皆川恵史 (広島市議会議員)(当時)
(1994年、12月議会本会議質問)
広島市議会 (第5回12月定例会)1994年12月12日(原文)
(皆川)
最近のアメリカ本国での相次ぐ「原爆投下正当化発言」や日本政府による侵略戦争美化発言に対して、戦争や被爆の実相を絶対に風化させてはならないという思いを強くしています。
そういう思いをこめて被爆五十周年を迎えるにあたり、私は三つの問題にふれてみたいと思います。
原爆は誰が、何のために投下したのか
広島への原爆投下は「人類だけでなく万物絶滅に至る最初の犯罪」でした。第一に誰が何のためにこうした行為を行ったのかということです。
原爆を投下したのはアメリカです。その目的は、原爆の威力を誇示して、戦後世界の主導権をアメリカが握るためでありさらに、来るべき核戦争に備えるためもっと強力な核爆弾を開発するための"実験対象"でした。
この後者の目的遂行のために、アメリカが八月末に日本に上陸して直ちにやろうとしたことは「実験対象」にした被爆者を放置して"観察"することでした。
治療すると「実験対象」としての価値はなくなるからです。
そこで彼らは、呻き、苦しんでいる被爆者を放置し、"観察"しやすくしてデータを収集することを意図としたのです。
当時被爆者の治療にあたっていた陸軍病院宇品分院を閉鎖して収容されていた被爆者を追い出し、マルセル・ジュノー博士が国際的支援を要請するため、国際赤十字本社に電報を打つことを妨害しました。
この電報はついに打電されませんでした。
さらに治療にあたっていた日本の医師や研究者から、情報交換と研究発表の場を取り上げました。
この電報はついに打電されませんでした。
さらに治療にあたっていた日本の医師や研究者から、情報交換と研究発表の場を取り上げました。
そして、九月六日、原爆投下から一ヵ月後に米軍のファーレル准将(マンハッタン計画の副責任者)は、東京で記者会見し「広島、長崎で死ぬべき被爆者は全部死んだ。原爆で苦しんでいる被爆者は現在一人もいない。」と発表して翌日から外国特派員の広島、長崎への立ち入りを禁止しました。
その年の十月イタリアで開かれる予定だった国際医師会議の場で日本人医師が原爆被害について報告することも、アメリカの圧力で直前に開催が中止されてしまいました。
こうして、広島と長崎は内外から完全に隔離されてしまいました。
この隔離状態の下で、何の救護の手も差し伸べられずに、九月に入っても広島と長崎で毎日数百人ずつが次々と息を引き取っていったのです。
アメリカが報道されるのを一番恐れたのはこの事実「被爆後一ヵ月過ぎた今も一日で百人の割合で死んでいる。」ということでした。
この事実こそが原爆が国際法違反であることをもっとも端的に証明するからです。
この事実こそが原爆が国際法違反であることをもっとも端的に証明するからです。
もし、当時、被爆地の惨状が、全世界に正しく伝わり、国際的救援が行われていたならばおそらく数万の命が助かっていたでありましょう。
真相を隠蔽したアメリカ政府と、それに何ら抵抗せず、天皇制を存続させることだけに窮々としていた日本政府の放置責任が今改めて問われなくてはならないと思います。
原爆による惨状の第一報を世界に発したバートチェット記者は、この点について「広島の事実を軽視するためのなんらかの協定が実際に存在するものと考えない限りこのことは理解できない」と述べています。
同時に日本のジャーナリズムの中で、イギリスのバーチェット記者のような勇気ある行動がなぜ生まれなかったのか、私達は歴史の教訓としなくてはなりません。
ABCCの犯罪的行為
第二に私が強調したいことは、放射能被害の長期的影響が予想されたため、アメリカが広島に設置したABCC(THE ATOMIC BOMB CASUALTY COMMISSION=原爆傷害調査委員会の略称)の犯罪的行為についてです。
五十年を経た今日なお、被爆者が多くを語りたがらないというこのABCCではどういうことが行われたのでしょうか。
あるひとは"加害者への怒り"という手記でこう書いています。
「ある日突然、縁なし眼鏡の二世がジープと共にやってきた。そして、"血を採るだけだ"と言った。私は、"血はあげたくない"と断った。するとその二世は"アナタ、ソンナコトイッテイイノデスカ。グンポウカイギニマワッテモイイノデスカ"と言った。これ以上断れば本当に軍法会議にまわされるかもしれないという恐怖心だけが残った。そして"あした一人で行くから"とこたえていた。」
ABCCはこのように嫌がる被爆者を恫喝して、無理やり施設にひっぱっていったのです。
そのほか「担任の先生に言われて」とか「病院の先生にすすめられて」とか、当時学校や病院などに広範な協力網が敷かれていました。
市役所も戸籍や死亡調査に全面的に協力させられ、当時の社会課にはABCCの分室まで置かれていました。
