毎日新聞連載〔平和をたずねて〕からの転載です
郷地秀夫医師についての記事(計四回)を抜粋
平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/10
人生を支配する病=広岩近広
毎日新聞 2014年09月23日 大阪朝刊
その症状は「晩年ブラブラ病」といえるものだった。被爆から60年もの歳月をへて、激しい倦怠(けんたい)感に襲われて何もできないと訴える高齢の被爆者が見られ出した。かつて被爆者は脱力感、無力感に悩まされた。病人らしくないのにブラブラしているので、いつしか「原爆ブラブラ病」と呼ばれた。だが、過去の症状ではなかったのである。
特定医療法人神戸健康共和会・東神戸診療所(神戸市中央区)の所長として、被爆者治療を続けている郷地秀夫医師は、これまで兵庫県下の2000人の被爆者を診てきた。250人の主治医でもある。郷地医師は語る。「体がひどくだるい、疲れる、胸が苦しい、下痢をする……と訴えは多様です。検査をしても、数値や画像で症状の説明ができる異常値や病変は見つかりません」
郷地医師は原爆症の認定申請にあたって、この症状を持つ8人の病名を「慢性原子爆弾症」と書いた。
「原爆ブラブラ病はもちろん、慢性原子爆弾症も日本の医学界では病名として認められていません。文献の検索をしても、原爆ブラブラ病に関するものは皆無です。もっともブラブラ病という呼び方には差別的なニュアンスが含まれているので、私は申請にあたり、慢性原子爆弾症と明記しました。ほかに病名が思い当たらなかったからです」
だが国は、「この病名では受け付けられない」とか「書類の不備」を理由に受理するのを引き延ばしたという。郷地医師は「高齢で慢性原子爆弾症になると寿命が短いのに、3年から4年も引っ張って却下された例も珍しくありません」と話し、事例をあげた。
長崎で幼児期に被爆した女性は2005年に「慢性原子爆弾症」で申請したが受理されなかった。その後、甲状腺がんが見つかり、再申請の末に原爆症と認定された。だが、2年後に膵臓(すいぞう)がんのため74歳で亡くなった。
別の女性被爆者は、原爆症と認定されるや離婚した。「あんな、いいご主人なのに」と周囲は驚いた。だが、彼女の夫は「晩年ブラブラ病」の妻を、簡単な家事しかしなくなった、適当にやっていると怒り始め、時には酒乱に走ることもあったらしい。
「孤独な生活を我慢してきた彼女は、甲状腺がんで原爆症と認定されると、毎月13万5540円の医療特別手当が支給されるので、それを待って離婚したのです」。郷地医師はつらそうな表情で続けた。「彼女は心臓病が悪化して、まもなく亡くなりました。ぎりぎりに痛めつけられ、全身ボロボロになって死んだのです」
「慢性原子爆弾症」の女性は、概して家庭で悩み、男性は職場で悩んだ。自分に我慢を強いてきたが、それも限界に達して、郷地医師の診療を仰ぐのだった。
「誰とも会話ができなくなって、診療所に見えられるのです」。郷地医師は、語調を強めた。「慢性原子爆弾症は、それ自体が被爆者の人生のすべてとなって支配し、苦しめています」
平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/11
ガラス片、心も刺す=広岩近広
毎日新聞 2014年09月30日 大阪朝刊
被爆者の診療を30年余にわたって続けてきた東神戸診療所(神戸市中央区)の郷地秀夫所長が、最初に彼女を診たのは2003年のことだった。
「体中に数え切れないガラス片が残っているのですから、まさに満身創痍(そうい)でした」。郷地医師は続けて、こう語る。「ガラス片を摘出しても、傷口が硬くなっているため縫合できず、開放されたままの傷口も見られました」
彼女は14歳のとき、長崎で被爆した。爆心地から約1・1キロの兵器工場で、魚雷の部品を作っていた。爆風で吹き飛ばされ、顔から胸、手足にまでガラス片が突き刺さった。救出される途中で意識を失い、気づいたのは10日後である。一緒に働いていた3人の学友は爆死した。海軍病院のベッドに横たえられた彼女の体には、大きなガラス片を取り除いた傷口が、全身のあちこちに見られた。
