2016年4月8日金曜日

ノーモア・ヒバクシャ訴訟、熊本原告(福岡高裁・控訴審)の詳細と被爆証言


ノーモア・ヒバクシャ(原爆症認定)熊本訴訟の控訴審判決が、2016年4月11日に福岡高裁で言い渡されます。

一審では原告は計8名でした。

熊本地裁判決(2014年3月28日)で裁判所は、8名のうち5名を原爆症と認定。

その後、勝訴した原告5名のうち3人に対し、国側は判決を不服として控訴(勝訴した原告のうち2名は確定)。

一方で敗訴した原告3名のうち2人もまた国に対して控訴(敗訴した原告のうち1名は控訴を断念したため確定しました)。

今回、福岡高裁で判決が出る原告の方々(前回勝訴の3名、前回敗訴の2名による合計5名)の詳細および被爆証言です。

なお、熊本地裁では残念ながら敗訴し、これ以上の訴訟継続は無理と断念されたお1人の方(すでに敗訴が確定)についても、被爆実相を伝える意味においては貴重な証言のひとつであるため一番最後に掲載しています。


2016年4月8日現在)





早川恵美子さん(熊本地裁で勝訴後に国から控訴を受け、福岡高裁で争う)


弁護士 松岡 智之

早川さんは、長崎の爆心地から約2.5キロメートルの地点に位置する長崎市西山町3丁目181の自宅の縁側で、建物による遮蔽もなく初期放射線に被曝しおり、「新しい審査の方針」(平成20年3月17日、乙1)にいわゆる積極的に認定する範囲の被曝者です。
また、早川さんは、放射性降下物の影響が顕著に見られた西山地区に居住し、黒い雨にも濡れており、放射性降下物の吸入による内部被曝のみならず外部被曝もしていると考えられます。
また、早川さんは、被曝後、急性症状を発症し、放射線起因性があるとされるケロイド、子宮筋腫、高血圧症、狭心症を発症しており、被曝線量は、急性症状を発症させるほどに大きかったと考えられます。被爆時の熱傷はケロイド化して現在まで残っているほどです。
被告は、早川さんの高血圧症発症の主な原因は、生活習慣及び加齢のせいであると主張しています。
しかし、早川さんは、高血圧の家族歴を認めないにもかかわらず、21歳という若年で高血圧を発症しています。原爆被爆者においては、高血圧のリスクが、被曝線量が増加するにつれて増加したと報告されています。
また、早川さんは急性症状を発症するほどの高線量を被曝したと考えられることから、原爆放射線の影響により高血圧を発症したと推定され、その結果、高血圧性脳出血を発症し、後遺症として左片麻痺、左半身の感覚障害、構音障害を認めるに至ったといえます。そして、原爆被爆者においては、出血性脳卒中のリスクが、被曝線量が増加するにつれて増加したとするとも報告されています。
したがって、早川さんの高血圧性脳出血後遺症(左片麻痺)について、放射線起因性が認められるのは明らかであり、速やかに原爆症と認定されるべきです。



法廷では、原告の早川恵美子さんが車いすで、ご自身の被爆の体験や病気のことを話されました。 

早川さんは「小学校2年生の時に、長崎で爆心地から約2kmの西山町の自宅で被爆。朝から元気に登校しましたが、警戒警報が出たので下校し、自宅の縁側でトランプをして遊んでいました。

突然警戒警報、空襲警報が鳴り、敵機が来襲しました。兄たちは逃げ、縁側に一人取り残されると、ピカッと光り、爆風で吹き飛ばされました。気が付くと壊れた家の階段で、やけどを負い、熱くて泣いていました。
シャツもモンペもずたずたになり、背中はやけどし、右の太ももにはガラスが刺さり、出血し、痛みました。階段で泣いていると姉が助けに来てくれ、姉たちと山の中の防空壕まで逃げました。
途中黒い雨で真っ黒になりながら、「助けてー」と倒れて叫ぶ人たちをみました。、私は逃げるのに必死で助けることもできませんでした。
防空壕では、1週間ほど救護活動をし、陶器の茶碗に水を入れ、亡くなる前の人たちに最後の水を上げていました。

