2015年2月27日金曜日

〔長崎・被爆未指定地域問題〕山本誠一氏の議事録から





長崎被爆地拡大協議会事務局長、山本誠一さんが平成13年に長崎市定例会で被爆未指定地域問題について言及し、長崎市長(当時、伊藤一長氏)に質問した際の議事録から一部抜粋しています。実際にあった原爆の放射性降下物による被爆被害を否定され続け、あたかも精神的な影響であるかのように国から扱われて封じ込められる。法的な被爆者としての救済をされておらず被爆者健康手帳を持つことができない「被爆体験者」と呼ばれる被爆者。以下のやりとりから、被爆未指定地域問題の、ごく一端を読み取っていただければと思います。




(山本誠一氏)

被爆地域の拡大是正について。   

長崎の被爆地域問題の検証を進めてきた厚生労働省の検討会は、去る8月1日に最終報告を取りまとめました。その最終報告では、原爆投下時に未指定地域にいた住民について「原爆投下に起因する不安がトラウマ症状(心の傷)となり、今日なお、精神上の健康に悪影響を与えている可能性が高く、また、身体的な健康度の悪化につながっている可能性が高い」と指摘しています。しかし、 その原因については「原爆投下時に発生した放射線による直接的な影響ではなく、もっぱら被爆体験に起因する不安による可能性が高いものと判断される」と結論づけています。

放射線被曝の影響を否定する理由として挙げられたのは、原爆由来の直接の放射線による被曝線量は、爆心地からの距離とともに急速に減少し、 3.5キロメートル以遠では自然放射線による年間被曝線量以下となる。当該地域における調査対象者の被爆距離は6キロメートル以遠であり、実質上、直接の放射線による被曝線量はゼロと見なしうる」としています。   

また、誘導放射線、すなわち原爆からの直接放射線が土壌や建造物に当たって誘導される放射性物質からの放射線による被曝線量も実質上ゼロと考えられると放射線被害の影響を否定しています。

放射線被害を否定する理論的根拠とされているのは、原子爆弾による放射線の線量評価システム、 すなわちDS86に基づくものでありますが、この問題では、長崎原爆松谷訴訟の最高裁判決は、

「DS86を機械的に運用する限りでは、遠距離被爆者の脱毛症状などについては説明がつかない」と退けられたものであります。

厚生労働省が今日まで被爆地域拡大の要求を拒否する理由として挙げてきた、1980年の原子爆弾 被爆者対策基本問題懇談会の答申、いわゆる「地域拡大は科学的・合理的根拠に基づく場合に限る」を基本に、検討会の論議の出発点に据えられたことが、こうした問題を生み出した最大の要因となっているのではないでしょうか。

検討会最後の会議では、検討会のメンバーとして参加されている長崎大学医学部の中根先生や放射線影響研究所の前理事長の長瀧先生からも「本検討会では放射線被曝線量について調査研究はしていないので、この問題を記述する必要があるのか」との疑問が投げかけられました。この問題について、研究班の吉川主任からは、「被爆体験者に対する大規模な心的外傷に関する科学的な調査は初めてのことであり、被爆体験に起因する不安であることを強調するためにも、放射線被曝との関係は明確にしておく必要がある」と発言されました。

今後は、この報告書をもとに厚生労働省で検討され、どのような結論が出されるのかが問題であります。 未指定地域の住民は高齢化し、かつての対象地 区住民約6万7,000人も、今ではわずかに在住者は 8,700人にまで減少しています。生きているうちに被爆者として認めてほしいとの声は切実なものがあります。

そこで、市長に質問いたします。   

市長は、検討会の最終報告をどのように分析し、 認識しておられるのか、また、その上に立って、 今後の取り組みについてご見解をお聞かせいただきたいと思います。




(伊藤長崎市長)

被爆地域の拡大是正についてお答えをいたしたいと思います。

厚生労働省におきましては、本年の8月1日に 第5回の原子爆弾被爆未指定地域証言調査報告書 に関する検討会が開催をされ、検討会としての最終報告書が厚生労働省の健康局長に提出をされました。この最終報告書でございますが、先ほど山本議員もご指摘のように、「原爆体験がトラウマとなり今も不安が続き、精神上の健康に悪影響を与えている可能性が示唆され、また、身体的健康度の低下につながっている可能性が示唆されました。 このような健康水準の低下は、原爆投下時に発生した放射線による直接的な影響ではなく、もっぱら被爆体験に起因する不安による可能性が高いものと判断された」との結論が報告されております。

この検討会は、本市が取りまとめました証言調査報告書を国が科学的な観点から精査・研究することを目的として設置をされ、昭和55年の原爆被爆者対策基本問題懇話会、いわゆる基本懇答申にいう「被爆地域の指定は、科学的・合理的な根拠のある場合に限定して行うべきである」との考え方を念頭に置いて検討されてきております。

また、検討会の研究班が本年の3月に実施いたしました長崎での現地調査の結果については、検討会の森座長より「科学的である」ことが確認されております。 さらに、検討会の最終報告書に記載されている 「放射線による直接的な影響ではない」という部分については、検討会において具体的な議論はされておらず、先行研究の結果のみが記載されております。

研究会の主任研究者で検討会の委員でもあります吉川委員から、第5回検討会において、 放射線被曝の線量が全くといっていいほど影響がないと考えられるにもかかわらず、原爆投下に基づく不安というものがもとになって、さまざまな症状が出てきていることを浮かび上がらせたかったし、原爆投下ということによる不安の大きさをより強調するため記載したことが強調されております。

したがいまして、本市といたしましては、被爆体験に起因する精神的・身体的健康状態の悪化が認められましたことは、放射線の直接的な影響ではないが、広い意味での放射線の影響はあったものとしてとらえており、この点を国に強く訴え、 決断を求めてまいりたいと考えております。

