうしても必要だ。
広島の48人の父母は、最後の方がこの3月に亡くなられて、全員が亡くなられた。ずっと介護に当たったお父さん、お母さんはたいへんなご苦労だったと思う。
症状のない、いわゆる胎内被爆者は全国に約7千人、広島に2600人いる。



幼少期に被爆した場合

幼少期に被爆した人の身長や体重は被爆後の一時期成長が止まるので低身長、低体重の成人となる。



成・壮年期に被爆した場合


成・壮年期被爆では白血病が出てくる。
当時、治療しても白血病細胞がなくならないので苦労した。
今は慢性骨髄性白血病の場合、効く薬ができたので 98%の人が5年以上の生存となっている。
急性白血病の場合も7割の人が5年生存できるぐらい様変わりしている。
だから、白血病はしっかり検査をして、しっかりした所で治療を受けることに尽きる。
 白血病に次いで甲状腺がんが被爆後10年ぐらい経って出てくる。
それから乳がんが20年経って出てくる。
点線は有意性があるかもしれないという意味。 統計的に間違いないというのが実線。
ほかに肺がん、胃がん、結腸がん、皮膚がん、髄膜腫が出てくる(図 )。
髄膜腫というのは脳の中にある繊維細胞からできている膜にがんができる。
時間が経ってできるのは細胞分裂する頻度が少ないから、分裂を契機に間違いをおこす機会が少ないのでがんになるのが少ない。


白血病は線量が高いほど発生率が高い。別の言い方をすれば、被爆した場所と爆心地からの距離が短いほど起こりやすい。
また被爆時年齢が若いほど発生率が高い。
白血病の発生は被爆してから7~8年後にピークがある。
広島と長崎の違うところは広島の方が慢性骨髄性白血病の頻度が高い。
この理由はまだわからない。長崎はプルトニウム爆弾で広島は ウラニウム爆弾という違いがあるけれどもそれだけでは説明がつかない。

固形がんについても爆心地からの距離が短いほど、また若いほど発生率が高い。
がんは好発年齢の 40歳、50歳になったら出てくる。
ただ女性の乳がんは、普通の人が50歳ぐらいで、被爆者はそれより早く40歳ぐらいから発生する。
放射線を受けたら体が何年か年を取った体になるという考えがある。10年ぐらい年を取った体になったとすれば早目に乳がんになるというのは理解できる。疫学統計と符合するところがある。

次に多重がんの問題がある。
多くの被爆者に二つも三つもがんができる。
15歳の時、爆心地から1.7 キロメートルの家屋内で被爆した方の例では、1996 年に66歳で子宮体がんの手術をし、翌年、67歳で肺がんの手術をした。2000年には70歳で悪性リンパ腫が出ている。
この方の推定被曝線量は10ラド。
また同じく15歳の時、爆心地から530メートルの旧広島 中央電報電話局で被爆した方は、57歳で子宮体がん、 66歳で乳がん、69歳で髄膜腫と三つのがんを経験している。
この方の被曝線量は3.8シーベルトと推定されている。

私たちが1990年、最初に被爆者の髄膜腫を見つけた時、その方は、私は頭痛持ちだからといって、頭痛薬のノーシンを何回も飲んでおられた。
その年に導入されたCTで調べたら髄膜腫とわかった。
手術するかしまいかと言っている矢先に、別な人が頭が痛いというのでCTを撮ったらまた出た。
髄膜腫というのは普通、一人 の医師が一生涯の中で1人診断するかどうかと いわれるくらい珍しい病気なのに1年間に2人も診るというのはおかしいと感じた。
それで広島市内の七つの病院の脳外科にお願いして740人の手術例を集めてその被爆環境をみたら、みごとに被曝線量と関係があった。

臨床的に気がついたのは1990年だけれども、過去の手術例を調べてみると、1975年から少し上がっていた。1985年ぐらいにはかなりの高率で、増えていた。
一生に一回しか遭遇しないだろうというがんを2回経験した時に〝おかしい〟という勘を持たなかったらあれだけの研究はできなかった。