その後、彼女は体内に残った無数のガラス片に苦しめられる。毎年、体のどこかに埋まっているガラス片が熱を帯び、化膿(かのう)するため摘出手術を受け続けた。1975年には太ももから5センチ大のガラス片を取り出した。その7年後には、右目の下、顎(あご)、首、右手などから10個以上を除去する。だが、元号が平成に変わっても、ガラス片の摘出手術は繰り返された。
彼女は、成人するまで鏡を見ず、死ぬことばかり考えていたという。郷地医師に、こう話している。「顔の洗い方しだいで、ピリピリと激しい痛みがはしります。どうして何十年もたって、ガラス片が化膿するのでしょうか」
郷地医師によると、このガラス片は原爆から放出された中性子線によって誘導放射能化されていたとみられる。彼女を突き刺したガラス片は放射性物質となり、体内から放射線を出しているため、傷も治りにくいし、化膿しやすい−−。郷地医師は「単なる体内異物ではありません。内部被ばくによる原爆症です」と断じる。
しかし、国は彼女の認定申請を却下した。郷地医師は今も怒りを隠さない。
「このような無残な体にされた被爆者を、原爆と関係がないなどと、どうして言えるのですか。単なる体内異物では説明がつかないし、長い間の傷の経過があり、それに伴う困難や苦しみまであるのですよ」
彼女は原爆症の認定を求めて、裁判に訴える。法廷でこう述べた。
「被爆者は生き地獄からもがき、苦しみながら今日まで生きたえてきましたが、ともしびも、だんだんと、うすらえて、今にも消えそうです。どうか、あかりを、さしのべてください。お願いいたします」
法廷内のスクリーンに映し出された彼女のレントゲン写真には、ガラス片の白い影が浮かんでいた。裁判所は彼女を原爆症と認める判決を下した。
郷地医師は言った。「放射化された体内異物であるガラス片は、被爆者の体と心を傷つけ、複合障害を引き起こしていたのです」
平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/13
ケロイドも放射線障害=広岩近広
毎日新聞 2014年10月28日 大阪朝刊
早春の3月14日、大阪地裁民事2部で原爆症認定集団訴訟の口頭弁論が開かれ、医師の証人尋問が行われた。証人は東神戸診療所長の郷地秀夫さんだった。原爆症と認めない国を相手に、被爆者が集団で訴えたノーモア・ヒバクシャ近畿訴訟の支援医師である。
この日の1007号法廷は、支援の傍聴人で埋まっていた。証人の人定を済ませ、郷地医師が宣誓書を読み終えると、裁判長は「イスに座っても結構です」と伝えた。証言席の郷地医師は毅然(きぜん)として応じた。
「座ると気合が入らないので、このまま立たせてもらいます」
原告の一人で、14歳のときに広島で被爆した男性は、火傷瘢痕(はんこん)(ケロイド)を認定申請した。だが国は皮膚が快復するときに盛り上がってできた肥厚性瘢痕ではないかと主張し、原爆放射線の影響を否定した。
郷地医師は述べた。「爆心地から1・7キロの校庭で被爆しているので、大量の放射線を浴びているはずです。左半身の皮膚がなくなるほど、体の広範に火傷を負ったうえ、放射線急障害とみられる症状に苦しめられました。翌年の春になってもまだ火傷部分の化膿(かのう)が続き、治療には長い時間を要しています」
続いて郷地医師は、しみじみと言った。「危険な状態を乗り越えて、よく助かったと思います」
郷地医師が怒りをにじませたのは、原告のケロイドは放射線の影響というより衛生状態に起因している、と国が主張したことへの反論だった。
「アメリカは占領時、日本の医師が被爆者の研究をするのを、限られた協力者を除いて禁止しました。多くの医師はケロイドの原因を究明して、患者の治療に当たりたいと願っていただけに、悔しい思いをした」