本年8月9日の平和祈念式典終了後に小泉内閣総理大臣、さらには坂口厚生労働大臣より、「何らかの措置が必要であり、年末までにはご報告したい」との発言もあり、現在、厚生労働省で具体的に検討が進められているというふうにお聞きをいたしております。  

いずれにいたしましても、被爆地域拡大是正に向けまして、大変重要な時期を迎えているというふうに認識をいたしております。 本市といたしましては、国の動向を見守りなが ら、引き続き厚生労働省を初め地元選出の国会議員により一層のご協力をお願いするとともに、国や関係6町、被爆者団体、地元住民、さらには各政党の皆様方ともどもに連携を密にしながら、適時適切な要請行動を議会とともに続けてまいりたいというふうに思いますので、今後とも皆様方のご支援、ご協力をよろしくお願いさせていただきたいと思います。





(山本氏)


議長の許可をいただきまして、こういうものを持ち込んでまいりましたが、実は、これは8月9日の平和展、県立の美術展で行われたときに、私をくぎづけにした絵画です。「原爆の思い出」という形で書かれておりますが、書かれた方のお名前を見ますと、戸石町(爆心地から、約11キロ)の鳥越重信さんという形で書かれておりましたが、実は、小学校4年のときの思い出というのが、この写真の下にありました。実は私、そのことにくぎづけられたというのは、実は私も同年代なんです。小学校4年生のときに、茂木から眺めた状況と全く類似しているという状況にあるわけです。   

この中で、実は、この方の思い出の中では、目がくらむほどの光に襲われました。間もなく、ものすごい音がして、障子やガラスががたがたと音を立てて揺れてびっくりしました。しばらくして、 家の裏にある墓地に兄弟で上って、ちょっと見えにくいと思いますが、ずきんをかぶって自分のおうちのお墓の前に立って、4人で長崎の方を見て おられる図です。この中で、6点ほど書かれておりましたが、1つは、落下傘は空の高いところに ありましたということで、ちょっと見えにくいと思うんですが、ここに2カ所あるんです。だから、 この絵というのは、昼間に見た印象と夕方の印象と夜の印象を合作した絵になっているんですね。




夜には、もう落下傘は落ちてしまっているわけですけれども、そういう3つを合体させた図になっている。そして、太陽が輝いていました。真っ黒な煙がどんどん湧き出て、太陽が真っ赤になりました。しばらくして、ものすごい量の灰が降ってきて太陽が見えなくなりました。落下傘が川内(爆心地から、11.6キロ)と飯盛(爆心地から、12.5キロ地点と、爆心地から、13.3キロ地点の2ヵ所)に落ちました。川内の落下傘が戸石役場の下の詰所に監視所の人が持ってきました。そのひもを切ってコマひもにして遊んだことを覚えていますということなんですが、私がここで注目したの は、この一帯が原爆投下後、ものすごい量の灰が降ってきたということですよね。この灰をかぶっておられる。この中から、脱毛症状が起こったり、下痢症状が起こったりしておるわけです。これでも放射線と影響がないと言えるのかということを、 実はこの写真を示したのは、そこに大きな理由があったわけです。


そういうことで、この周辺の方々の証言もいろいろお聞きいたしました。もっと身近なところでは、間の瀬地区では、爆心地から7.5キロです。13 キロ地点が被爆地域に入っているのに、7.5キロの 深刻な被害を受けたところが、まだ被爆地域に入っていないというところなんですが、この方は10歳のときに被爆をした。くらむような光と爆風を受け、家の中は目茶苦茶となった。15分後には 土砂降りの雨となり、焼けかすみたいな灰が飛んできた。当時1歳だった妹は、髪の毛が赤くなり脱毛し、2年後に亡くなった。母は、翌年に弟を出産したが、死産だった。その子は真っ黒だった。 近所でも幼い子どもたちが次々に7人亡くなった。 こういう証言が出されております。こういう子どもたちの悲惨な死というのは、放射線の影響なくして何を根拠にしたものと言えるのだろうかということを、実は言いたいわけです。

もう一つ、旧古賀村の上座の地点(爆心地から、11キロ)で、当時19歳 の女性の方からの証言ですが、畑仕事中にピカッときました。体は熱湯の入ったやかんを肌につけられたように熱かった。続いてドーンという音と 爆風で倒れ込みました。ばらばらと雨が降って、 頭に乗せていたタオルがぐっしょりになりました。 灰がついて黒くなった着衣はべたべたしていました。飲料水を賄っていた井水、湧き水のための池でしょうね、もう既に真っ黒でした。この原爆の灰によって真っ黒だった。ひしゃくでできるだけ 水の中の黒いものをのけながら水をくみ、それを飲んでいました。1カ月後、この方の父親と親戚の子ども2人が相次いで息を引き取りました。いずれも高熱と下痢の症状です。こういう状況の中で、この方は2カ月ほどで脱毛症状となって、髪の毛にくしを入れるとずるずると抜け落ちました。

「 私は恥ずかしくて恥ずかしくて、頭にタオルをかぶっていました。それから急に、めまいや頭痛に襲われることが多くなりました。今もたびたび同じ症状に襲われております」

と、こういう思いを持っておられるわけですね。

これがトラウマ症状という形で顕著な形で出てくるんでしょうが、さらに、例えば平山地域は被爆地域に指定されておりますが、その手前の深堀は入っておりません。13キロは入って10キロが入ってないわけですが、そこで、当時25歳の女性の方から証言をいただきましたけれども、

「パーン と光った後、熱くて熱くてあっちっちと家の中に逃げ込みました。背中がひどくひりひりするので、 ばあちゃんに見てもらいました。背中が真っ赤にやけどしていることがわかりました。祖母が濡れ たタオルで懸命に冷やしてくれました。薬をつけた布切れをばあちゃんに2カ月ぐらい張ったりつけかえたりしてもらいました。背中に泡粒のように水膨れができて、布をはがすたびにぐちゅぐちゅとつぶれまた。痛くて寝えきれん夜もありました。痛みは翌年の1月までとれなかった。国が幾ら原爆の影響がなかったといっても、自分がそげんことがあったからね。ほんと腹がたちます。 被爆者手帳を早くもらわんば間に合わん」。