1か月発熱や痛みがあり、食欲もなく髪もたくさん抜けました。背中にはやけど、太ももには切り傷が残りました。
小学校の時は元気に学校に通っていた私が、被爆後は、様々な病気を患うようになりました。
中学校では月経が多く、18歳の時は子宮筋腫の手術を受け、20代から高血圧、めまい、40代からは血尿が1か月続き、50代は高血圧による脳出血で倒れました。 今も狭心症、高血圧の薬を飲んでいます。
被爆後は、入退院の繰り返しで、夫や子供たちにも苦労を・・・・・・・・」


(そこまでは穏やかに切々と話されていた早川さんは、途中からは涙で、話が続けられなくなりました。聞いていた私たちも、そのつらさが伝わってきてこみ上げるものがありました。
国側の代理人や裁判官に、原告の長きにわたるつらい日々や苦しみが伝わっただろうか?)

最後に早川さんは、「平成20年原爆症の認定申請をしましたが、却下されました。裁判には今までめまいで倒れ参加できず、今日やっと参加できました。正当な補償がされることを望みます。」と静かに話されました。

雨の中、車いすで五階の法廷まで上がった原告の堅島さんや早川さんの思いが、伝わることを願わずにはおれませんでした。


原告早川恵美子さんは、「もっともっと言いたいことはあったけど。 地獄のようなことが二度とないようにと言いたかった」と話されました。


早川惠美子さんの意見陳述


1 私は、小学校2年生の時、爆心地から約2キロメートルにある長崎市西山町の自宅で被爆しました。その日は、朝から元気に小学校に登校しましたが、警戒警報、空襲警報が出たため、みんなで下校しました。下校後、空襲警報が解除されたため、自宅の縁側に座って、友達数人と兄とトランプをしていました。トランプをしていると、突然、警戒警報、空襲警報が鳴り、続いて爆撃機の爆音が聞こえてきました。
2人の友人と兄はトランプをやめ、急いで逃げていきました。その後、縁側に一人残されていると、目のくらむような明るさで、「ぴかっ」と光ったと思ったら、「ぐわーん」という音と、「うわっ」という爆風に襲われました。気付くと、私は、壊れた家の階段付近で、全身が「熱い熱い」と言って泣いていました。
私は、被爆時、女の子用の袖のない背中の開いたシャツと、もんぺを着ていましたが、どちらもズタズタに裂けていました。背中のシャツから露出した部分が赤く腫れ上がり、一部は焼きただれていました。右の太ももにはガラス片が刺さり、出血して痛みがありました。

2 階段付近で泣いていると、姉が助けにきました。その後、火の粉から身を守るため、池の水で濡らした布団を被って姉たちと一緒に近くの山にある防空壕に避難しました。逃げる途中、黒い雨のような物が降ってきて、全身が真っ黒になりました。また、逃げる途中、多くの人が「助けて助けて」と言って倒れているのを見ました。建物の下敷きになって助けを求めている人も見ました。しかし、私は逃げるのに必死で何もすることはできませんでした。防空壕には、爆心地から避難してきた人が多くやってきており、一週間ほど救護活動をして過ごしました。私は、陶器の茶碗に雨水を集めて、亡くなる人に飲ませたりしていました。防空壕では、次々と死者が出ました。遺体を運び出した後には再び負傷者が運び込まれるといった状況でした。被爆後1ヶ月間は、発熱や右太ももからの出血が続き、食欲もありませんでした。髪の毛もたくさん抜けました。

3 私の背中には、黒いやけどの痕が残り、太ももには切り傷が残りました。また、被爆時まで病気もせず元気に小学校に通っていた私が、被爆後、様々な病気を患うようになりました。
中学生になると、月経が多くなりました。そして、18歳の時には職場で倒れて病院に運ばれ、子宮の出術を受けました。
21歳の頃から、高血圧による、めまいに苦しむようになりました。とくに40歳頃から、めまいがひどくなりました。また、尿からの出血が1ヶ月間続くこともありました。
53歳の時に、福岡で甥の結婚式に参加しているとき、突然胸が苦しくなり、救急車で運ばれました。この時は、高血圧性脳出血を発症し、左半身に麻痺が残りました。
平成8年には、狭心症発作を発症し、入院して治療を受けました。
現在は、高血圧性脳出血の再発防止のため、高血圧や狭心症などの治療薬を服用中です。