また昭和二四年三月から二五年八月までの間、比較対照都市として呉市にもABCCの支所が設置されていました。
これは、広島の被爆者と健康な呉市民を比較して、より詳細なデータを収集するためのもので、胎児・乳児・妊産婦を中心に多くの呉市民が本人に知らされないままモルモットにされていました。
ABCCに連れていかれるとまず何をされたか。当時中学生だった人はこう語っています。
「レントゲンを撮りその後で壁にグラフ黒板の様な目盛りが書いてある部屋で全裸で正面と側面から全身の写真を撮られました。この屈辱的な仕打ちは一生忘れることができません。」
この調査はABCCによると「被爆児の成長、発育に関する調査」で、まず標準姿勢のもとで撮られた三方向の裸体写真で、その目的は(a)体格の測定、外形、肥満、筋肉発育(b)性的成熟、乳房の発達、性器の大きさ、体毛の分布等を調べるためのものです。
当時晩発性の障害があらわれはじめ、体力を消耗していた被爆者にとって、治療もされず、このような屈辱的な調査が、どんなに人間としての尊厳と生きる勇気を奪ったことでしょう。
被爆者が死ぬと彼らは禿鷹のようにあらわれて、遺族に解剖を迫り、火葬前の遺体を持ち出して臓器を奪いました。
これらの臓器はすべてホルマリンに入れられて本国に送られました。
こうして被爆者は原爆で殺された後も、つぎの核戦争のために利用されたのです。
この被害者への追跡調査は放影研となった今も続いています。
日本政府の責任
第三に、ABCCによるこうした調査に協力、加担した国立予防衛生研究所、厚生省、日本政府の責任は重大だと思います。
実は日本政府は、原爆投下直後の八月十一日に、米国政府に対して「原爆投下は国際法違反」の抗議を行っているのです。(※資料①参照)
しかし、戦後五十年を通して、日本政府が米国に対して「国際法違反」と抗議したのは、後にも先にもこの一回限りでした。
トルーマン大統領の命令でABCCが設置され、広島で活動を開始したのは昭和二二年三月でした。
国立予防衛生研究所が設立されたのは同年五月、そしてこのABCC内に予研の支所を設置したのは翌二三年八月です。
ABCC設置からわずか一年半後日・米の合同調査はスタートしたのです。
予研の広島・長崎支所はABCCに働いていた日本人雇員とは別に「原子爆弾影響研究所」とも称し、設立五年目で人数は約五十名、大半が医師の資格を持つ厚生技官でした。
こうして予研は昭和五十年三月まで実に二七年間にわたりABCCの目的に奉仕しました。
もし予研の協力がなったらABCCはその反人道的目的を遂行できなかったでしょう。
予研も厚生省も占領下の強制によって仕方なく協力させられたのでしょうか。そうではなかったことが当時の資料からうきぼりになっています。
最近発見された資料のなかに、当時厚生省が、この合同調査を行うにあたってGHQに提出した「原爆傷害調査計画書案」には、次のような驚くべきことが書いてあります。
「調査の結果は、来るべき平和な原子力時代だけでなく、戦時においても人類の福祉の保護に大きな貢献をすると期待される。それ故われわれは全人類の利益のために、この問題を解決する好機を逃すべきではない。」
この文章中にある「戦時中においても」というのは朝鮮戦争直前の緊迫した国際情勢を考えると、次の核戦争を想定していることは明らかです。
次の核戦争が行われた時のために「この好機を逃すべきではない」といっているのです。
当時の予研年報にも「この好機を逸すべきでない」という所長の言葉が載っています。
ここには治療・援護の観点が全く欠落しているだけでなく、被爆者を調査・研究の"実験対象"としか見ていない点で、アメリカの見方と全く共通しています。
ABCC−予研のこの"体質"をもっともよく物語っているのが、原爆小頭症に原爆症として国の認定が下りるまでの経過です。(※資料②参照)
当時日本政府がこの予研支所の開設にあてた予算=二年間で一億一千万円がもし、被爆者の治療のための病院開設や医薬品の購入にあてられていたならばどれだけ多くの命が助かっていたことでしょう。
国立予防衛生研究所と七三一部隊の関係
この国立予防衛生研究所(略して予研)は昭和二二年五月にGHQの「政令五八号」によって東大附属伝染病研究所(略して伝研)より分離設立された機関です。
東大伝研と言えば戦時中、陸軍軍医学校とともに、"悪魔の飽食"で有名な七三一部隊などに細菌戦のための大量の研究者や病原体、科学技術情報を全力をあげて提供していた研究所です。
当時満州で中国人やロシア人を使って残虐な人体実験を行っていた七三一部隊の石井四郎中将以下の軍医たちは、終戦後、アメリカ政府との取引きでその「研究成果」を米軍に渡すのとひきかえに極東裁判にもかけられず戦犯を免責されたのは有名な話です。