こういう訴えをされておられました。

 そして、さらにこの方は、乳飲み子を抱えておられたんですね。だから、背中を真っ赤にやけどをしたものですから、その夜から母乳が出なくなったんですね。生まれたばかりの赤ちゃんは、 その祖母の方が重湯で育てて、だからそれきり母乳は出なくなってしまった。こういう状況をお聞きするにつけ、本当に被爆地域拡大是正の問題での、あの原爆の放射線と影響はないという話が出されたときには、本当に私は、現実をもっと直視してほしいという気持ちに駆られたところです。

この問題については、議会も挙げて、(長崎)市長を先頭に、これから12月の年内にどこまでこの問題についての前進が出てくるのかわかりませんけれども、我々は、いよいよ最後の取り組みを強化してくる段階になってきたということで、より一層住民の皆さん方のこうした声が直接、厚生労働省の皆さん方に聞いていただくような、そういう状況 もぜひ考えていくことも、ひとつ今後は検討して いかなければならないのではないだろうか。こういう問題についても、ぜひご検討をいただきたいというふうに思います。
(以下省略)






被爆未指定地域問題は、現在も状況や国の姿勢は変わってはおらず、「被爆体験者」は救済されないままです。




核の傷痕  医師の診た記録 〔牟田喜雄医師編〕





毎日新聞連載〔平和をたずねて〕からの転載です

牟田喜雄医師についての記事を抜粋





平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/23 

悪性腫瘍の発症2倍=広岩近広

毎日新聞 2015年01月27日 大阪朝刊

JR豊肥線の南熊本駅に近い「平和クリニック」(熊本市中央区)を訪ねた。社会医療法人芳和会くわみず病院付属のクリニックで、「平和」の文字が示すように被爆者の診療や健康相談に加えて原爆症認定集団訴訟を支援している。

院長の牟田喜雄医師が主導した「2004年くまもと被爆者健康調査」では、被爆者と非被爆者の60年間にわたる病歴を比較した。牟田医師は語る。「原爆症認定基準の欠陥は非被爆者との対照がないことです。低線量被爆者と比較した疫学調査は被爆者同士の比較なので、被爆の影響を過小評価していると言わざるを得ない。そこで独自の調査が必要だと考えたのです」
調査対象は熊本県内在住の58歳以上の被爆者278人(男性162人、女性116人)と非被爆者530人(男性298人、女性232人)だった。04年6月から1年間かけて、医師やボランティアら延べ848人が面談による聞き取り調査に参加した。水俣病訴訟の「1000人検診」などの大規模調査に学んだ。
注目されるのは、被爆者と非被爆者の年齢をプラスマイナス3歳以内として、278組のペアを組んだことだろう。このペアを比較した結果、大腸がん、胃がん、肺がんなどの悪性腫瘍の発症は被爆者が非被爆者に比べて2倍も多かった。多重がんは非被爆者に1人みられたが、被爆者では7人も発症していた。牟田医師は「被爆者の高齢化に伴い、悪性腫瘍の発症が増加していると考えられます」と説明する。
爆心地から2キロ以上離れた遠距離被爆者や入市被爆者も、非被爆者の対照群に比して、悪性腫瘍の発症者が2倍と多かった。放射線の急性症状や後障害も認められた。その一例が、爆心地から4・5キロ離れた海上での被爆だった。当時、15歳の男性は学徒動員により「ダンベ船」と呼ばれた渡船で資材を運んでいた。遮蔽(しゃへい)物のない海上で被爆し、下腿(かたい)に熱傷を負った。その後に爆心地付近を含めて入市したことで、下痢や発熱、そして脱毛などの急性症状に見舞われ、後に甲状腺機能低下症、前立腺がんを発症した。
牟田医師は「社会医学研究 第24号」(日本社会医学会誌)に、こう明記した。
<遠距離被爆者や入市被爆者に認められる障害については、被爆による後障害である可能性は否定できない。残留放射線による被ばく、特に内部被ばくを考慮する必要がある>
そして07年7月、熊本地裁は原爆症認定集団訴訟の判決で、内部被ばくに言及した。
<残留放射線による外部及び内部被ばく線量が急性症状を発生させるほど多量であったことを示すものということができる>
<残留放射線による内部被ばくの影響が考慮されていないのは、相当とはいえない>

原告勝訴の判決で、内部被ばくの重大性が指摘されたのは「くまもと被爆者健康調査」の成果に他ならない。
被爆者と非被爆者の証言は、それほど重かったのである。




平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/24 

「死の灰」苦しみ今も=広岩近広

毎日新聞 2015年02月03日 大阪朝刊

米国や旧ソ連が水爆実験を始めたとき、水素爆弾は核分裂ではなく核融合のエネルギーを利用するので放射性物質をほとんど発生しない、だから「クリーンな爆弾」だと吹聴された。