このあと郷地医師は、広島大学医学部教授のエピソードを法廷で明かした。「ケロイドを研究しないと、何ともならない」と東大の先輩教授に相談したら、「何を言うんだ」と語気を荒らげて、こう諭されたという。「ろくなことにはならないから、ケロイドには手を出さないほうがよい」
郷地医師は証言席で右手を握り締めた。「一方で、アメリカは被爆者を対象に多くの研究をしてきたが、ケロイド研究はゼロといっていいほどです。放射線が人体に与える影響についての本にしても、もともと日本人はケロイドが生じやすかったのと、栄養状態が悪かったからだと、そう書いてあるだけです。原爆放射線による悲惨な実態を隠すためだったとしか、私には考えられません」
郷地医師の批判は国に向かう。「原爆ケロイドが当時の栄養や衛生の状態に起因しているなどと主張するのは、被爆者、そして真摯(しんし)な態度で被爆者治療に取り組んできた医師に対する冒涜(ぼうとく)というしかありません」
郷地医師は結んだ。「原告は、原爆ケロイドのすべてを備えた放射線障害です」
傍聴席の支援者が一斉にうなずいた。
平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/14
ゆがめられた真実=広岩近広
毎日新聞 2014年11月11日 大阪朝刊
「私は、原爆症に苦しむ被爆者を診ながら、あなたの病気の原因は原爆放射線によるものだとは言えませんと告げて、落胆させてきました」
東神戸診療所(神戸市中央区)の応接室で、所長の郷地秀夫医師はそう明かした。原爆症認定集団訴訟の法廷で、認定を認めない国の主張を論理的に突き崩した臨床医とは、まるで別人のように映った。
郷地医師は言った。「原爆放射線の被ばく線量を過小に評価し、だから放射線障害も過小に論じた研究を、私は信じていました」
郷地医師が被ばく医療の教科書にしたのは、原爆投下直後に米軍が設置したABCC(原爆傷害調査委員会)と、この機関を1975年から日米共同運営にした放影研(放射線影響研究所)の研究だった。
「ABCCは原子力を推進していくうえで不都合な情報を排除し、原爆放射線の危険性を低く評価してきたと思います。放影研は、内部被ばくに起因する残留放射線のデータが不確実ではないでしょうか」
そう述べてから、郷地医師は率直に語る。「しかし私は、当初、この研究機関が提示した知識によって被爆者の症状を判断してきました。被爆者が話す体験談と身体にこそ、被爆の実相と真実があるのだと後に気づいてから、生涯をかけて過ちを償う決意をしました。法廷で証言しているのも、そういうことなのです」
郷地医師は原爆症認定集団訴訟の支援活動に参加するなかで、次の「五つの原爆症像」のあることに気づいたという。
(1)米軍の原爆症=ABCCによる原爆の威力評価
(2)行政の政治的原爆症=多重障害の原爆症を放射線起因性に特化して判断
(3)司法上の原爆症=原爆症認定集団訴訟のなかで示された認定制度の不備
(4)医師の考える原爆症=郷地医師ら被爆者を支援している医師の見方
(5)被爆の実相としての原爆症=被爆者自身の体験
郷地医師は、(5)が(1)から(4)を包括して「一つの原爆症像」になったとき「原爆症が社会に理解されるはずです」と強調して、こう続ける。「私は、政治権力によってつくり出された原爆症の概念に毒されていました。医学者や科学者の考え方とは関係なく、その背景の力によって、真実がゆがめられてしまうこともあるのです」
郷地医師は、著書「『原爆症』 罪なき人の灯を継いで」(かもがわ出版)で明言した。<被爆国の日本の国民として、被爆の実相を知ることは義務であり、責任であるといえば言い過ぎであろうか? 原爆被害を葬り去るもの、それは誰でもない、被爆国・日本の国民、あなた方一人一人の意識に他ならない>
この言葉は、被爆70年を前に、核廃絶を推し進める主役は誰であるかを、私たちに問いかけている。