高齢の方が被爆された場合は、がんが出る前に脳卒中とか、心臓とか血管障害で亡くなっていることが多い。
というのは、放射線は全身に当たる。当然、 血管にも当たっており、血管の上皮細胞が傷ついている。傷ついた細胞が長い間にもろくなり、脳も心臓も血管がもろくなる。
1992年に放射線影響研究所が、2グレイ以上では血管障害がありそうだというデータを出している。500メートル以内で被爆した先ほどの78人の例でみると、初めのうちはほとんどが血管障害で亡くなっている。




染色体異常は被爆の刻印) 

全ての被爆時年代において、被爆の刻印として染色体異常とケロイドがみられる。
右のグラフは縦軸が染色体異常で、横軸が推定被曝線量。破線は信頼限界、直線が染色体異常と線量の関係を示す
(図2)。




被爆された方の腕の静脈から採血して染色体の検査をする。
8cc ぐらい血をもらい、それからリンパ球だけを取り出して2日培養し、染色体の解析をする。最低100個見て、切って並べて貼る。一人で作業したら2週間かかる。
その中に幾つの細胞に染色 体異常があるかを観察する。
例えば40%異常が出てきたら、横の直線とクロスしたところの下を見れば 4シーベルトと推定被曝線量が出る。
直接、当時のことを知らなくても、染色体異常率から当時の被曝線量を推定することが可能なわけである。
染色体は25年経っても、50年経っても証拠として残る被爆の刻印だ。


昭和60年代の話だが、被爆手帳をもらいたいけど証人がいないという人が、染色体の異常を被爆の証拠として手帳を取れたケースがある。
その人は大阪から宮崎までお祝い事に行く途中に広島に泊まって被爆した。
被爆の証人を探そうとしても、そんな人に証人はいない。ただ、川を渡ったという記憶が本人にはある。私は染色体異常率からみて鶴見橋あたりじゃないかと推定している。
そういうことにも使っている。
染色体異常は被爆距離が短いほど多く、また、長期間持続している。30年、50年経ってもしっかりと異常をキャッチできる。
それから全部の組織で異常が起こっている。さらに大事なことは幹細胞、組織の基になる細胞が傷ついている。だからその細胞が 死んで次の娘細胞に替わったとしても遺伝子異常は そのまま受け継がれる。
例えば腸の組織は1週間にいっぺん替わっていく。中には幹細胞が繰り返し分裂していくうちに狂っちゃうことがある。それががんとなる。


被爆者の方にお願いしてケロイドの皮膚を調べさせてもらった。
手背部の一部をとらせていただいて 培養したら染色体に異常があった。
ケロイドで一番困ることは、腕関節が拘縮して曲がらなくなる。足だったら拘縮して足首が動かなくなる。
広島も長崎も外科の先生方はそれを何とか使えるように、歩けるようにという努力をされた。

ある被爆者では口の周りがケロイドになっておちょぼ口で水を飲むのがせいぜいだった。それを3回手術して、最終的に口が開けられるようになった。
これは当時懸命に努力された原田東岷先生から拝借した写真(略)。これは1947年ごろの ABCC の写真(略)。
この坊やは被爆のため頭の毛が生えてこない。耳が小さくなっている。
 この女の子は右腕に大きなケロイドがある。
写真を撮られるのに自分の名前、撮影日の書かれた板を持たされており、何か情けない顔をしていて見るに忍びない。
1955年ごろ、電車の片隅に深々と帽子をかぶっている人や夏なのに長袖を着ている人をしばしば見かけた。何でだろうかと思っていたが、わからなかった。1962年から被爆した患者さんを診て、ケロイド部分を隠していたんだとわかった。






四つの精神的苦痛
  
精神的な苦痛についてお話ししたい。



①後悔と罪の意識

②限りない不安

③あの場面からの逃避

④死者への尊敬と畏敬の念



と、四つの項目にまとめさせてもらった。  
「これ以上の迷惑はかけたくない」という言葉も最近よく聞かれる。
被爆 当時、懸命に介護してもらってやっと助かった。
でも30年たってがんになって、胃を全部とった。まともな生活はできない。
さらに10年ぐらいたって、他の病気になり、「もうこれ以上、身内に迷惑かけたくない」というのが最近の心境だ。倉掛のぞみ園の入園者にもそういう気持ちがある。