しかし、米軍が1954年3月1日に太平洋中部のマーシャル諸島・ビキニ環礁で行った水爆実験では、「死の灰」(放射性降下物)が降り注いだ。静岡県のマグロ漁船「第五福竜丸」が被災し、無線長は急性放射線症で死亡している。
実は、水素を核融合させるために原爆を利用していた。水素爆発はセ氏1億度もの高熱が必要で、この高熱発生装置として原爆が使われた。米軍は46年から58年にかけて、マーシャル諸島で67回もの核実験を強行した。最大の被害を受けたのがロンゲラップ環礁の住民で、今も放射線障害に苦しめられている。
「平和クリニック」(熊本市)の牟田喜雄院長は2013年1月、日本原水協の「ロンゲラップ島民支援代表団」に参加して、現地で45人から聞き取り調査と診察を行った。54年の水爆実験で1次被ばくした11人(男性1人、女性10人)については、7人が甲状腺がんの手術を受けており、他の2人も甲状腺機能低下症で薬を服用していた。
「死の灰」を体中に浴びた直後から、嘔吐(おうと)や脱毛を訴える人たちが出始めたといい、放射線による急性症状とみられた。牟田医師は「放射性ヨウ素などによる内部、外部被ばくの影響が大きかったと思われます」と説明する。
被ばく後、島民はいったん避難したが、米国が57年に安全宣言を出したことで、一部の住民は帰島して85年まで滞在している。この間に、残留放射線による影響を受けた。牟田医師は、こうした2次被ばく者の26人(男性8人、女性18人)を診察した。3人が甲状腺がん、7人が甲状腺機能低下症とみられ、1人が乳がん(甲状腺機能低下症も併発)、他の1人は左右の乳房にしこりを認めた。18人の女性のうち12人が流産や死産を経験していた。
さらに▽帰島してからせきが止まらず、発育の悪い息子が24歳で死亡▽乳児の頭が異常に大きくなり、9カ月で死亡▽14歳の娘が白血病で亡くなった事例−−などの報告があった。
かくして住民は再び離島を余儀なくされた。現在、ロンゲラップ島の空間線量は低くなっているが、除染は居住区に限られた。このため除染されていない島から採取したローカルフードを食べることによる内部被ばくが心配される。牟田医師は区民集会で、その点を説明した。牟田医師は振り返ってこう語る。

「食品の線量を測定する態勢が必要だと痛感しました。今後も、がんや甲状腺機能低下症などの早期発見、早期治療が重要だと思います。汚染の状況や健康被害に関する情報の公開は必要ですが、十分になされていないようです」
住民が受けた「核の傷痕」が隠されたり、過小評価されてはならない。広島、長崎、ビキニの教訓である。



平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/25 

劣化ウラン弾の悲劇=広岩近広

毎日新聞 2015年02月10日 大阪朝刊

広島と長崎の被爆者のなかには、学徒動員で軍需工場や建物疎開作業に駆り出されて原爆に遭った10代の若者が少なくない。35年間にわたって地域診療を続け、約200人の被爆者を診てきた熊本市の平和クリニック院長、牟田喜雄医師はしみじみと語る。

「軍人ではなく一般市民として、あるいは学徒動員により長崎で被爆した方を診察し、会話を交わすたびに、戦争は悲惨きわまる不幸をもたらすと痛感しました。戦争の被害者である被爆者は、がんなどに侵され、苦しい闘病生活の末に亡くなっています」
たとえば長崎で、15歳のときに被爆した男性は胃がん、膀胱(ぼうこう)がん、前立腺がんに侵され、長い闘病生活を強いられた。被爆時、14歳の女性は両親と弟を亡くし、親戚を頼って熊本に来たが耐え難いほどの苦労をしたという。17歳だった男性は全身に突き刺さったガラス片の摘出手術を繰り返し、胃がんのため72年の生涯を終えた。
牟田医師は「戦争被害による病と向かい合った体験」から護憲と反戦を掲げて2004年11月、「自衛隊イラク派兵違憲訴訟の会・熊本」の共同代表に就いた。
「劣化ウラン弾という放射性物質を使った兵器により、イラクでは子どもから大人まで大勢の市民が放射線被害を受けていました」。牟田医師は当時を振り返り、変わらぬ心情を語る。「劣化ウラン弾による微粒子を吸入したり、微粒子で汚染された飲食物を摂取したりすることにより内部被ばくを受けます。その結果、がんや白血病を発症する原因となる。放射線障害で苦しむ被爆者を診てきた私としては、劣化ウラン弾をまき散らした米軍と一体になって自衛隊が行動するのは許し難いのです。被爆国の政府はこれでいいのか、という憤りもありました」
熊本地裁で07年11月、牟田医師の意見陳述があった。イラク人の医師から聞いたデータを示して、牟田医師はこう述べた。<陸上自衛隊が駐留していたサマワを含め、イラク南部が特に劣化ウラン弾による汚染がひどい地域だということでした。アル・アリ医師が勤務している病院では、がん患者の死亡者数は、1988年には34人だったのが、2003年には650人を超え、湾岸戦争、イラク戦争後は20倍近くにまで増えているとのことでした。また、バスラでは5歳以下の子どもに、がんや白血病が1995年以降急増しています。(略)先天性奇形の出産数も急増しています。無脳症や多発性先天奇形、四肢欠損の出産数は1988年には10人だったのが、2001年には366人に増えています>(陳述書から)

牟田医師は「自衛隊派遣は憲法違反の軍事行動」と断じ、こう述べた。
「劣化ウラン弾使用によるがんなどの疾患の多発も含めて、無辜(むこ)のイラク国民の殺傷に加担することになるという事実は、私にとって耐え難い精神的苦痛です」
核の傷痕は原水爆にかぎらないのである。



2015年2月10日火曜日

核の傷痕 医師の診た記録 〔鎌田七男医師編〕




毎日新聞連載〔平和をたずねて〕から転載です

鎌田七男医師についての記事を抜粋





平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/15 

染色体異常の発見=広岩近広

毎日新聞 2014年11月18日 大阪朝刊
長崎大学医学部から朝長正允(ともながまさのぶ)教授を迎えて、広島大学医学部に「血液・腫瘍内科研究」の講座が開かれたのは1959(昭和34)年11月のことである。朝長教授は白血病の専門医で、「浦上の聖者」と呼ばれた被爆医師・永井隆博士の主治医を務めた。

2年後の61年4月、原爆放射能医学研究所(原医研)が設置されると、朝長教授の講座は臨床第一(内科)部門となった。翌62年、付属病院で被爆内科の外来診療が始まり、朝長教授は臨床にも携わる。

