毎日新聞連載〔平和をたずねて〕からの転載です
牟田喜雄医師についての記事を抜粋
平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/23
悪性腫瘍の発症2倍=広岩近広
毎日新聞 2015年01月27日 大阪朝刊
JR豊肥線の南熊本駅に近い「平和クリニック」(熊本市中央区)を訪ねた。社会医療法人芳和会くわみず病院付属のクリニックで、「平和」の文字が示すように被爆者の診療や健康相談に加えて原爆症認定集団訴訟を支援している。
院長の牟田喜雄医師が主導した「2004年くまもと被爆者健康調査」では、被爆者と非被爆者の60年間にわたる病歴を比較した。牟田医師は語る。「原爆症認定基準の欠陥は非被爆者との対照がないことです。低線量被爆者と比較した疫学調査は被爆者同士の比較なので、被爆の影響を過小評価していると言わざるを得ない。そこで独自の調査が必要だと考えたのです」
調査対象は熊本県内在住の58歳以上の被爆者278人(男性162人、女性116人)と非被爆者530人(男性298人、女性232人)だった。04年6月から1年間かけて、医師やボランティアら延べ848人が面談による聞き取り調査に参加した。水俣病訴訟の「1000人検診」などの大規模調査に学んだ。
注目されるのは、被爆者と非被爆者の年齢をプラスマイナス3歳以内として、278組のペアを組んだことだろう。このペアを比較した結果、大腸がん、胃がん、肺がんなどの悪性腫瘍の発症は被爆者が非被爆者に比べて2倍も多かった。多重がんは非被爆者に1人みられたが、被爆者では7人も発症していた。牟田医師は「被爆者の高齢化に伴い、悪性腫瘍の発症が増加していると考えられます」と説明する。
爆心地から2キロ以上離れた遠距離被爆者や入市被爆者も、非被爆者の対照群に比して、悪性腫瘍の発症者が2倍と多かった。放射線の急性症状や後障害も認められた。その一例が、爆心地から4・5キロ離れた海上での被爆だった。当時、15歳の男性は学徒動員により「ダンベ船」と呼ばれた渡船で資材を運んでいた。遮蔽(しゃへい)物のない海上で被爆し、下腿(かたい)に熱傷を負った。その後に爆心地付近を含めて入市したことで、下痢や発熱、そして脱毛などの急性症状に見舞われ、後に甲状腺機能低下症、前立腺がんを発症した。
牟田医師は「社会医学研究 第24号」(日本社会医学会誌)に、こう明記した。
<遠距離被爆者や入市被爆者に認められる障害については、被爆による後障害である可能性は否定できない。残留放射線による被ばく、特に内部被ばくを考慮する必要がある>
そして07年7月、熊本地裁は原爆症認定集団訴訟の判決で、内部被ばくに言及した。
<残留放射線による外部及び内部被ばく線量が急性症状を発生させるほど多量であったことを示すものということができる>
<残留放射線による内部被ばくの影響が考慮されていないのは、相当とはいえない>
原告勝訴の判決で、内部被ばくの重大性が指摘されたのは「くまもと被爆者健康調査」の成果に他ならない。
被爆者と非被爆者の証言は、それほど重かったのである。
平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/24
「死の灰」苦しみ今も=広岩近広
毎日新聞 2015年02月03日 大阪朝刊
米国や旧ソ連が水爆実験を始めたとき、水素爆弾は核分裂ではなく核融合のエネルギーを利用するので放射性物質をほとんど発生しない、だから「クリーンな爆弾」だと吹聴された。
しかし、米軍が1954年3月1日に太平洋中部のマーシャル諸島・ビキニ環礁で行った水爆実験では、「死の灰」(放射性降下物)が降り注いだ。静岡県のマグロ漁船「第五福竜丸」が被災し、無線長は急性放射線症で死亡している。
実は、水素を核融合させるために原爆を利用していた。水素爆発はセ氏1億度もの高熱が必要で、この高熱発生装置として原爆が使われた。米軍は46年から58年にかけて、マーシャル諸島で67回もの核実験を強行した。最大の被害を受けたのがロンゲラップ環礁の住民で、今も放射線障害に苦しめられている。
「平和クリニック」(熊本市)の牟田喜雄院長は2013年1月、日本原水協の「ロンゲラップ島民支援代表団」に参加して、現地で45人から聞き取り調査と診察を行った。54年の水爆実験で1次被ばくした11人(男性1人、女性10人)については、7人が甲状腺がんの手術を受けており、他の2人も甲状腺機能低下症で薬を服用していた。