①後悔と罪の意識  
助けを求める生徒や肉親を置き去りにして自分だけが生き残ったという罪の意識。あのとき助けられ なかったという後悔。
当然、被爆当時は人を助けられる状態ではなかったが。これがお詫びと償いの気持ちに変わってきている。

②限りない不安  
原爆症で亡くなっていく人を見て、いずれは自分も同じ結末が来るのでは、という不安。

③あの場面からの逃避  
地獄絵を見た人が、2度と同じような状況に遭遇したくないという気持ちから心に壁をつくってしまう。
この壁を守ろうとして、雷など強い光とか大きな音に対して拒絶反応を起こす。映画「父と暮せば」 には、雷が鳴ると押し入れに入るというシーンがある。

④死者への尊敬と畏敬の念  
被爆者は犠牲者に対して自分の身代わりで亡くなったと受け止め、尊敬と畏敬の念がある。手厚く弔うのがせめてもの罪滅ぼしだという気持ち。
この気持ちで国に対して造れと言ったのが国立原爆死没者 追悼平和祈念館として結実した。広島は2002年に、長崎はその翌年にできた。自分たちの身代わりになってくれた死者を弔う気持ちが強い。  
1965年から10年間に全国で600人の被爆者が自殺 したといわれる。心の面でも肉体的にも難しい。病気になったらやりきれない、ということかもしれない。




 広島市とNHKは記憶に残るシーンを被爆者から募った。
被爆30年後、2225枚の絵が集まった。2回目は57年後、1688枚の絵が集まった。
たとえばこの絵は、火が迫ってきた時にたくさんの人が防火用水に入り込んだところ。
その外側で亡くなった人もいる。それが頭に焼き付いている。
こちらはボートで兵隊さんが亡くなった人を引き上げようとしているところ。

たくさんの人が亡くなった。ああいう時の精神状況は、初期段階では過去のことを全部忘れてしまう、 健忘症という状況に陥る。
それからすごく走り回るなど、刺激的な状況になっている。
被爆者のそういう状況を永井隆先生も記録している。






4分の1は「体験話せない」


被爆体験を人に伝えられない人が23%もいる。
2012年、三原地区の900人を調査した結果わかった。
「しばしば話した」は40%だが、1回しか話さなかった人も数%いる。
あの苦しい経験を子どもにさえ話せていない。どういう気持ちなのだろうか。苦しいと思う。
早く人に話して心の中のものを吐露していただきたいと思うが、4分の1の方は今なお話せない。意識的に話さないのか、思い出したくないのか、いろいろな理由がある。

 「『空白の10年』被爆者の苦闘」(広島県被団協編) が2009年に出版された。
戦争直後の10年は非常に苦しかったが、何も記録に残ってない。それで被爆者に書いてもらった。

子どもに何か影響が出るのではとか、奇形児が生まれるのではとか、子どもはあきらめた方がいいのではないかとか、切実な言葉があった。

この図は、上が男性、下が女性。50㍕以上の放射線を受けた男性が非被爆者の女性とペアになっている場合と、50㍕以上の放射線を受けた女性が非被爆者の男性とペアになった場合の2通りの条件を 設定して子どもの数を見ていったら、戦後間もなくから、子どもを産むことを男性被爆者は気にしていないが女性被爆者は気にしている。
1963年に二つの 線はクロスしており、60年ごろから女性も子供を「産んでもいいのでは」という気持ちが強くなり、ある意味で不安が解消される状況になったと理解される。


社会的な苦痛について述べると、財産が完全になくなって貧困への道につながっている。
それから家族の喪失。原爆孤児から原爆孤老へ。
体が弱いから 就職も困難。
一時期、企業が被爆者を雇わなくなった。何回も休みをとられると仕事上まずいという理由だった。
そこで、ある程度働ける人を「にこよん」 という形で、自治体がサポートして雇った。日給が 240円だったから、そう呼ばれた。
土手を築いたり、整地をしたり、公園をきれいにしたりする。そういう形での失業対策事業が続いた。