4 このように、私は、長い間、被爆による病気と闘ってきました。入退院の繰り返しで、夫と子供たちにはとても迷惑をかけたと思います。
平成20年7月28日、原爆症の認定申請をしましたが、平成22年7月29日付けで却下されました。
私は今でもめまいなどに日々悩まされています。裁判も、いつも体調不良で参加できず、今回ようやくこうして参加することが出来ました。私の病気に対して正当な補償がされることを望みます。

以上



石川笑美子さん(熊本地裁で勝訴後に国から控訴を受け、福岡高裁で争う)

原告石川の慢性腎不全は原爆症である
弁護士 小野寺 信勝

原告石川笑美子さんの申請疾病である腎不全が放射線に起因すること、そして、現在も治療を要することについて、意見を申し上げます。
石川さんは、被曝後1週間程経過してから、高熱及び斑点が生じるとともに、顔がパンパンに腫れるという症状が生じました。
この点、被告国は、石川さんの急性症状は、猩紅熱やA群β溶連菌感染によって引き起こされたと主張していますが、いずれも石川さんに生じた急性症状と国が主張する疾病等が呈する症状や発症までの経緯と合致しません。
石川さんは、爆心地から3.8㎞離れた自宅で被爆しましたが、被爆直後に避難した防空壕付近や自宅付近には、放射性降下物等が存在しており、防空壕への避難や自宅で生活を続けたことによって、相当程度の残留放射線を内部被曝、外部被曝をしたと考えられます。
こうした事実に照らせば、石川さんの急性症状は、国が主張するような症状によって引き起こされたのではなく、被爆による急性症状と考えることが合理的です。
そして、石川さんは、被曝後に免疫能が低下している状態で、急性連鎖球菌感染後糸球体腎炎を発症し、それが慢性化して徐徐に腎機能障害が進行し慢性腎不全に至ったと考えられます。
世羅ら論文(「原爆被爆者における慢性腎臓病と心血管疾患危険因子」(F5の4))でも、放射線被曝と慢性腎不全との間に有意な関連性があることが示されたと報告されています。
したがって、石川さんの慢性腎不全について、速やかに原爆症と認定されるべきです。





石川笑美子さんの尋問

主尋問は、小野寺信勝弁護士が行いました。 

石川さんは新中川町の自宅で13歳の時に被曝。近くの防空壕に避難し家族は全員無事。
1週間後に発熱し1か月ほど続いた。足腰の痛み、紫の大きな斑点が両手、両足にたくさん出て、顔もパンパンに腫れだしたそうです。

被爆前は女学校も無欠席でしたが、被曝後は体が弱く、就職はせず自宅の商売を手伝い、きつくなると横になって休憩していたそうです。

昭和28年結婚。その後も、腎臓炎、くも膜下出血、慢性腎不全などの病気となり、現在は透析中です。

国側からは、被爆状況と紫の斑点について、細かく質問がされました。



原告の石川笑美子さんが被爆の体験を陳述しました。



石川笑美子さんの陳述

13歳の時に、自宅で被曝しました。当時長崎女学校に通っていましたが、警戒警報が解除されて自宅に帰ると、両親、姉、弟の誰もいなかったので、雨戸をあけました。すると突然の稲妻と爆風です。私は広島に新型爆弾が落ちたと聞かされていました。光に当たると黒こげになると聞いていたので、これは新型爆弾ではないと安心しました。そして、防空壕に避難するため近所の人についていきました。長崎市内は真っ赤になっていました。防空壕で無事に避難していた家族に会えました。

近所は倒壊していましたが、食料品店をしていた私の自宅は大丈夫でした。その後1週間して突然発熱し、紫色の斑点が出ました。顔はむくみ学校も休みがちになり、体育は見学しました。心臓障害になり、ずっと薬を飲むことになりました。