私は最近、国立公文書館にある米軍返還資料のなかから、米軍が持ち帰ったこれらの貴重な「研究成果」の一部を見つけました。
それは、『凍傷ニ就テ』という論文で、昭和十六年十月二六日、満州ハルピンの学会で発表された第七三一部隊陸軍技師、Y・H氏の学術論です。
戦後「ハバロフスク裁判」でこの凍傷実験に立ち会った証人は次のように証言しています。
「私が監獄の実験室に立ち寄りました時、そこには長椅子に五人の中国人の被実験者が坐っていましたが、これらの中国人のうち二人には指が全く欠け、彼らの手は黒くなっていましたし、三人の手には骨が見えていました。指は有るには有りましたが骨だけが残っていました。」
Y・H氏は厳寒マイナス三十度にもなる戸外にこれら"マルタ"を連れだし、産まれて三ヵ月の赤ちゃんにも凍傷実験を行ったのです。
じつにおそろしい話です。
戦犯を免責されたこれらの軍医たちは、その後、部隊で行った「人体実験」のことを絶対に口外しないことを誓って全国の大学や研究所などに散っていったのですが、その後、彼らが年に一回集まる親睦会「精魂会」の名簿を見ると、副知事、大学学長、大学教授、病院長、研究所長、研究教授等の肩書きがズラリ並んでいます。
いずれも部隊で中心的役割を果たしていた人物ばかりです。この人たちがいかに戦後日本の医学会で影響力の大きい地位を得ているか一目瞭然です。
話はもとに戻りますが、米軍は七三一部隊の人体実験による貴重な「研究成果」を一人占めするだけでなく東大伝研まで接収しようとしますがこれは抵抗に会って成功しませんでした。
そこでGHQは伝研を分離して予研に採用されました。
判明しているだけでも、創立以来〜昭和五六年までの七人の所長のうち六人、七人のうち四人、さらに微生物部、病理部、製剤検定部など初期の各部長の大多数を占めています。
この予研の設立の目的は、占領軍の公衆衛生政策への協力―伝染病予防の研究、ワクチンの検定など―でしたが、別にもう一つの顔として、その前年に相模原市に設置されたアジアにおける米軍の細菌戦研究所=第四〇六部隊に協力することと、同じく二ヵ月前に設置されたABCCの日本側下請け機関となることでした。
ABCCの所長はずっとアメリカの軍人で、四代目所長のホームズ大佐は、ひきつづき米軍四〇六部隊長に昇任しています。アメリカにとってはABCCも細菌戦部隊も同系統の米軍施設であったことが分かります。
日本側について云うと、ABCCの日本側諮問委員会の委員長は歴代予研の所長が兼ね、所長室で際々会議を持っていたことが記録に残っています。
当時、ABCCでは年に数回、ドクターを相手に記念講演が行われていましたが、そのなかに、先程紹介したY・H氏も講師として生化学の立場で記念講演を行っています。(このY・H氏は昭和三三年の第一次南極観測隊派遣にあたって日本学術会議がつくった南極特別委員会に、石井中将の後を注いで七三一部隊長となったK氏と共に参加し、凍傷対策を指導した人物です)
ついでに触れておきますと、予研が毎年発行している「予研年報」というのがありますが、ここには、ワクチン開発のため、当時日本の各地で人体実験や"野外実験"を行ったことが誇らしげに明記されており、戦前の人体実験にたいする反省が微塵も見られず背筋が寒くなる思いです。(後略)
(後記)
(後記)
以上私は、戦争がいかに人間性を狂わすかという点で七三一部隊にも触れながら述べてきました。
戦争は国家が行うものであり、個人の責任に還元することは誤りです。
しかし、戦争の遂行に決断を下し、残虐行為を指導した者の責任を明らかにせずして、どうして戦争への真の反省が生まれてくるでしょうか。
私はその点で天皇の戦争責任と共に、七三一部隊に象徴される旧日本軍の残虐行為の責任追及が未だにタブーとされていることは、戦後日本の再生の障害となっていると思います。
七三一部隊は、戦争に動員されることによって、医学が極限にまで歪められた姿でありました。
しかし、人間をモノとしか見ない思想は、七三一部隊の免責によって、根本的な反省のないまま、戦後日本の医学の分野に厳然として生き残り、温存されたままです。
それは、戦後も多くの人体実験が告発され、マスコミ等でとりあげられる事件が後を断たないことに示されているのではないでしょうか。
「ABCCと予研」の関係の背後には、「米軍四〇六細菌部隊と七三一部隊」の関係が潜んでいます。共に両者を結ぶキーワードは「人体実験」と「戦争への無反省」です。
ABCC=放影研も予研も厚生省も戦後、自分たちが被爆者に行なったことをいまだに反省していません。過去の事実への反省をなくしてどうして平和の機関となりうるでしょうか。
ドイツやフランスが今も戦争犯罪をあいまいにしていないのは、そのことが現在の問題に通じているからに他なりません。
