2015年1月19日月曜日


’14春/4 丸屋博さん 「自分なりによく闘った」

大阪朝刊 2014年05月18日

 <核被害に終止符を documentary report 169>
 ◇丸屋博さん(89)
 新緑に午後の太陽が柔らかな光を投げかけていた。5月1日、広島で被爆した詩人で医師の丸屋博(まるやひろし)さん(89)=ペンネーム・御庄博実(みしょうひろみ)=から誘われ、広島市の大動脈、太田川のほとりに出掛けた。
 昨年は白内障の手術を受け、左足のまひが今も続く。ただ、陽気のせいだろうか。体調は上向きになった。
 戦後、広島の反戦運動を文化の面から先導した画家の四国五郎さんが、3月に亡くなった。一つ上の先輩で、絵本「おこりじぞう」で知られる四国さんは、自身のシベリア抑留と弟の原爆死に遭遇し、平和の大切さを絵を通して訴えた。
 朝鮮戦争で原爆使用の危機が高まる中、詩人の峠三吉を中心に、丸屋さんと四国さんは雑誌を作った。「いよいよ、僕だけになってしまった」と、大きく目を見開いて、寂しい声を出した。
 4月末、名誉院長を務める広島共立病院(広島市)の「原爆被害者の会」の総会があった。議題は活動の縮小だった。丸屋さんは会長として集まった役員らにこう語りかけた。
 「反核平和の運動を積極的に行うには体力もなく、後輩たちに活動を引き継いでいく必要があります」
 解散を検討したが、会員からの要望もあり名前は残すことにした。「まあ、いろいろありましたね」。被爆者援護法の充実を求めて東京に陳情に行ったり、在韓被爆者が多く住み「韓国の広島」と言われるハプチョンを訪れたりした。そんな昔話に花が咲いた。
 1950年代から全国で生まれた被爆者団体。医療や生活の充実を訴えた活動は、高齢化で終わりを迎えつつある。
 「寂しいけれど、歴史というのはそういうものだと思うんですよ。核兵器にしても原発にしても、刻まれた人間の記憶がどれだけ鮮やかで大切にされるか。その中でどれだけの想像力がわき起こるか、そういうことだと」
 ふと思い立って尋ねてみた。「後悔していることはありますか」。

「僕は自分なりによくやったと思うんです」。うなずきながら遠くを見やった。
 「この広島が原爆でやられ、峠と運動をするようになった。現代詩の活動をしたり、水島(岡山)の公害問題にも携わったしね」
 では、あなたたちはどうなのですか。そう問われた気がした。

<文・高橋咲子/写真・大西岳彦>












  











2015年1月10日土曜日

被爆体験者:問題解決を 訴訟原告団など、学習会や座り込み /長崎




毎日新聞 2015年01月10日 地方版

長崎原爆の被爆体験者が長崎市などに被爆者健康手帳の交付を求めた訴訟の原告団が9日、長崎市内で問題解決に向けた学習会を開き、約70人が参加した。一方、反核を訴える座り込みでも被爆体験者を巡る発言が相次ぎ、参加者は被爆70年の今年中の問題解決を誓った。
被爆体験者は、長崎の爆心地から12キロ以内で原爆に遭いながら国が指定した被爆地域外にいたため被爆者と認められない人たち。被爆者健康手帳を求めて2007年から順次提訴し、第1陣訴訟が福岡高裁、2陣訴訟が長崎地裁で争われている。原告数は計約550人。
「原爆投下後、灰をかぶった野菜を食べ、汚染された水を飲んだ」などと主張する原告が、原爆放射線の影響を受けた可能性があるかが争点。学習会で原告弁護団の龍田紘一朗弁護団長は「原子雲が放射性物質を皆さんの生活環境に運んだのは明確な事実。これを裁判官たちに分からせないといけない」と指摘した。
一方、長崎市の平和公園では県平和運動センターなどが主催する396回目の「反核9の日 座り込み」があり、約120人が参加。川野浩一・原水禁議長は「被爆70年の今年、何とか被爆体験者の問題を解決しなければならない」と話し、被爆体験者訴訟を支援する平野伸人さんは「訴訟は絶対に負けられない局面にきている」と語った。
【樋口岳大】