平成5年に慢性腎不全になり、いつ透析するようになるかわからない状況です。被曝前は健康だったのにと思います。2011年原爆症認定申請をしましたが却下されました。心臓の病が原爆のせいだと認めて、しっかり補償をしてください。




2012(平成24)年2月10日
熊本地方裁判所民事2部合議B係 御中

原 告 石川 笑美子

私は13歳のとき、爆心地から3.8㎞離れた長崎市新中川町の自宅で被爆しました。
8月9日午前8時30分頃に長崎市立女学校に通学しましたが、学校に着くなり警戒警報が鳴ったので自宅に帰ることになりました。私の家は両親、姉、弟の5人家族だったのですが、家には誰もいませんでした。雨戸は開けていたので部屋に光りが差し込んでいました。

家で寝転んで漫画を読んでいると、突然、稲光のような光が襲いました。そして、突然、大きな音と爆風で家が大きく揺れました。私はとっさに新型爆弾だと思いました。
父から「広島に新型爆弾が落とされた」「稲光よりもひどか光たい」「その光におうたらくろんぼになる」と聞かされていました。私は長崎にも新型爆弾が落とされた、光にあたったから黒焦げになってしまうと思いました。おそるおそる手を見ましたが、手は黒くなっていませんでした。つねってもみましたが痛かったので新型爆弾じゃないと安心したことを覚えています。
近所の神社の裏にある防空壕に避難しようと家の外に出ました。しかし、爆風で煙が舞っていて、どこに防空壕があるのかわかりませんでした。逃げなければと思いつつもどこに逃げたらいいのか呆然としているところに、近所の人が防空壕に避難しようとしていたので、その人に付いていくと中川町の八幡宮の裏手にあった防空壕に入ることができました。
防空壕から外の様子を見ることができましたが、長崎市内が真っ赤に燃えていました。家族のことが心配でしたが、皆同じ防空壕に避難していて家族と会うことができました。家族が無事で安心したことを覚えています。防空壕に数時間避難していましたが、爆音や揺れは続かなかったので、空襲は収まったのだと思い、その日の夕方に自宅に戻りました。

近所では倒壊した家もありましたが、幸いにして家は無事だったので家に戻ることができました。自宅は食料販売店をしていたので食べるものに不自由しなくてすみました。

2 被爆から1週間ぐらい経って、突然高熱が出て2,3週間くらい寝込みました。両腕と下半身を見ると直径3㎝くらいの紫色の斑点が出ていました。体に斑点が出たのは、後にも先にもこのときだけです。
被爆後はずっと体がだるくて横になることが多くなりました。顔がむくむようになりました。被爆前は学校を休んだことはありませんでしたが、被爆後は学校を休みがちになりました。体育の授業は見学させてもらっていました。

3 昭和21年に、あまりに身体がだるいので病院に診てもらうと腎臓障害と診断されました。それから今日までずっと腎臓の薬を飲んできました。昭和46年に稲留医院から腎臓炎と診断され、平成5年にはくすのきクリニックで慢性腎不全と診断されました。今は、桑原クリニックで治療を受けていますが、医師からは「いつ透析になるかわからない」と言われています。
4 私は、長い間腎臓を患ってきました。若くて健康だった私が、被爆の日を境に身体が悪くなっていきました。慢性腎不全を申請疾病として原爆症認定申請をしましたが、2011年2月11日付で却下されました。私の腎臓の病が原爆のせいだと認めて、しっかりと補償してください。お願いします。

以 上





山中輝雄さん(熊本地裁で勝訴後に国から控訴を受け、福岡高裁で争う)

山中輝雄さんは被爆当時生後8か月で、長崎の爆心地から2.0kmの自宅内で、母親に背負われた状態で被爆し、現在バセドウ氏病や甲状腺機能低下症を患っておられます。平成21年1月に認定申請をしましたが、厚生労働大臣は平成22年8月に山中さんの原爆症認定申請を却下しました。異議の申し立てをしましたが、本年1月棄却決定がなされ今回の追加提訴となりました。 