原爆投下を正当化し、核による脅威をくり返しているアメリカ政府と今なお十五年戦争を侵略戦争と認めず、被爆者をはじめとする戦争犠牲者に国家責任を果たそうとしない日本政府。
被爆五十周年にあたってこの両国の緊密な関係を考えるとき、ヒロシマが辿ってきた歴史に改めて光を当てることは、いまを生きる私達広島市民にとってきわめて今日的課題ではないでしょうか。
※資料①
日本政府から米国政府への抗議電報
一九四五年八月十一日日本政府は、スイス政府を通じて米国政府に対して、原爆投下について以下のような抗議電報を打っている。
「本月六日、米国航空機は広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を壊滅せしめたり、
広島市は何等特殊の軍事的防備ないし施設を施しをらざる普通の一地方都市にして同市全体として一の軍事目標たる性質を有するものに非ず、
本件爆撃に関する声明に於て米軍大統領(トルーマン)は我等は船渠、工場及交通施設を破壊すべしと言いをるも本件爆弾は落下傘を附して投下せられ空中に於て炸裂し極めて広き範囲に破壊的効力を及ぼすものなるを以てこれによる攻撃の効果を右の如き特定目標に限定することは技術的に全然不可能なこと明瞭にして右の如き本件爆弾の性能については米国においてもすでに承知してをるところなり、
また実際の被害状況に徴するも被害地域は広範囲にわたり右地域内にあるものは交戦者、非交戦者別なく、また男女老幼を問わず、すべて爆風および輻者熱により無差別に殺傷せられその被害範囲の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の傷害状況より見るも未だ見ざる惨虐なるものと言ふべきなり、
抑々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに有ざること及び不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざるとは戦時国際法の根本原則にして、それぞれ陸戦の法規慣例に関する規則第二十二条、及び二十三条(ホ)号に明定せられるところなり、
米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり毒ガス及至その他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の与論により不法とせられをれりとし、相手側国において、まづこれを使用せざる限り、これを使用すべきことなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕しをれり、
米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り無数の老幼婦女を殺傷し神社仏閣学校一般民家などを倒壊または焼失せしめたり、
而していまや新奇にして、カツ従来のいかなる投射物にも比し得ざる無差別性、残虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり、
帝国政府はここに自らの名に於て米国政府を糾弾するとともに即時かかる非人道兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」
広島市は何等特殊の軍事的防備ないし施設を施しをらざる普通の一地方都市にして同市全体として一の軍事目標たる性質を有するものに非ず、
本件爆撃に関する声明に於て米軍大統領(トルーマン)は我等は船渠、工場及交通施設を破壊すべしと言いをるも本件爆弾は落下傘を附して投下せられ空中に於て炸裂し極めて広き範囲に破壊的効力を及ぼすものなるを以てこれによる攻撃の効果を右の如き特定目標に限定することは技術的に全然不可能なこと明瞭にして右の如き本件爆弾の性能については米国においてもすでに承知してをるところなり、
また実際の被害状況に徴するも被害地域は広範囲にわたり右地域内にあるものは交戦者、非交戦者別なく、また男女老幼を問わず、すべて爆風および輻者熱により無差別に殺傷せられその被害範囲の一般的にして、かつ甚大なるのみならず、個々の傷害状況より見るも未だ見ざる惨虐なるものと言ふべきなり、
抑々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに有ざること及び不必要の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざるとは戦時国際法の根本原則にして、それぞれ陸戦の法規慣例に関する規則第二十二条、及び二十三条(ホ)号に明定せられるところなり、