現在の生活を調べてみると、1人暮らしが4分の 1、配偶者と2人暮らしと合わせると75%だった (2012年調査)。
今では非被爆の一般高齢者でも夫婦だけの暮らしが多いではないかといわれるとその通りだが、一般高齢者の場合、1人暮らしと合わせても半分ぐらいだ。被爆者の場合は多いといえる。





3.被爆者の生涯からみた非人道性


これは今日申し上げたいことの一つだが、被爆者の生涯から見た原爆の非人道性。
原爆の被害を横断的に見ることはこれまでお話ししてきたが、一人の人生を通して見た場合、どれだけの非人道性があるかを述べたい。

たとえば先に述べた78人の中の1人、H・Oさん は8歳で被爆した。
爆心から460メートル、地下室 にいたため奇跡的に助かった。
被曝線量は約2シー ベルト。9人家族だったが6人が爆死した(図)。


親類をたらい回しされ原爆孤児として似島学園に行き、清掃員として生活できるようになった。
やっと結婚生活を送れるようになったが、1991年にがんのため胃を完全に摘出した。
食道と腸をつなぎ、腸がある程度胃の働きをするが、逆流しやすい。貧血も出る。
2001年には孫(次男の長女)が白血病になった。
ところが、孫の病状について息子さんが話さない。
私はそれを聞き、息子さんはお父さんのことを慮って話さないのだろうと思った。親子でお互いに葛藤がある。
その後、間質性肺炎になる。放射線を浴びると肺が固くなって膨らまなくなる。そういう症状で苦しんだ。
そんな矢先、2007年に自ら命を絶った。

別の被爆者は1997年に喉頭がんになり、1年半かかったが治った。2002年には皮膚がんになる。
その翌年、皮膚筋炎になる。
2003年に嚥下性肺炎で75歳で亡くなった。
この人は「世界の人は『広島』と言う言葉は知っているが、広島で何が起こっているか知らない」と言っていた。
今日のテーマもまさにそこだが、一体広島、長崎で何が起こったのか、被爆の実態を知らせないといけないと一生懸命言っておられた。

これはある被爆者の生活歴と病歴。
爆心から410 メートルで被爆、推定被曝線量は4.9シーベルトで 染色体異常率が48.3%。生活歴をみると、原爆孤児になってその後結婚して早産と流産をしている。離婚、再婚、 自己破産を経験した。
友達の連帯保証人にご主人がなったが、友人が破産したため、自分が返済を迫られる状況になり、市営住宅にもいられず車上生活者になった。
ご主人が「家内を最後にお風呂に入れたいから」と、私にお金の振り込みを依頼してきた。
事情を聴くと、サラ金28社から借金し、ぐるぐる回していた。消費者センターに調べてもらうと、半分はヤミ業者だった。 登録していないところには払わなくていいと、横から言ってあげないと分からない。そういう自己破産ということがあった。
病歴としては、難聴や原爆 白内障、甲状腺がん手術、拘束型肺障害、大腸がん手術、緑内障、髄膜腫手術に多発性神 経鞘腫。
神経鞘腫は帯状疱疹のようにピリピリと痛む。神経には鞘があるが、その鞘に異常な塊ができ、 触っただけで痛む。それが何カ所もある。
この方は 四つもがんができた。なんと大変な人生だっただろうと思う。






被爆者の一言)  


被爆者の一言を取り上げてみる。
「主人のいない 人生はつらいね」というのは、被爆以来ひとり暮らしだった女性。
その意味については、いろいろ思いをはせることができる。
「自分の思いをプラスにしたら幸せになれるよ」と言っていた人は、貧困と二つのがんを経験された。
この人は昭和20年代の話をしてくれなかった。
再婚していた。5、6年前に娘 さん2人を連れて倉掛のぞみ園に来られた時、一目 見てその理由が分かった。長女は日本人の顔ではなかった。今は孫もいていい境遇になられた。
その人が「泥沼をはって歩いた八十路(やそじ)かな」と詠んだ手紙をきょう受け取った。泥沼をはうようにしてきたが、80歳にしてやっと安心できる生活になったという意味が込めてある。とても前向きに考えておられる方だ。
別の方は「苦悩を超えて生きていきます」という。女性で、顔にやけどがあり、40過ぎて結婚され子どもさんが1人いる。
三つのがんになって、それでもなお「生きていきます」と力強く言っておられる。