原告の山中のバセドウ病は原爆症である
弁護士 池田 泉

1 原告山中輝雄の被爆状況について
長崎の爆心地から2.0kmで被爆した原告山中輝雄さんは、「新しい審査の方針」(平成20年3月17日,乙1)にいわゆる積極的に認定する範囲の被爆者です。

2 原告山中のバセドウ病には放射線起因性が認められることについて
被告は、バセドウ病は原爆被爆者でなくとも発症し得る疾病であると主張しています。
しかし、バセドウ病の発生機序としては、TSH受容体抗体の中のTSHを刺激する抗体がTSH受容体を過剰に刺激する結果、甲状腺ホルモンが過剰に産生され、甲状腺機能亢進の状態になって発症するものであるところ、TSH受容体抗体は、放射線の被爆により免疫機構が障害された結果産生されます。そして、原告山中さんの生活状況(甲H1)から、直接被爆、残留放射線による内部被曝、外部被爆が考えられ、特にヨウ素131の内部被曝では、ヨウ素131が甲状腺に集積しやすい特性があることから、甲状腺の被爆が考えられ、免疫機構の障害を起こすような被爆をしたと考えられます。
したがって、バセドウ病の発症について、放射線起因性が認められます。

3 バセドウ病と放射線被爆との関連性を認める知見について
被告は、バセドウ病を含む甲状腺機能亢進症と放射線被爆との関連性を認める一般的な医学的・科学的知見はないと主張します。
しかし、今泉論文、長瀧論文、第16回在北米被爆者健康診断結果、チェルノブイリ原発事故の調査報告等が存在し(第2準備書面そのH「3 放射性起因性(2)疾病要件 イ甲状腺機能亢進症に関する知見)、放射線被曝の影響が明らかであり、被告の主張は失当です。

4 甲状腺機能亢進症の認定例
東京判決は、甲状腺機能亢進症の4原告を原爆症として認定し(331ないし334頁、368ないし375頁、394ないし407頁)、同判決は確定しています。特に原告六田は、甲状腺機能亢進症と診断され、アイソトープ治療を受け、後に甲状腺機能低下症と診断されて服薬治療中であり、原告山中と同様の治療経過が認められます。

5 以上の次第ですので、原告山中さんは、速やかに原爆症であると認定されるべきです。

以 上



山中輝雄さんの尋問

主尋問は 池田 泉弁護士が行いました。

山中さんは、当時生後8か月。9人兄姉の末子として生まれ、爆心地から2.0kmの稲佐町にある実家で、母親に背負われた状態で兄姉たちと一緒に被曝。

もちろん山中さん自身には当時の記憶はありませんが、爆風により障害を負った姉やほかの兄弟たちに話を聞きました。被爆直後は、自宅から50~100mのところにある防空壕に避難。煙や粉塵が立ち込めていたそうです。自宅は倒壊したので、父が近くの崖の上に掘っ建て小屋を建てました。家族は近くの畑で作ったカボチャやサツマイモ、浦上川の魚などを食べ、山中さんは母乳で育ちました。小学校頃は痩せていたので、「やせやせ、ピカどんどん」と言われました。

10代から20代のころは痩せて、疲れやすく、体力もありません。被曝した父母や兄たちものちに癌で死亡。山中さんは、胆石や脳梗塞になり、50歳で退職。その後も甲状腺異常や皮膚疾患など患っています。

山中さんは、自分自身もいつ父母や兄たちのような病気にかかるかわからないという不安があり、また2世も精密検査など医療費を気にせず受診できるようにしてほしいと訴えました。

反対尋問では、被爆状況や病状について、何度も同様の質問がくりかえされました。



山中輝雄さんの意見陳述(概要)

「 被爆したのは、長崎。爆心地から2kmの稲佐町の木造の自宅。
母親に背負われて、生後8か月でした。
当時の記憶はもちろんなく、家族からの聞いた話です。

直後、自宅周辺は一面煙と粉塵。逃げた防空壕にも粉塵がはいってきたそうです。
着がえもなく、被爆時の薄い袖なしの服をずっと着て、被爆した母親の母乳で育ちました。
一緒に被爆した家族は、次々と癌で亡くなりました。
父は肝臓がん、母は子宮がん、長男は胃がん、二男はすい臓がんでした。