この年の4月、後に教授兼任で原医研の所長を務める鎌田七男さんが助手として、朝長研究室に入局する。鎌田さんは医局会の後で朝長教授に呼ばれ、博士論文の研究テーマを「被爆者の染色体解析」と告げられた。実は2年前、米国の研究者が慢性骨髄性白血病患者の骨髄細胞から、微小の染色体を見つけていた。明らかに異常染色体で、発見者の居住地から「フィラデルフィア染色体」と名づけられた。

「被爆者の染色体はどうなのか、詳しく研究する必要がある」。朝長教授は、鎌田さんに説き明かした。「これからの被爆者医療にきっと役立つはずだから、あらゆる方法を使ってアプローチしてほしい」
鎌田さんは追懐する。「朝長先生は、白血病が被爆者に多くみられた時期だったので、白血病を完全に治癒したいと意気込んでいました。

朝長教授に指示されてから半年後の10月、鎌田さんは被爆者の骨髄細胞から染色体の異常を見つける。23対46本ある染色体のうち番号の9番と22番の染色体の一部が切れ、その切れた部分が互いに入れ替わる「転座」が起きていた。フィラデルフィア染色体である。

この女性は34歳のとき爆心地から1.6キロで被爆しており、慢性骨髄性白血病に罹患(りかん)していた。彼女の骨髄細胞の染色体には62%もの異常がみられた。日本で最初のフィラデルフィア染色体の証明例は、広島原爆の被爆者だった。

以来、被爆者の染色体解析は鎌田さんのライフワークとなる。70年の血液学会では、通常の白血病と異なる「白血病細胞が分化する転座白血病」の存在を発表した。75年4月に京都で開かれた日本医学会総会のシンポジウムでは、「前白血病状態」の演題で語った。中国新聞は次のように報じている。

<広島、長崎の被爆者に多い白血病を、いわゆる発病前の前ガン症状の段階で予知する手がかりがつかめた。広島大学原医研の鎌田七男講師(四〇)が、白血病になる前の血液に、細胞の形態や染色体の異常が高率に起きていることを突き止めたもので、早期発見や治療への道を開く貴重な研究と注目されている>

91年、鎌田さんは染色体転座をもつ白血病細胞の株化に成功した。この細胞株は、広島大学の所在地・広島市南区霞1から「Kasumi−1」と名づけ、世界の研究機関などに配布している。


平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/16 

異常は線量に比例=広岩近広

毎日新聞 2014年11月25日 大阪朝刊
「この道一筋」という言葉がある。広島大学医学部名誉教授の鎌田七男さんは、被爆者の染色体解析に徹してきた。現在の原爆放射線医科学研究所(原医研)の所長時代を含め、38年間に調べた染色体は1万7655例を数える。3339例が白血病関連で、約1万件は血液の病気だった。

これらのデータの積み重ねにより、染色体の異常率から被爆した線量の推定が可能になった。染色体の異常率は、受けた放射線量に比例するからである。たとえば爆心地から1・5キロ以内の被爆者であれば、染色体の異常率からどのあたりで被爆したかを、現在でも証明できる。
この成果を得るまでには、大きな転換点があった。45年前にさかのぼる。
鎌田さんは、被爆者の骨髄細胞に染色体の異常があるのではないかとみて調べていたが、30例から否定的な結果が続々と出た。厳粛に受け止めようと思っていたところ、1970年に爆心地から700メートルで被爆した男性の骨髄細胞に異常染色体を見つけた。
「それまでは、爆心地より1・1キロから2キロの被爆者の染色体を調べていたのです」と打ち明けて、鎌田さんは続ける。「高線量の放射線を受けた被爆者ほど人体への影響が大きいと教えられてから、爆心地より1キロ以内の被爆者の染色体解析に切り替えました」

その後、爆心地から500メートル以内で被爆したが、奇跡的に生存できた78人(男性50人、女性28人)の健康管理と原爆放射線の影響調査を担うことになった。原爆を落とされたとき、地下壕(ごう)や銀行や生命保険会社のビルの地下にいた人たちで、初期放射線を浴びていないとみられた。

だが骨髄細胞を採取して調べてみると、21人中19人の染色体に異常が認められた。血液中にある免疫系のTリンパ球については、検査した36人の全員から異常染色体を発見した。高い頻度であり、残留放射線の影響としか考えられなかった。

鎌田さんは2007年6月の原爆後障害研究会で、線量が0.5Sv(シーベルト)以上の放射線を受けたとみられる近距離被爆者の4人について、推定される被爆線量を発表した。1シーベルトでは吐き気などの症状がみられ、2シーベルトは5%が死亡するとされる。4人の被爆状況は次の通りで、被爆40年後の染色体異常率に基づいた。


(1)ビルの地下にある当直室で被爆。当時、20歳。6時間後にビル外に出て避難。推定線量は0・9シーベルト。69歳時に大腸がん。
(2)地下防空壕で被爆。35歳。比治山に避難。推定線量は1・87シーベルト。脳内出血のため75歳で死亡。

(3)国民学校の地下室で被爆。8歳。教師の指揮で90分後に比治山に避難。推定線量は1・96シーベルト。55歳時に胃がん。
(4)状況は(3)と同じで、当時9歳。推定線量が3・3シーベルトと高いのは、放射化された鉄棒をつえにして逃げるなどの特別な事情を想定。42歳時に胃がん。


被爆者の染色体異常は、核の傷痕にほかならない。


平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/17 

半数致死線量を解明=広岩近広

毎日新聞 2014年12月02日 大阪朝刊
「鎮魂」と刻まれた原爆慰霊碑が、広島市中区のNTT袋町ビルの前にある。赤黒く変色した被爆タイルを埋め込んだ背後の壁に、こう説明している。<昭和20年8月6日、午前8時15分、原子爆弾が投下されすさまじい爆風と熱線により、建物が壊滅状態となった。当日勤務していた職員、女子挺身(ていしん)隊員、動員学徒等451名のうち約半数におよぶ尊き命が失われた>