米国政府は今次世界の戦乱勃発以来再三にわたり毒ガス及至その他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の与論により不法とせられをれりとし、相手側国において、まづこれを使用せざる限り、これを使用すべきことなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器を遙かに凌駕しをれり、
米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り無数の老幼婦女を殺傷し神社仏閣学校一般民家などを倒壊または焼失せしめたり、
而していまや新奇にして、カツ従来のいかなる投射物にも比し得ざる無差別性、残虐性を有する本件爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり、
帝国政府はここに自らの名に於て米国政府を糾弾するとともに即時かかる非人道兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す」
〔この電文が、第二回目の長崎の原爆投下の八月九日前に起草されたことは明らかで、当時の東郷外務大臣が在スイス加瀬公使宛に右抗議電を打電したのは、八月十日午前一時である。〕
日本からの抗議を受け取ったアメリカ政府では、この抗議に返答すべきかどうかが検討され、
「日本政府から抗議を受け取ったことについていかなる公表もしない」
(「米国・国務・陸軍・海軍調整委員会の勧告」)
ことを決定した。
そして、この事実が公表されたのは、戦後二五年たった一九七〇年(昭和四五年)であった。
アメリカはなぜ四分の一世紀の間、世論の注視から事件全体を隠そうとしたのか。
その理由は、アメリカが知られるのを恐れていた「原爆投下の非人道性」を糾弾する内容だったからに他ならない。
「日本政府から抗議を受け取ったことについていかなる公表もしない」
(「米国・国務・陸軍・海軍調整委員会の勧告」)
ことを決定した。
そして、この事実が公表されたのは、戦後二五年たった一九七〇年(昭和四五年)であった。
アメリカはなぜ四分の一世紀の間、世論の注視から事件全体を隠そうとしたのか。
その理由は、アメリカが知られるのを恐れていた「原爆投下の非人道性」を糾弾する内容だったからに他ならない。
※資料②
原爆小頭症認定の経過
被爆時に胎内で受けた放射線の影響で生後知能障害を患う原爆小頭症が医師や被爆者らの運動によって原爆症と認定されたのは昭和四二年であった。
しかし、国は早くから原爆と小頭症の関係について知っていた。
昭和二三年にABCCは体内被曝児を調査し始め、早い時期から原爆との因果関係が指摘されていた。
昭和二七年、ABCCの米人医師(ジョージ・ブランマー医師)が米国生小児学会誌に「広島における原爆体内被曝の子どもに惹起した異常」という論文を発表。
そのなかで「小頭症は爆心からの母親の距離との相関関係を説明できる唯一の先天障害である」と報告していた。(日本政府が認定する十五年前)
そのなかで「小頭症は爆心からの母親の距離との相関関係を説明できる唯一の先天障害である」と報告していた。(日本政府が認定する十五年前)
当然、ABCCの日本側所管である厚生省がこうした研究結果を知らなかったはずなどなく、当時の予研広島支所長は、「あんなことはウチでは早くから分かっていましたよ」と、日本政府が公式に認定した際に平然と言ったという。
【参考文献】
橋本 八郎「巨大な悪魔―『放影研』(元ABCC)」
〔『赤旗』評論特集版・86年11月10日〕
今田 真人「放射線影響研究所・ABCCの疑惑」
〔『赤旗』評論特集版・88年12月12日〕
広島市原水協「加害者への怒り・ABCCは何をしたのか」第一集〔66年10月16日〕
東京都原爆被害者団体協議会「ヒロシマ・ナガサキから何を学ぶか」
〔東友文庫四・90年6月〕
椎名 麻紗枝「原爆犯罪―被爆者はなぜ放置されたか―」〔大月書店・85年〕
大佐古 一郎「ドクター・ジュノ―武器なき勇者」〔新潮社・79年〕
W・バーチェット「広島TODAY」〔連合出版・83年〕
今堀 誠二「原水爆時代」(上・下)〔三一新書・59年〕
広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会編「広島・長崎の原爆災害」
〔岩波書店・79年〕
森村 誠一「悪魔の飽食」新版・続〔角川書店・93年〕
常石 敬一「消えた細菌戦部隊」〔ちくま文庫・94年〕
常石 敬一「医学者たちの組織犯罪」〔朝日新聞社・94年〕
高杉 晋吾「にっぽんのアウシュビッツを追って」〔教育史料出版会・84年〕
日韓関係を記録する会編「資料・細菌戦」〔晩聲社・74年〕
C・F・サムス、竹前 栄治 編訳「DDT革命」〔岩波書店・86年〕
国立予防衛生研究所発行「予研年報」―昭和22年以降の各年次版
「ハバロフスク裁判公判記録」