私も、47歳で脳こうそく、53歳で心筋梗塞、
その後突然体が動かなくなり、甲状腺異常で、バセドー病だと言われました。
現在も、甲状腺機能低下で、毎日10錠以上の薬を飲み、不安な毎日です。
被爆2世である子どもたちの健康のことが心配です。

福島第一原発では、内部被曝は20~30km離れた場所で問題になっています。
爆心地からわずか2kmで暮らし、食べ物も水も母乳も、空気もすべて放射能に汚染されていたでしょう。
どれだけ内部被ばくしたことだろうか。

原爆によって、差別された子供時代。
今まで被爆したことは話してこなかったが、
今回、私は何も悪いことはしていないのだからと実名で裁判を起こしました。
一日も早く原爆症と認めてほしいです。」


以上



堅島隆吉さん(熊本地裁で敗訴後、国に対して控訴し福岡高裁で争う)

原告堅島の全ての申請疾病に放射線起因性が認められる
弁護士 久保田 紗和

1 変形性脊椎症について
原告堅島の変形性脊椎症については、原告らが知見として引用する「放射線基礎医学(第10版)」(乙C9)、「原爆放射線の人体影響1992」(乙17P98以下)、Ergunらによる論文等(甲5号証,甲6号証)及びこれらを引用した上で、変形性脊椎症の放射線起因性を認めた過去の裁判例に照らしても、放射線起因性が認められるべきです。
2 高血圧症について
被告は、原告堅島の高血圧症発症の主な原因は、生活習慣及び加齢のせいであると主張しています。しかし、原告堅島には、高血圧症を発症させるような遺伝的要素も生活習慣もありません。むしろ、16歳未満の被爆者において統計的に有意な血圧の上昇レベルを示すとする「成人健康調査第8報」(甲A5の13)の報告、さらに、1930年以降に生まれた若年被爆者では、加齢に伴う血圧の推移が被曝により上位に偏位していることで、放射線被曝と血圧が関連すると指摘し、動脈硬化や心血管疾患の危険因子である高血圧、高脂血症及び炎症にも放射線被曝が関与していることが明らかであるとする赤星論文(甲B10)から、1929年という1930年に極めて近い年に出生し、また16歳で被爆した原告堅島の高血圧症が、原爆放射線によって発症したものであることは明らかです。
3 糖尿病について
最近の放影研の論文において、広島で被爆したときに20歳未満であった人においては、2型糖尿病の有病率と放射線量との間に有意な正の相関関係が示唆されており、原告堅島は16歳のときに被爆した者である上、その糖尿病は2型糖尿病であること、原告堅島の家族に糖尿病歴を有する者はおらず、原爆放射線被曝以外に原告堅島の糖尿病を発症させたと考え得る原因もないことに照らせば、原告堅島の糖尿病には放射線起因性が認められます。
したがって、原告堅島は、速やかに原爆症と認定されるべきです。



堅島 隆吉さんの意見陳述
1 はじめに
私は、原告の堅島隆吉です。現在、81歳です。16歳のとき、長崎で被曝しました。被曝したのは、爆心地から3.2㎞のところにある、三菱重工長崎造船所飽の浦工場でした。その影響で、働き盛りの頃から胃や腸のポリープなどの病気にかかり、現在も変形性脊椎症、糖尿病、高血圧などの病気を抱えています。

