2017年1月19日木曜日

黒い雨、救われず70年 自宅近くで線引き、援護外に


2015年11月4日 朝日新聞


原爆ドームから北西へ約20キロ。広島市佐伯区湯来町麦谷(旧・広島県水内〈みのち〉村)の本毛(ほんけ)稔さん(75)は、水内川にかかる橋の上で言った。「この川が私たちの運命を分けた境界線です」



1945年8月6日朝、5歳だった本毛さんは麦を俵に入れる作業を自宅前で手伝っていた。突然「ピカーッ」とまぶしい光が広がり、「ドーン」と爆音が響いた。直後に広島市中心部がある山の向こう側から灰色の雲がもくもくと立ち上がり、空が暗くなった。間もなく雨が降り出し、そばにいた三つ年下の弟のシャツに黒い染みができた。

弟は日に日に体調が悪くなり、翌月に肝硬変で亡くなった。一緒に麦を俵に入れる作業をしていた母は戦後に白内障と緑内障を患って失明し、85歳だった2004年に胆囊(たんのう)がんで死亡。本毛さんはなかなか止まらない鼻血に20代まで悩まされ、母と同じ白内障の手術も3回受けた。

原爆投下から31年後の1976年、国は黒い雨が多く降ったとみられる地域を「大雨地域」として援護対象区域に指定。雨を浴びた人は公費で健康診断が受けられ、がんや肝硬変などにかかれば被爆者健康手帳を受け取れるようにした。一方で、「小雨地域」は援護対象から外された。

本毛さんが暮らしていた水内村では、村を流れる水内川が大雨地域と小雨地域の境界線となった。本毛さんの自宅は川のすぐ近く。目の前の対岸は大雨地域だったが、本毛さんが住む所は小雨地域とされた。

ログイン前の続き「川を挟んだだけで、雨の降り方が大きく変わるとは思えない」。そう考えた本毛さんは、援護区域の拡大を求める「広島県『黒い雨』原爆被害者の会連絡協議会」に入会。数年前からは70年前に目撃した「きのこ雲」の方角などを記した図を作り、水内川を援護対象区域の境界線とすることの不合理さを訴えている。本毛さんは言う。「言葉で訴えても伝わらない。機械的に線引きする理不尽さを分かってほしい」

原爆ドームから約20キロ北の広島県安芸太田町穴(旧・広島県安野村穴)にも、黒い雨が降った。松本正行さん(90)は雨を浴びた野菜を食べ、谷の水を飲んだが、住んでいた所は小雨地域とされた。

米作りの肥料にするために雨にぬれた下草を刈った際、手が真っ黒になったという。松本さんは「当時は何が危険なのかという情報さえなかった。毎日、黒い雨を食べていたようなもんじゃ」と振り返る。



■被爆認定求め4日提訴

黒い雨が降った地域にいた本毛さんら64人は4日、広島地裁に訴訟を起こす。いずれも広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会の会員たちで、被爆者健康手帳などの申請を却下した広島県や広島市を相手に処分の取り消しを求める。

黒い雨をめぐるこうした規模の集団訴訟は初めてとみられる。本毛さんらは国が定めた大雨地域と小雨地域の線引きについて「著しく不平等」と主張。黒い雨を体に浴びたり、雨が降った所で育った野菜を食べたりしたことで放射能の影響を受けたと訴える。

支援の輪も広がる。原爆症の認定訴訟などに携わってきた弁護士8人が弁護団を発足。被爆者団体の会員や大学生らが黒い雨を浴びた状況や今の健康状態などを聞き取り、裁判所に出す陳述書を作った。

訴訟費用のカンパといった面で協力する会のメンバーの青木克明さん(67)は言う。「在外被爆者の医療費訴訟をはじめ、国は裁判で負けなければ制度を変えない。法廷に立つ人たちを精いっぱい支援したい」

これに対し、広島県と広島市は「申請については現行の法令に基づいて判断している」との立場だ。一方で、ほかの2市5町とともに「黒い雨は国が言う範囲より広い地域で降った」とも指摘。県などが主張する降雨地域では、国が2013年度から健康相談を実施している。(岡本玄)



《広島大平和科学研究センター・川野徳幸教授の話》 黒い雨の問題には、被爆の瞬間だけではなく、その後の人生にも長く影響を及ぼす「核被害の本質」が表れている。原爆の投下から70年。黒い雨をどこで、どれだけ浴びたのかについて科学的に証明するのは簡単ではない。一方で、訴訟を起こそうとしている人たちは1本の線引きで援護を受けられず、放射線への不安を抱えて生きてきた。原発事故に見舞われた福島にも通じる問題でもあり、訴訟の行方に注目していきたい。