ここに出てくる動員学徒の一人が、当時、広島大学医学部付属病院の講師として、白血病の診療にあたっていた鎌田七男さんの患者だった。診察室で世間話をしているとき、彼女は学徒動員の体験を語り始めた。
鎌田さんは振り返る。「高等女学校3年時に同級生と3交代で、電話交換業務などの使役に行っていたそうです。電話局は爆心地から540メートルなので、同じ年齢の15歳の女性は原爆を受けてどうなったのか−−私は気になりました」
さっそく鎌田さんは、女生徒を送り出した高等女学校の在籍簿と生徒を受け入れた電話局の震災記録を突き合わせた。彼女の証言と合致していた。
「原爆を落とされた8月6日は、60人の生徒が朝から出勤しており、うち30人が翌年の5月までに亡くなっていました。50%の生徒しか生存できないほど強い放射線を受けたと思われます」。沈黙が落ちてから、鎌田さんは言った。「私は、生存できた30人の方を探し出して、染色体の検査をさせていただきました」
その結果、明らかに染色体の異常が認められた。染色体の異常率から、被爆者の半数が亡くなる放射線線量を推定することができた。集団の50%が死亡する「50%致死線量」は、まだわかっていなかった。このため診察室の会話から生まれた鎌田さんの論文は、放射線の影響に関する国連科学委員会の報告書に掲載された。貴重な所見であった。
「実は、もう一つ発見があったのです」。鎌田さんは、生存した30人の女生徒のその後について、こう説明する。「追跡調査のできた28人の対象者のうち、6人が乳がんだったのです。高い発症率なので、統計的に解析をする必要があると思いました」
そこで鎌田さんは−−被爆したときの年齢が15歳から19歳で、爆心地から2キロ以上離れた被爆者をピックアップする。その中から乳がんの患者数を「症例対照群」とし、学徒動員で被爆した28人の女性と比べた。症例対照群は1000人あたり0・5人の乳がん発症率だったが、28人の学徒動員グループでは11・9人と高く、23倍もの高率で乳がんを発症していた。鎌田さんはこう解説する。

「爆心地に近いうえ、15歳で被爆したことが人体に影響したとみられます。年齢が若いときの被爆は、乳がんの発症率を高めるという、最初の所見でした」
被爆者の乳がんは、原爆を落とされて15年を過ぎた頃から顕著になった。特に10歳未満で被爆した女性のリスクが高い。原爆放射線の大罪の一例である。


平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/18 

過小評価された被ばく=広岩近広

毎日新聞 2014年12月09日 大阪朝刊
「爆心地から2キロ以上離れた場所で被爆しているのに、脱毛の症状がみられます。これはどういうことなのでしょうか、入市被爆者について、意見を述べてほしい」

ある公的機関から、広島大学名誉教授の鎌田七男さんに勉強会の講師依頼があった。2005年6月のことで、厚生労働省が「原爆投下から100時間以内に、爆心地から2キロ以内の市内に入市」という条件で、入市被爆者を原爆症の認定審査に加える3年前だった。

このとき鎌田さんは、広島原爆被爆者援護事業団理事長との兼任で原爆養護老人ホーム「倉掛のぞみ園」の園長を務めていた。一方で、被爆者の染色体異常のデータを解析しては論文の発表や講演をこなすなど、研究者としても多忙な日常だった。
広島市安佐北区の高台に「倉掛のぞみ園」を訪ねると、園長の鎌田さんは「被爆者は、私に多くのことを教えてくれた教育者です」と語り、冒頭の依頼について話してくれた。
「実は入市の被爆者について見解を求められたのです。放射線の影響を顕著に受けるのは、爆心地から1キロ以内の近距離被爆者だと信じていた私は、2キロ以遠の被爆者には目を向けていませんでした。だから入市者への関心は薄く、放射線の影響も少ないだろうと思っていたのです」
だが鎌田さんが当時の資料に当たり始めると、驚かされる事実に直面する。軍医部の衛生速報には、8月6日の原爆投下後に広島市に入った兵隊に関する次の記述が見られた。<作業ニ従事或ハ滞在セシ者一三六例中八九例ニ白血球減少症(二三〇〇〜五〇〇〇)ヲ認メタリ>
さらに鎌田さんは広島大学原爆放射線医科学研究所で、1970年から90年までの間に白血病と診断した早期の入市被爆者から113例を調べる。8月6日の入市者からは急性骨髄性白血病が59例、慢性骨髄性白血病が15例もみられた。
鎌田さんは「8月6日に入市した男性、6日と7日に入市した女性の被爆者に白血病が多く発生していました」と語る。そこで講師の依頼者にこんなメールを出した。
<自分の未熟さにアホれています。(略)当日入市者はかなり被曝(ばく)されている人もいると考えざるを得ません>
放射線被ばく線量の推定は、米国がネバダ砂漠で核実験をしたときのデータに基づいていた。このため残留放射線の影響が長い間、過小評価されてきたという。鎌田さんは、こう解説する。
「砂漠とちがい、広島市内では市民が暮らしていたので生活道具として金属が多くあり、原爆で放出された中性子により金属が放射化された。だから入市被爆者にも脱毛がみられ、染色体の異常があるのです」
さらに鎌田さんはかみしめるように続けた。「私たち科学者が努力をしてこなかった間に、多くの被爆者が無念の思いを抱えて亡くなりました。長い間、原爆症に認定されなかった入市被爆者もそうです」




平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/19 

体の深部傷つける=広岩近広

毎日新聞 2014年12月16日 大阪朝刊
原子爆弾は強烈な熱線と爆風により、広島と長崎の市街地を破壊した。非人道の極限ともいえる放射線を放ち、多くの住民の生命をなおも奪い続けている。