「プラス思考なら幸せになれる」と被爆者が言うとは考えられない、恨みつらみを言うはずだと外国の人は思うかもしれない。
そうじゃない。生きてきた苦しみを前向きに考えることが、周りの人への思いやりにつながる。被爆と阪神淡路大震災の両方を経験された別の方は「思いやりの心が大切」と言う。
震災の時は、町工場のボスだった。復興のため懸命 に働き、2年後に倒れた。腎臓透析患者となった。 被爆者がこのような言葉を残している。我々はしっかりしないといけないと勇気づけられる思いだ。被爆者は本当にいろんなことを教えてくれる。






4.入市被爆の人体への影響 
 

原爆が落ちても残留放射線が残らないというのが従来から言われているが、ネバダでの実験は砂漠だから、あるのは土だけ。
ニッケルがどのぐらいの放射化されるか、マンガンがどのぐらい放射化するかを計算しても大きな数字にはならない。
広島の場合は、鍋があり、五右衛門風呂があり、 鉄のものがいろんなところにある。電信柱には碍子があり硫黄がある。半減期14日間の放射性物質がそこらじゅうにばらまかれている状態であった。
砂漠 と広島、長崎とは違う。そのあたりの計算は全然されていない。だから当時は残留放射線ほとんどないだろうと。

それからさらにいうと、当日は火災があったがために、あとから市内に入った人はいないだろうということを、DS86線量評価報告に記載されている。
これは翌日以降に入った人たちについて、 線量を推定しますよと言っている。

でも、私はこれはおかしいなあと思った。
現に被爆者の人で6000人近くが当日市内に入っている。
その証拠として、軍隊の中に飯塚隊という部隊があり、 当日8月6日の夕方6時に、八丁堀に集合して、紙屋町の方向、爆心地のほうに向かって死体処理その他をおこなったと書いてある。
軍隊の人が入れるんだったら、一般市民の人も、親を捜しに、子どもを捜しに、自分の家に行って捜しているはずじゃないかと。
阪神・神戸大震災のときに、地震のあと、あの土埃の中で家族を捜していた。
私はあのシーンを見たときに、この土埃に放射能物質が入っておったらどうなるんだろうかと思った。
当時の広島・長崎を想起した。人びとは何も知らずに残留放射線を浴び、吸入していたと思われる。




軍隊記録に白血球が少なくなっていたとの記載

 被爆後の白血球減少についての、当時の記録があった。
昭和20年10月23日の「衛生速報」というのがあるのだが、これは8月6日以降、広島市内において作業する、あるいは滞在した136名中89名に白血球減少があったと記載されている。
中等度以下の減少者は8月6日直後より直ちに死体の収容のために爆心地から500m 以内に入った人に多く、滞在日数が長いものほど減少程度が著明だと。
また、爆心地から遠距離で作業した者には影響があまりなかったと。これほど明確なものはないということだ。

入市被爆の場合にも明らかにがんのリスクが高いという結果がでている。
私は入市した被爆者6,000 名、それから7日の17,000名、それから8日以降の 26,000人について、その中から何人白血病が発生したかというのを調査したら、男性の場合、病気になる発症率は6日の場合 SIR(年齢調整罹患比)で 3.44倍、一般の人に比べて高いということが分かった。
7日入市男性は有意差はない。女性の場合は当日入市した人は2.8倍高いことが分かった。
当日入市して白血病になった人が31名おられたが、その中の26名については、白血病の細胞の染色体異常を調べていた記録があった。私の手許のデータである。 この図(略)のようにいろんな複雑な異常があった。(おわり)







核の傷痕 医師の診た記録 [鎌田七男医師編]



「黒い雨」で複数がんか 広島の被爆者で確認