〈黒い雨〉 核爆発で生じた放射性物質と焼けた建物の煤などが上空に達し、雨雲ができた。広島の気象台は爆心地の「東西15キロ、南北29キロ」で黒い雨が降り、このうち「東西11キロ、南北19キロ」が大雨地域と分析。国は76年に大雨地域を援護対象区域に指定した。一方、被爆地・長崎でも限られた地域で黒い雨が降ったとされ、雨を浴びて被爆したと訴える訴訟も起きている。長崎地裁は12年6月の判決で「証拠がない」と退け、福岡高裁で控訴審が続いている。




「黒い雨」で被爆、認めて=仲間と集団提訴へ-広島の森園さん

「私はあの雨で被爆した」。70年前の原爆投下時に爆心地から約17キロ離れた現在の広島市安佐北区(旧安佐郡亀山村)で雨に打たれた森園カズ子さん(78)=同区=。長年の不調はあの「黒い雨」の影響ではないか。生き証人が少なくなる中、「原爆の影響がどこまであったのか明らかにしてほしい」との思いから、仲間と共に4日、被爆者手帳などの交付を求める訴訟を広島地裁に起こす予定だ。

1945年8月6日、綾西国民学校2年生だった森園さんは空が光り、校舎が揺れたのを感じた。防空壕(ごう)に入り1時間ほどして外に出ると、空が真っ黒に変わっていた。家に帰る頃には雨が降りだし、びしょぬれになって姉に怒られたのを覚えている。


直後から下痢や喉の腫れが続いた。大人になっても体調は改善しなかったが、仕事に追われ、気にする暇はなかった。40代のとき、テレビのニュースで黒い雨の認定範囲を知った。実家は範囲外で、「雨や粉が降ってきたのに」と思った。


その後、甲状腺に異常があると診断された。被爆したかと聞かれ、認定範囲外であることを伝えると、医師は「原爆に遭った人の症状だが」と首をひねった。卵巣の摘出手術などを受けており、70年前の雨との関係を疑いだした。


定年後、仲間と共に黒い雨の被害を訴える活動を始めた。影響はなかったと主張し続ける国に対し、「科学的な根拠を出せというが、今となっては記憶だけが頼り」と悔しさをにじませる。
森園さんは20代前半まで同じ土地に住み、雨が降り注いだ野菜などを食べていた。放射能については何も知らなかった。「影響はあったと思う」とつぶやいた。


訴訟について、「被爆者手帳をもらうことだけが目的ではない」と力を込める。「この範囲まで被爆したという事実を訴えたい。核兵器をつくるとどれだけの影響があるのか、若い人たちに伝えたい」。森園さんは裁判に最後の望みをかける。


2015/11/02)




小2男児が観察した「黒い雨」

小2男児が観察した「黒い雨」 

2015.8.16 産経


雨滴は懸濁液だった
小学校2年生の男の子は、大人に交じって市街を一望できる山の中腹に立っていた。
大人たちが騒然としている。降り始めた雨について話しているのだ。男の子は、右手を差し伸べ、手のひらに雨粒を受け止めて凝視した。
黒い雨だった。
昭和20年8月6日。爆心地から太田川放水路を隔てて北東約2キロに位置する広島市内の丘陵地での光景だ。
「敵は油を撒(ま)いとる」とつぶやく声も聞こえてきた。
眼下の市街地は、ことごとく破壊され、焦土と化していた。朝8時過ぎまでの日常は、別世界となって消えている。
そこに黒い雨が降ってきたのだ。大粒の雨だった。
《きっとこの雨は、大変重要なことだ。しっかり見て記憶しておこう》
2年生は、手のひらの黒い雨を観察した。
「透明な雨滴の中に、目に見えるほどの大きさの黒い小さな粒々がたくさんあって、それらが集まっている状態でした」
専門的に表現すればサスペンジョン(懸濁液)だったのだ。液体中に固体の微細粒子が浮遊している分散系の相である。