放射線の人体に与える影響は、初期の急性障害(発熱や下痢など)と、長期間にわたって健康を脅かす後障害がある。被爆5年後に白血病、10年後には甲状腺がん、20年後に乳がんや肺がん、30年後には胃がんなどが目立つようになった。
被爆者のがんを分子・遺伝子学的な観点から研究してきたのが、広島大学医学部名誉教授の鎌田七男さんである。近距離被爆者の染色体異常を立証した鎌田さんは、健康な被爆者でも骨髄細胞のDNA(デオキシリボ核酸)中に、がん化する恐れのある「がん遺伝子」が存在することを突き止めた。1987年9月の第46回日本癌(がん)学会で発表した。概要について鎌田さんは、放射線障害を科学的に解説した平和学習教材の著書「広島のおばあちゃん」(シフトプロジェクト)で、こう解説している。
<われわれの細胞にはRAS遺伝子というのがあり、いつもは正常に働いていますが、この遺伝子の一部が変化(変異といいます)すると癌になりやすくなるということがわかっています。そこで、被爆者の骨髄細胞からDNAをとり出し、処理した後、免疫力のないヌードマウスの右わきの下と左足のつけねの2ヶ所(いずれも組織の柔らかい部)に注射しますと、3週〜4週後に腫瘤(しゅりゅう)ができました。その腫瘤の中にヒトのRAS遺伝子の変異が証明されました。
この検査で陽性になった被爆者を追跡調査してみますと、1年後に脳卒中で死亡した観察期間の短い1人を除き、1人は3年後に脳腫瘍が、1人は4年後に白血病が、1人は9年後に乳癌が発生しました>
原爆放射線は人体の深部を傷つけていたのである。さらに鎌田さんは、被爆者の血液(血清)中にDNAを傷つける因子を見つけた。鎌田さんは語る。
「被爆者の血清と被爆していない健康人のリンパ球を一緒にして2日間培養すると、健康人のリンパ球染色体に異常がみられた。被爆して何十年もたっているのに、血清中にDNAを傷つける因子があるのです。東海村の臨界事故でも同じ現象がみられました」
この事故は茨城県東海村の核燃料加工施設「ジェー・シー・オー(JCO)」東海事業所で、99年9月に起きた。至近距離で放射線を浴びた3人の作業員のうち2人が死亡している。1人は造血幹細胞移植手術で、妹の骨髄細胞を移植した。手術は成功したが、作業員の命を救えなかった。根付いた細胞の中に、傷つけられた細胞があったからだ。鎌田さんは、治療にあたっていた東大病院の医師から電話を受けたとき、被爆者の血清実験で既に確認していると伝えた。

多量の放射線に傷つけられた細胞は正常な細胞を傷つける−−。再生医学が無力だったことを、東海村の臨界事故は示した。



平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/20 

フォールアウトで広範囲に=広岩近広

毎日新聞 2014年12月23日 大阪朝刊
<フォールアウトによると思われる3重癌(がん)と3つの放射線関連疾患を持つ1症例>。論文の題目が、原爆の脅威を示している。大気中に放出された放射性物質が、風雨などによって地上や海上に降り注いだのがフォールアウト(放射性降下物)である。論文は広島大学名誉教授の鎌田七男さんら6人が長崎医学会雑誌(2008年)に発表した。

症例の女性は被爆時、29歳で爆心地より4・1キロ離れた広島市西区高須で生活していた。次男を出産した3日後に原爆に遭い、「黒い雨」を見たが直接浴びてはいない。産後で動けず、親戚から届けられた食物と畑の野菜を食べたという。2週間後、隣町の自宅に戻り、鶏卵やきのこ類を口にしている。
放射性物質を含んだ「黒い雨」が広島市の己斐、高須地区を中心に降ったことは知られている。自然値より高いガンマ線の残留放射線も測定された。このため女性の放射線障害については、残留放射線による外部被曝(ばく)と放射性降下物を呼吸や飲食などで取り込んだ内部被曝を考慮する必要があった。女性の既往歴を論文から抜粋したい。
<60歳頃、骨そしょう症▽68歳、卵巣のう腫▽82歳5月、右肺癌▽82歳12月、胃癌▽83歳8月、残胃癌▽84歳10月、大腸癌▽86歳、骨髄異形成症候群(汎血球減少症)▽87歳、甲状腺機能低下症>
論文は女性について、こう述べている。<放射線によって誘発されると考えられている肺癌、胃癌、大腸癌の3つの固形癌(転移性でないことはその組織型、分化程度の違いにより明白である)と前白血病状態である骨髄異形成症候群を経験している>

鎌田さんが彼女の染色体を調べると、1142個の分裂細胞のうち25個に異常がみられた。60歳以上の一般人に出現する異常率は0・4%だが、この女性は2・19%と高かった。だが内部・外部の総被曝線量を正確に推定することは難しく、論文はこう記した。<放射線関連疾患を主とした身体的影響度を考慮し、被曝線量を総合的に推測すると、本症例ではおおよそ0・3Sv(シーベルト)に相当する内部および外部被曝があったものと考える>(0・1Sv以上の放射線を短期間に浴びると、癌リスクが高まるといわれる)。そのうえで論文は結論づけた。
<初期放射線に直接被曝した人では線量依存性に多重癌がみられており、フォールアウト地域に居住した本症例は初期放射線被爆者と軌を同じくするものと考えられる>
多重癌は異なる二つ以上の発癌のことで、鎌田さんは説明する。「被爆者は放射線によって、いくつもの遺伝子が傷つけられているので、癌になりやすい素地があります。全身が放射線に被曝していたら、転移ではなく、体のどこに癌が発症してもおかしくない状況にあるのです」

「フォールアウト」による多重癌の症例は、原爆障害が広範囲に及ぶことを証明した。



平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/21 

40年後に増えた髄膜腫=広岩近広

毎日新聞 2015年01月06日 大阪朝刊
広島市は2012年から「被爆体験伝承者」推進プログラムを始めている。被爆者の高齢化に伴い、体験を語れる人が少なくなってきたため伝承者を養成することにした。研修期間は3年間で毎年10回のカリキュラムを組み、被爆の実相や話法技術を学ぶ。被爆者との交流会もある。