「死の灰」を体中に浴びた直後から、嘔吐(おうと)や脱毛を訴える人たちが出始めたといい、放射線による急性症状とみられた。牟田医師は「放射性ヨウ素などによる内部、外部被ばくの影響が大きかったと思われます」と説明する。
被ばく後、島民はいったん避難したが、米国が57年に安全宣言を出したことで、一部の住民は帰島して85年まで滞在している。この間に、残留放射線による影響を受けた。牟田医師は、こうした2次被ばく者の26人(男性8人、女性18人)を診察した。3人が甲状腺がん、7人が甲状腺機能低下症とみられ、1人が乳がん(甲状腺機能低下症も併発)、他の1人は左右の乳房にしこりを認めた。18人の女性のうち12人が流産や死産を経験していた。
さらに▽帰島してからせきが止まらず、発育の悪い息子が24歳で死亡▽乳児の頭が異常に大きくなり、9カ月で死亡▽14歳の娘が白血病で亡くなった事例−−などの報告があった。
かくして住民は再び離島を余儀なくされた。現在、ロンゲラップ島の空間線量は低くなっているが、除染は居住区に限られた。このため除染されていない島から採取したローカルフードを食べることによる内部被ばくが心配される。牟田医師は区民集会で、その点を説明した。牟田医師は振り返ってこう語る。
「食品の線量を測定する態勢が必要だと痛感しました。今後も、がんや甲状腺機能低下症などの早期発見、早期治療が重要だと思います。汚染の状況や健康被害に関する情報の公開は必要ですが、十分になされていないようです」
住民が受けた「核の傷痕」が隠されたり、過小評価されてはならない。広島、長崎、ビキニの教訓である。
平和をたずねて:核の傷痕 医師の診た記録/25
劣化ウラン弾の悲劇=広岩近広
毎日新聞 2015年02月10日 大阪朝刊
広島と長崎の被爆者のなかには、学徒動員で軍需工場や建物疎開作業に駆り出されて原爆に遭った10代の若者が少なくない。35年間にわたって地域診療を続け、約200人の被爆者を診てきた熊本市の平和クリニック院長、牟田喜雄医師はしみじみと語る。
「軍人ではなく一般市民として、あるいは学徒動員により長崎で被爆した方を診察し、会話を交わすたびに、戦争は悲惨きわまる不幸をもたらすと痛感しました。戦争の被害者である被爆者は、がんなどに侵され、苦しい闘病生活の末に亡くなっています」
たとえば長崎で、15歳のときに被爆した男性は胃がん、膀胱(ぼうこう)がん、前立腺がんに侵され、長い闘病生活を強いられた。被爆時、14歳の女性は両親と弟を亡くし、親戚を頼って熊本に来たが耐え難いほどの苦労をしたという。17歳だった男性は全身に突き刺さったガラス片の摘出手術を繰り返し、胃がんのため72年の生涯を終えた。
牟田医師は「戦争被害による病と向かい合った体験」から護憲と反戦を掲げて2004年11月、「自衛隊イラク派兵違憲訴訟の会・熊本」の共同代表に就いた。
「劣化ウラン弾という放射性物質を使った兵器により、イラクでは子どもから大人まで大勢の市民が放射線被害を受けていました」。牟田医師は当時を振り返り、変わらぬ心情を語る。「劣化ウラン弾による微粒子を吸入したり、微粒子で汚染された飲食物を摂取したりすることにより内部被ばくを受けます。その結果、がんや白血病を発症する原因となる。放射線障害で苦しむ被爆者を診てきた私としては、劣化ウラン弾をまき散らした米軍と一体になって自衛隊が行動するのは許し難いのです。被爆国の政府はこれでいいのか、という憤りもありました」
熊本地裁で07年11月、牟田医師の意見陳述があった。イラク人の医師から聞いたデータを示して、牟田医師はこう述べた。<陸上自衛隊が駐留していたサマワを含め、イラク南部が特に劣化ウラン弾による汚染がひどい地域だということでした。アル・アリ医師が勤務している病院では、がん患者の死亡者数は、1988年には34人だったのが、2003年には650人を超え、湾岸戦争、イラク戦争後は20倍近くにまで増えているとのことでした。また、バスラでは5歳以下の子どもに、がんや白血病が1995年以降急増しています。(略)先天性奇形の出産数も急増しています。無脳症や多発性先天奇形、四肢欠損の出産数は1988年には10人だったのが、2001年には366人に増えています>(陳述書から)
牟田医師は「自衛隊派遣は憲法違反の軍事行動」と断じ、こう述べた。
「劣化ウラン弾使用によるがんなどの疾患の多発も含めて、無辜(むこ)のイラク国民の殺傷に加担することになるという事実は、私にとって耐え難い精神的苦痛です」
核の傷痕は原水爆にかぎらないのである。