2017年1月19日木曜日

小2男児が観察した「黒い雨」

小2男児が観察した「黒い雨」 

2015.8.16 産経


雨滴は懸濁液だった
小学校2年生の男の子は、大人に交じって市街を一望できる山の中腹に立っていた。
大人たちが騒然としている。降り始めた雨について話しているのだ。男の子は、右手を差し伸べ、手のひらに雨粒を受け止めて凝視した。
黒い雨だった。
昭和20年8月6日。爆心地から太田川放水路を隔てて北東約2キロに位置する広島市内の丘陵地での光景だ。
「敵は油を撒(ま)いとる」とつぶやく声も聞こえてきた。
眼下の市街地は、ことごとく破壊され、焦土と化していた。朝8時過ぎまでの日常は、別世界となって消えている。
そこに黒い雨が降ってきたのだ。大粒の雨だった。
《きっとこの雨は、大変重要なことだ。しっかり見て記憶しておこう》
2年生は、手のひらの黒い雨を観察した。
「透明な雨滴の中に、目に見えるほどの大きさの黒い小さな粒々がたくさんあって、それらが集まっている状態でした」
専門的に表現すればサスペンジョン(懸濁液)だったのだ。液体中に固体の微細粒子が浮遊している分散系の相である。

大人が見過ごした細部
爆心地から2・1キロしか離れていない三滝町の小学校の教室で原爆の爆風とガラスの破片を浴びて流血しながら、燃え上がった仮校舎を脱し、たった1人で山に逃れた男の子の人生に、70年の歳月が流れた。
「あの黒い雨が溶液でなかったと理解したのは、高校で物理や化学を学んだときでした」
東京農工大学客員教授で、旭化成の専務や特別顧問を務めた瀬田重敏さんが、黒い雨の記憶を語ってくれた。東大工学部応用化学科出身の科学者で、被爆者健康手帳も持っている。
黒い雨は、瀬田さんにとって気になる現象であり続けた。機会あるごとに、多くの証言記録を確認してきた。
「コールタールのような」「油のような」「ほこり混じり」の「真っ黒い雨」という表現は、共通項のように語られているのだが、7歳の小学生が手のひらで観察した、懸濁液としての黒い雨を明確に表現した描写には出合っていない、ということだ。
その理由は何か。都市の壊滅的破壊による極度の混乱と次なる攻撃への警戒などで大部分の人には黒い雨を詳細に見詰める暇はなかったのだろう。瀬田さんが見た雨以外に、別の所では異なる性状の黒い雨が降った可能性があるかもしれない。
いずれにしても素晴らしい観察力だと感心してしまう。大人たちからは報告例のない黒い雨の細部構造に、幼い子供が気付いていたのだから。

放射性ナトリウムの元
人々の体をぬらした黒い雨には放射性物質が含まれていた。
中公新書『核爆発災害』によると、マンガン56(半減期2・6時間)とナトリウム24(同15時間)であるという。
広島の原爆は地上600メートルの空中で炸裂(さくれつ)した。その一瞬で半径100メートル、中心温度100万度の火球が発生し、衝撃波の形で爆風が地上を襲った。
地面で反射した衝撃波は、建物を粉砕し、壁土など大量の土砂類を上空に巻き上げた。
原爆からの閃光(せんこう)熱線で、木材などの可燃物は一瞬で炎上し、煙や灰が空に昇った。
衝撃塵(じん)や火災煙中の物質は、原爆の核分裂連鎖反応で放出された中性子を浴びて放射化されていたのだった。
7歳の瀬田さんの手のひらでは、放射能を帯びたマンガンとナトリウムが、安定した鉄とマグネシウムに変わるべく、放射線の一種のベータ線を出しながら崩壊していたはずだ。
マンガンは屋根瓦や壁土などが供給源だが、『核爆発災害』によると、ナトリウムの一部は数万人の犠牲者に由来するという。人体にはナトリウムが多く含まれているためだ。
そう考えると、黒い雨の悲劇は重層性を帯びて原爆の残酷さを物語る。
幸いにも瀬田さんの一家は全員無事だった。お母さんと、この山で偶然の合流がかなうという僥倖(ぎょうこう)にも恵まれた。
瀬田さんの体験をうかがって「観察」ということの大切さを考えた。対象を深く見詰める行為は知的活動の源だ。その芽は幼年期から育つ。小学2年生の目を通して、黒い雨のひとつの姿が明確になったのだ。
体が何とか回復したのは4年生になってからと聞いた。

(論説委員・長辻象平)