広島大学名誉教授の鎌田七男さんは「原爆の人体への影響」を解説している。血液学の医師として長年、被爆者をフォローしてきただけに、その事例は真に迫る。鎌田さんは研修生を前に<被爆後の約20年間に起きた原爆障害>をパワーポイントを使って、スクリーンに映し出した。

(1)白血病とがん
(2)放射線白内障
(3)脳出血(梗塞(こうそく))・心筋梗塞等血管障害
(4)染色体異常
(5)成長・発育の遅延(幼少時被爆)
(6)知的障害を伴う小頭症(胎内被爆)
(7)ケロイド

続いて鎌田さんは、<今、被爆者に起きていること>を紹介した。

(1)染色体の異常
(2)免疫力の低下(異物認識の低下、抗体の恒常的高値)
(3)DNAを傷つける血清中の因子
(4)「がん」遺伝子(RAS)の活性化
(5)多重がん
(6)精神的影響(心の負担)

鎌田さんは語る。「一度に大量の放射線を受けた場合、臓器によって悪性腫瘍の発症する時期が違うことがわかりました。細胞の放射線に対する感受性が同じではないからです。だから転移ではない多重がんを発症し、甲状腺や大腸など4種類のがんと闘っているおばあちゃんもいます」
さらに鎌田さんは言った。「被爆から40年もへて、皮膚がんや髄膜腫が増えたのは驚きでした。皮膚や髄膜は細胞分裂をあまり行わないので、がんの発生は予想していなかったのです」
髄膜腫は良性の脳腫瘍だが、腫瘍が腫大化すると悪性の扱いを受け、手術をしなければならない。鎌田さんが髄膜腫を発見したのは、フォローしている近距離被爆者の一人が「頭が痛い」と訴えたことに始まる。
者が「頭痛持ちで鎮痛剤を飲んでいる」と話していたのを思い出した。検査すると、やはり髄膜腫だった。被爆者の40人中2人に髄膜腫がみられたのは偶然でないと考え、鎌田さんは広島市内の病院の協力を得て詳しく調べた。すると爆心地から1キロ以内の被爆者に、髄膜腫が高率で発症していた。原爆放射線の後障害にほかならない。
髄膜腫は、被爆者に多い腫瘍のなかで、皮膚がんに次ぐ8番目のがんとして登録された。鎌田さんはこう説明する。
「被爆して60年以上になると、発がん性には被爆の要素と加齢の要素が相乗しあっていると思われます。新たながんが発症するのは、被爆の影響が遺伝子レベルで残っていると考えざるをえない」
被爆者を診てきた鎌田さんは、「今後、何がおきるか、まだわかりません」と苦渋の表情をのぞかせた。


平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/22 

21%の染色体に異常=広岩近広

毎日新聞 2015年01月20日 大阪朝刊
核兵器を保有しない日豪など12カ国による「軍縮・不拡散イニシアチブ(NPDI)」の第8回外相会議が昨年4月、広島市で開催された。あわせて核兵器廃絶日本NGO連絡会は講演会や座談会を開いた。当時の広島大学原爆放射能医学研究所の所長を務め、現在、広島原爆被爆者援護事業団理事長の鎌田七男さんは「核兵器の非人道性−−医学的エビデンスから」と題して講演した。「被爆者の生涯からみた非人道性」を語り始めると、会場は静まり返った。

鎌田さんによると、男性被爆者のAさんは染色体に21%の異常率がみられた。Aさんは被爆時、8歳だった。爆心地から約460メートルの袋町国民学校にいたが、地下室だったため一命を取り留めた。だが、両親ら9人家族の6人を失う。45歳の母と3歳の弟は即死、46歳の父と19歳の次女は1カ月後に急性放射線症で亡くなった。22歳の長女の遺体は見つかっていない。
生存できたのは次男のAさんと当時15歳の長男、12歳の三女の3人だった。親戚の家をたらい回しにされた後、Aさんは孤児収容所に入る。1957年に清掃作業員として働き始め、10年後に家庭を築いた。やっと手にした幸せだった。
だが、91年に胃がんが見つかり、Aさんは2度手術をする。2001年には女の子の初孫が白血病で死んだ。息子は父をおもんばかってか、病名などを明かさなかった。Aさんとメールの交換をしていた鎌田さんは「父と息子は互いに悩んでいたと思います」と話す。その後、Aさんは原爆放射線に起因する間質性肺炎にかかり、呼吸をするたびに苦しんだ。そして07年末、自ら命を絶った。
鎌田さんは途絶えた年賀状のことに触れてから、こう語った。「部屋にロープを張って、そこに着物をかけて生存しているように見せかけるなど、最期まで気配りの人でした。戦争はむごい、と言っておられたことを思い出します」
鎌田さんは、スクリーンに映し出した。<核兵器が非人道性である証拠−−その本質は遺伝子異常をおこさせることである>
多重がんはその一例だろうが、鎌田さんは被爆2世のことも気がかりだという。白血病を発症した広島原爆の被爆2世の54人について、生活環境や遺伝的素因が類似している兄弟姉妹らと比較して調査した。父親が被爆していて、戦後の早い時期に生まれた2世ほど白血病にかかる確率が高かった。鎌田さんは「2世への影響をただちに示すものではないが、影響がないとは言い切れない」と率直に述べた。

かつて被爆者と染色体の異常に関する論文を発表するまでに、被爆者に不安を与えるのではないかと、鎌田さんのなかで5年間の葛藤期間があったという。しかし広島の科学者として、事実を示しておく決意を固めた。それは核兵器の非人道性を証明することでもある。だから鎌田さんは、研究論文を発表し続けている。