原爆爆発後に発生した残留放射能での原爆症描写、特に呼吸によって放射性物質を体内に取り込む内部被曝の様を早くから現場で感じ取り、原爆投下の一ヵ月後にはその存在を確信していた都築正男。
都築は、その未知の現象を原爆の「放射性毒ガス」によって起きるものと表現し、学会医学誌に発表しようとする。
しかし占領下においてアメリカ側からの度重なる圧力と検閲により発表を禁じられ、それでも「放射性毒ガス」の自説を譲ろうとしなかった都築は学会を一定期間追放されてしまう。
長きに渡り、それは日本で研究されず解明は手つかずとなっていった。
上記の詳細に関する【複数の参考文献および、それら記述の一部抜粋】は以下。
【ヒロシマ・残留放射能の四十二年~原爆救援隊の軌跡】
「被爆直後の広島に来て、医学的調査をした東京帝大の都築正男博士は、原子爆弾の被害は、熱線、爆風、放射能の他に『放射性毒ガス』によるものがあると当時発表している。
昭和20年9月8日の論文で『所謂「原子爆弾傷に就いて(特に医学の立場からの対策)』と題するものである。
「爆発直後、爆心直下には白い煙様の刺戟性のある瓦斯が漂ふて居て、それを吸い込むと咽頭または喉頭を害し、時には窒息様の苦悩を覚えたと訴える人が少なくない。(中略)各方面からの情報を総合して考えてみると、爆発後数日間はある程度人体に悪影響を及ぼす毒因子が残っていたらしいが、其れが何物であったであろうかとの問題は我々の知りたいところである」
放射線医学で学位を取った都築博士は、この原因を、いわゆる核分裂生成物、誘導放射能、そして発生したかもしれぬ『未知の毒物』の三者のいずれかであるとしている。当時すでに残留放射能の存在を看破し、その人体影響を推測した炯眼(けいがん)である。」
【封印されたヒロシマ・ナガサキ:高橋博子】
「ファーレル准将は、マンハッタン計画の責任者レスリー・グローブス少将宛ての、9月12日付の報告で、
「昨日広島で行われた日本側公式筋との会合において、東京帝国大学、放射線医学者の都築博士から、原爆が爆発したときに毒ガスが放出されたのではないかとの質問が出された。このような作り話を直ちに叩きつぶすために、本官は都築博士に毒ガスは放出されなかったと正式に伝えた。本官が当地で権威を以ってこの報道を公表し、また貴殿が合衆国において公表することは、極めて望ましいと思われる」
と記した。」
【1945年9月12日、ファーレル東京記者会見】
同じ9月12日、東京記者会見でのトーマス・ファーレル准将による発言(一部)
「9月9日、日本人当局者は、これらのうちの誰も死亡していないし、誰も深刻な傷害を受けていないと述べた。これは、危険な量の残留放射能はないという、我々の専門家の意見を確認するものである。広島での会合で、東京帝国大学の放射線学者である都築正男博士は、「爆弾の爆発時に有毒ガスが放出された可能性があると考えている」と述べ、我々は確認あるいは否定を求めた。都築博士に対し、そうした仮定は全くの誤りであるという正式の声明を出した。有毒ガスなどは放出されなかった」
【封印されたヒロシマ・ナガサキ】
9月19日、GHQ、「プレスコード」発令。
「ファーレルはさらに、9月27日、グローブス宛ての覚書の中で、
「日本の公式筋と新聞は、放射能の残留効果に関して間違った発言をした。ある指導的な日本の科学者(都築正男)は、爆発のときに有毒ガスが発せられたのではないかと思うと述べた。私はガスが放出されなかったという件については公式に否定しておいた」
と説明している。」
【封印されたヒロシマ・ナガサキ】
日本人科学者による原爆症に関する報告は、GHQの検閲下で管理されていた。とりわけ残留放射能の影響を示す情報は削除された。具体例を挙げると、1946年5月、都築正男博士が『綜合医学』のために書いた原稿は、部分削除の命令を受けてGHQ民間検閲局から返却された。その削除部分とは「爆発操作に伴う何等かの毒瓦斯様物の発生は考え得ることであり、これ等の毒物によって死亡された犠牲者もあったであろうことは想像に難くない。」
という記述部分であった。
【原爆報道とプレスコード:笹本征夫】
「検閲によって削除された部分。
都築正男『所謂「原子爆弾傷(特に医学の立場からの対策)<綜合医学>2巻14号(1945年10月号)』の校正ゲラ。
「幾多の点から考えてみて、爆発に伴う毒瓦斯様物の発生が認められることであり、これ等の毒物によって死亡された犠牲者もあったであろうことは想像に難くない。次に、この爆発が故意に毒瓦斯様物を発散するよう作られていたかどうかということは目下のところ何等の手懸りを得て居ない。適当な機会があればアメリカ側に聞いてみたいと思っている。」
『広島原爆戦災史』掲載、中国新聞(昭和39年7月)記事
「東京帝国大学の都築正男博士(大正十二年・放射線学についての研究論文で学位をとる。)は、被爆後の広島に来て調査した結果、原子爆弾の被害は、熱線、爆風、放射能のほかに、「放射性毒ガス」によるものがあることを、被爆者の症状からつきとめて、帰京後、昭和二十年十一月にこのことを書いたパンフレット三〇部を各地の知名医に配布した。
これをマッカーサー司令部が探知して、全部数を回収し、博士に対し「放射性毒ガスの文字を削除し、英文にして外国へ配布せよ」と命令した。
博士が、これを拒否したため、マッカーサー司令部は昭和二十一年秋、初代ABCC所長テスマー博士を、横須賀のCICで都築博士と会見させ、妥協させようと図ったが実現しなかった。
同年末、都築博士は東京帝国大学教授から追放され、まもなく復帰したが、その後も博士が自説をまげず、放射性毒ガスのあったことを主張したので、二十二年はじめ第二次追放令が発せられ、平和条約発効の年まで第一線に立てなかった。」