大人が見過ごした細部
爆心地から2・1キロしか離れていない三滝町の小学校の教室で原爆の爆風とガラスの破片を浴びて流血しながら、燃え上がった仮校舎を脱し、たった1人で山に逃れた男の子の人生に、70年の歳月が流れた。
「あの黒い雨が溶液でなかったと理解したのは、高校で物理や化学を学んだときでした」
東京農工大学客員教授で、旭化成の専務や特別顧問を務めた瀬田重敏さんが、黒い雨の記憶を語ってくれた。東大工学部応用化学科出身の科学者で、被爆者健康手帳も持っている。
黒い雨は、瀬田さんにとって気になる現象であり続けた。機会あるごとに、多くの証言記録を確認してきた。
「コールタールのような」「油のような」「ほこり混じり」の「真っ黒い雨」という表現は、共通項のように語られているのだが、7歳の小学生が手のひらで観察した、懸濁液としての黒い雨を明確に表現した描写には出合っていない、ということだ。
その理由は何か。都市の壊滅的破壊による極度の混乱と次なる攻撃への警戒などで大部分の人には黒い雨を詳細に見詰める暇はなかったのだろう。瀬田さんが見た雨以外に、別の所では異なる性状の黒い雨が降った可能性があるかもしれない。
いずれにしても素晴らしい観察力だと感心してしまう。大人たちからは報告例のない黒い雨の細部構造に、幼い子供が気付いていたのだから。

放射性ナトリウムの元
人々の体をぬらした黒い雨には放射性物質が含まれていた。
中公新書『核爆発災害』によると、マンガン56(半減期2・6時間)とナトリウム24(同15時間)であるという。
広島の原爆は地上600メートルの空中で炸裂(さくれつ)した。その一瞬で半径100メートル、中心温度100万度の火球が発生し、衝撃波の形で爆風が地上を襲った。
地面で反射した衝撃波は、建物を粉砕し、壁土など大量の土砂類を上空に巻き上げた。
原爆からの閃光(せんこう)熱線で、木材などの可燃物は一瞬で炎上し、煙や灰が空に昇った。
衝撃塵(じん)や火災煙中の物質は、原爆の核分裂連鎖反応で放出された中性子を浴びて放射化されていたのだった。
7歳の瀬田さんの手のひらでは、放射能を帯びたマンガンとナトリウムが、安定した鉄とマグネシウムに変わるべく、放射線の一種のベータ線を出しながら崩壊していたはずだ。
マンガンは屋根瓦や壁土などが供給源だが、『核爆発災害』によると、ナトリウムの一部は数万人の犠牲者に由来するという。人体にはナトリウムが多く含まれているためだ。
そう考えると、黒い雨の悲劇は重層性を帯びて原爆の残酷さを物語る。
幸いにも瀬田さんの一家は全員無事だった。お母さんと、この山で偶然の合流がかなうという僥倖(ぎょうこう)にも恵まれた。
瀬田さんの体験をうかがって「観察」ということの大切さを考えた。対象を深く見詰める行為は知的活動の源だ。その芽は幼年期から育つ。小学2年生の目を通して、黒い雨のひとつの姿が明確になったのだ。
体が何とか回復したのは4年生になってからと聞いた。

(論説委員・長辻象平)


2017年1月17日火曜日

カガツの底の住民証言・広島「黒い雨」



黒い雨:70年後の新証言 谷間の集落出身10人 広島

毎日新聞 2015年08月03日

◇被爆者援護対象区域外 健康手帳、集団申請きっかけに

広島原爆の爆心地から北西約20キロの広島県安芸太田町にある集落の出身者10人が今年、原爆投下後に降った放射性物質を含む「黒い雨」に遭ったと新たに証言した。うち4人は甲状腺にがんなどを患っている。この集落は国が被爆者援護法で定めた援護対象区域から外れており、10人は被爆者健康手帳の交付申請が却下されれば提訴する構えだ。広島市・県への同様の申請は計71人に上り、被爆から70年を経てなお、「被爆者認定」を求める動きが広がっている。

安芸太田町船場(ふなば)を中心とする集落で、地元では「すり鉢の底」を意味する「カガツの底」と呼ばれる。中国山地の切り立った山の間を蛇行して流れる太田川に沿った狭い谷間の集落だ。
10人は現在、集落に住んでいない。今年3月、広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会の呼びかけで、黒い雨体験者42人が広島市・県に被爆者健康手帳の交付を申請したのを知り、親族で連絡を取り合うなどして名乗りを上げた。
「川で泳いでいると、石の上に置いた白い体操服に黒い染みがついた」(当時10歳の女性)、「服を洗濯しても落ちなかった」(当時10歳の別の女性)。申請者たちの証言だ。原爆で母と姉、祖父を失った田村知子さん(81)=広島市中区=は当時、集落にいた。中学卒業後は兵庫県の紡績工場など職を転々とした。約30年前から甲状腺機能低下症に苦しみ、「体がだるくてどうにもならない。もう私も早く逝きたい」とこぼす。
7月中旬、70年前に黒い雨に打たれた3人のきょうだいが集落を訪ねた。上の姉(82)は「空が光り『ドーン』という音がしてしばらくすると、夕立が降った。落ちてきた(爆心地に近い)国民学校の出席簿を拾った」。下の姉(75)は「習字の燃えかすが落ちてきたが、黒い雨で真っ黒になっていた」と語り、弟(73)も「近所のおじさんと降ってきたものを拾って歩いた」と振り返った。
上の姉は白内障や肝炎、下の姉は肺を患う。幼い頃にリンパ節が腫れて高熱を出したという弟は5年前に前立腺がんになった。「大雨もよく覚えとる。被爆の対象外にされるのは歯がゆい」と憤る。
広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会事務局次長の松本正行さん(90)=安芸太田町=はこの集落で眠っていた証言を掘りおこし、甲状腺疾患やがんの発病者が多いことを突き止めた。「山に囲まれたこの地域では、放射性降下物がたまった可能性がある。援護の線引きから外れているのに体調が悪い人が多い。一刻も早く手帳を交付してほしい」と求める。
【加藤小夜】

