2014年6月29日日曜日

永井隆の著書を監視した米原子力委員会





永井隆の死から約半年後。マンハッタン計画に参加していた米国女性科学者が、永井の著書「私たちは長崎にいた (We of Nagasaki)」の内容について「(問題があり何らかの)対処をするべき」と、米国原子力委員会、Shields.Warren 宛てに報告している。それは本の中に書かれた「残留放射能の被爆被害」についての記述部分を問題視するものだった。
現在、米国エネルギー省のサイトでも一般公開されてはいるものの、大部分がフィルターで黒く塗りつぶされてしまっている。


その隠された部分を含む全文を以下に掲載してみた。文面からは、永井の著書の記述を監視し、そこに日本人への世論操作の思惑が米国側にあったこと、また、残留放射能の被害を一般に広く知られることに非常に神経を尖らせている様子などがうかがえる。




〔米エネルギー省のサイトでは現在、このような状態で公開〕








〔黒塗りをはずした全文〕






〔拡大〕






この文書の送り主は、Edith H.Quimby という女性学者である。この人物の詳細については、こちらの英語サイト(① ② ③)に詳しく書かれてあった。マンハッタン計画に参画している。



 http://biography.yourdictionary.com/edith-h-quimby



 http://what-when-how.com/scientists/quimby-edith-h-1891-1982-american-biophysicist-scientist/


③〔ウィキペディア〕 http://en.wikipedia.org/wiki/Edith_Quimby






では、E.H.Quimby が問題視した永井の本の記述部分とは、一体どのようなものだったのだろう。


英語タイトル "We of Nagasaki" は「私たちは長崎にいた」という邦題で出版されている。長崎の原爆体験を複数の人物がそれぞれ回想録として語ったものを永井が編集し、そこに永井自身の執筆作品も加えた証言集だ。この本で永井が書いた「ひび」という短編作品の中に、Quimby が問題として報告したと思われる記述があった。以下がその部分である。




私たちは長崎にいた「ひび」より抜粋


『 第一に崩れ去ったのが、残った放射能への恐れでした。爆裂のすぐあとでは、この浦上の地面は強い放射能をもっていたため、ここを歩いて通り過ぎただけで放射線による急性症状を起し、下痢をしたものです。下痢患者があまりに多いので、赤痢ではないかと疑われたほどでした。焼け跡の片づけをして地面に親しんだ者は、全身におびただしい放射線を受け、重い原子病にかかり、死んだ者も少なくありませんでした。ことに、死体は強い放射線を得ていたので、死体をたくさん取り扱った者は重い症状を現しました。骨の中の燐(リン)が、原子爆弾から出た放射線に叩かれて、放射性に変わったのでした 』



これは、まさに原爆「残留放射能」の被爆実態を、ありのまま記した文章だ。浦上は爆心付近であり、同時に西洋の宗教的意味合いを含む「象徴」ともいえる場所。そこで誘導放射線や残留放射能の被害が起きた様子や、片づけや死者を扱った者にも二次被爆が起きたことが書かれてある。後に法的に認められた「被爆者」として被爆者手帳分類枠に定められることになる「入市被爆者」および「救護被爆者」という被爆概念だ。「原爆の被爆は直接被爆で即死したものだけ」という当時の米国の公式発表とは、当然相容れないものだろう。二次被爆にもかかわらず「死んだ者も少なくない」の永井の記述は、確かにあからさまだ。そこに Quimby がナーバスに反応したのも頷ける。


また、Quimby は以下の永井の記述にも「問題あり」と報告している。



『 初めの年には(農作物の)収穫が減りました。(中略)ところが第二年目には、一般に、驚くような増収がありました。そして、いろいろの奇形が現れました 』



原爆の後、植物が一時的に異常な伸び方をしたり植物奇形が見つかった話は、原爆体験者の証言でよく聞かれる。学術報告でも数多く記録が残されている。後にABCC新生児遺伝調査を指揮した J.V.Neel も、原爆後に出現した様々な植物奇形を興奮気味に米国へ報告している。だが、原爆放射能による遺伝影響についても「否定しなければならない」という当時の(現在も同様)米国のスタンスを、この Quimby 文書であらためて窺い知ることができる。たとえそれが人間ではなく植物の話であっても「No」ということなのだろう。科学的調査の前に政治的結論が既に決まっていることが非常によくわかる。

原爆被害についての米国の建前と本音が、この Quimby 報告文書からは透けて見えるようだ。しかし更に言うならば、原爆について語られた本の発行という当時としては異例の扱いで許可されていた永井作品の影響力は、米国にとっても、日本人(特に長崎市民)の世論操作における利用価値があると考えているフシが読み取れる。Quimby の文章を読むと、Warren に米国側としての対応を要求しながらも表立って永井を否定する方法自体は避ける意図をあらわしており、そこには事情の複雑さが現れていて興味深い。

個人的な話になるが、私(管理人)は生前の永井を直接よく知る人物たちと会い、いろいろと永井の話を聞いたことがある。それぞれに別の場所で別の人達から話を聞いている。その中には当時の長崎医科大学の関係者、つまり永井の同僚だった人もいる。そしてそこでは、永井隆の人物像や評価が人によって極端に分かれていた。大変ほめる人がいるかと思えば、嫌ったり悪口を言ったりする人もいる。二面性があったと言う人や暴力的な一面があったと言う人、功名心がすごかったと言う人、考え方が偏っていると言う人。かと思えば、あんな魅力的な人物はいないと絶賛する人もいた。


この Quimby 文書もそれに似た感触がある。永井隆という人物をどう捉え評価するか、それは複雑なことが様々に絡み合っており容易ではない。この Quimby 文書や他の経緯しかり、米国と永井の奇妙な関係しかり。私達の知らない裏側の話は、おそらくまだ多いのだろう。