◇対象区域の拡大、国側は認めず

黒い雨体験を訴える人たちによる被爆者健康手帳交付の集団申請は、今年3月に最初の42人が広島市と広島県に手続きを取り、その後も続いている。いずれも被爆者援護法に基づく援護対象区域外の住民。市と県は却下するとみられ、住民らは却下処分の取り消しを求める訴訟を広島地裁に起こす方針だ。
終戦直後に広島を調査した気象台技師らは、爆心地北西の楕円(だえん)状の地域(長径約19キロ、幅約11キロ)で大雨が降ったとまとめた。原爆の爆風で、すすやほこりが巻きあげられ、放射性物質を含む雨になった。国は1976年、この区域を援護対象区域に指定。区域内にいた人は定められた病気になれば被爆者健康手帳を取得でき、医療費が無料になる。
市と県は2010年、独自のアンケート結果を基に区域を約6倍に拡大するよう要望したが、これまで国側は認めていない。


2017年1月7日土曜日

長崎原爆:「救護被爆者」がん多発



長崎に原爆が投下された直後、長崎県大村市の「大村海軍病院」に収容された被爆者らを救護した軍医や衛生兵、看護師らが、がんや肝機能障害、白内障などを、一般より高い率で発症していることが、弁護士らの調査で分かった。

被爆者援護法は、広島・長崎市外で救護活動に携わった人も「救護被爆者」として原爆症認定の対象にしているが、認定例は報告されていない。調査に加わった澤田昭二・名古屋大名誉教授(素粒子物理学)は「被爆者の衣服や髪に付いた放射性微粒子を医療従事者が吸い込み、体内で被ばくし続ける内部被ばくによる健康被害の可能性が高い」と指摘。調査結果は、救護被爆者の原爆症認定に向けた一助となりそうだ。

調査は05年11月~06年11月、同病院の元職員約700人に救護状況や健康状態に関する質問状を送付して実施。遺族を含め約120人から回答があり、うち実際に救護活動に当たった人は73人(男性32人、女性41人)だった。救護被爆者への原爆放射線の影響に関する調査は過去に例がない。

1945年8月9日の原爆投下後、長崎市の北約20キロの同病院には、救援列車やトラックで被爆者千数百人が運び込まれ、約860人の病院職員が救護に当たった。
全国で266人の被爆者が起こしている原爆症認定訴訟の原告に、当時の同病院看護師1人も参加。同病院で救護に当たった人にがん死亡者が異常に多いと聞いたことから、近畿弁護団が統計の専門家と共に調査した。

調査結果は、被爆者278人、非被爆者530人を対象にした「04年くまもと被爆者健康調査プロジェクト04」などと比較して分析。同病院の救護被爆者73人のうち25人(34.2%)ががんを発症しており、「くまもと04」の非被爆者の発症率(9.7%)や遠距離・入市被爆者(19.9%)よりも高率だった。また、肝炎の発症率も「くまもと04」の非被爆者の約2倍。白内障や変形性関節症、前立腺肥大(男性)の発症率も、他調査での非被爆者に比べて高かった。脱毛や下痢など被爆者特有の急性症状も多くの回答者にみられた。

被爆者手帳所持者のうち、疾病が原爆に起因し治療が必要な「原爆症」と認定された人には医療特別手当が支給されるが、認定は手帳所持者の1%未満の2242人。爆心から2キロ以遠の「遠距離被爆」や、被爆地に後日入った「入市被爆」でも、ほとんど認定されていない。

救護被爆として手帳を所持する2万5566人については、放射線の影響はほとんどないとして、原爆症認定申請を却下されてきた。

 (毎日新聞 2007.08.04)