2 被爆した日のこと
私は、当時、学徒動員で、飽の浦工場にいました。8月9日は、海軍兵が乗って敵方の艦船に体当たりする水上特攻兵器のマル四艇という小さな船の部品の仕上げ作業を行っていました。
午前11時頃、作業をしているとガラス張りの工場の窓から、空がパアッと夕焼けのように赤くなるのが見えました。作業の手を止め、窓に駆け寄って外を見ると、突然爆風が巻き上げました。日頃、兵隊から爆弾が落ちたら目と耳をふさいで伏せるように言われていたので、私は、目と耳をふさいで床に伏せました。ものすごい衝撃に恐怖を感じ、伏せたまま動くことができませんでした。
しばらくして、おそるおそる目を開けると、工場の天井や窓ガラスは全て吹き飛び、鉄骨だけが網のように曲がって残っていました。周りには、がれきやガラスの破片が足の踏み場もないほど散乱していました。同僚達の姿が見えないので、私は、海沿いの、トロッコ用トンネルの中へ逃げ込みました。そこにはたくさんの人が避難していましたが、みんな顔はすすけて、青ざめた顔をしていました。恐怖のためか、誰もトンネルから出ようとはしませんでした。
体がきつくてしゃがんでいると、同僚が「堅島、お前背中が傷だらけぞ」と声
をかけてきたので、背中を触ってみるとどろどろとしたものが手に付きました。また、体を見回すと、ズボンは破れ、左のお尻の肉がぱっくりと切れてポケットのように開いていました。私は、あまりの恐怖と緊張のため、教えてもらうまで、自分が怪我をしたことにも気付かず、痛みさえ感じなかったのです。
同僚が病院に行こうというので、トンネルを出て病院に向かいました。私は、多量の出血と頭や体を強く打っていたためか意識朦朧としており、やっとのことで同僚の後ろからついて行きました。病院につくと、大きなガーゼをヨードチンキに浸して背中に貼り付け、油紙をかぶせて包帯でぐるぐる巻きにしました。お尻は、包帯が巻けないので、ガーゼを当て、油紙の上から手で押さえているようにと言われました。
一旦工場に戻り、その後、熊本からの学徒動員生の宿舎である小ヶ倉寮に戻る事になりました。小ヶ倉寮は、工場からみると、長崎港を挟んで対岸の山の上にありました。私は、意識がなくなりそうな状況で、ふらふらしながら同僚達と街の方へと向かい、爆心地から1.8㎞にある稲佐橋を渡り、長崎駅付近を通って、小ヶ倉寮へと辿り着きました。3,4時間は歩いたと思います。
寮に着くと、裏山の穴に設置された仮設診療所で手術を受けました。麻酔などはなく、友人が私の手足を押さえつけて手術をし、15針縫いました。その痛みといったら言いようもありませんでした。

3 被曝後の状況 
寮に戻り、数日はうつ伏せのまま過ごしました。15日の朝、熊本に戻るため、小ヶ倉寮を出て長崎駅に向かいました。道の途中は焼け野原でしたが、田んぼの中に、何頭もの真っ黒焦げの馬の死骸がひっくり返っているのが見えました。ものすごい死臭がしていたことは今でも忘れません。長崎駅は壊れていたので、爆心地の方へ向かって歩き、道ノ尾駅から熊本行きの汽車に乗りました。
15日の夜に熊本に帰り着き、何日もしないうちに、歯茎からの出血や下痢の症状が出るようになりました。また、数ヶ月後からは髪の毛が半分ほど抜けました。私は、死ぬ前の兆候だろうかと思っていました。1年以上そのような症状が続き、気力も起きないので、家で療養をしていました。

4 病気のこと
私は、42歳頃から腰痛を感じるようになり、変形性脊椎症と診断されました。それからは、毎年のように胃や腸のポリープで手術をし、高血圧や糖尿病も出てきたので、食事にはかなり気をつけてきました。平成16年には、頸椎症性脊髄症で手術をし、翌年には、膝の手術を受け、白内障の手術も受けました。私の家族にはこのような病気を持つ者はおりませんので、原爆のせいだろうと思っていました。
私は、被曝したことは親戚や妻にも隠して生きてきました。妻に被曝のことを
話したのは、子供が大分大きくなってからでした。被爆者と接触したら病気が移るというような間違った偏見があり、差別されるのが怖かったからです。
放射線の影響にもずっと不安を感じてきました。長男が生まれたときには、指が5本あるのを確かめてほっとしたものでした。

5 最後に
私は、知人から勧められ、変形性脊椎症、糖尿病、高血圧症の疾病で原爆症の申請をしました。しかし、却下という結果が届きました。被爆した友人達とは、「ガンにならなければ認められんもんな」と話していたので、諦めるしかないと思っていました。しかし、裁判で変形性脊椎症なども原爆症として認められたと聞き、これまで次々と病気にかかり、肉体的にも精神的にも本当に苦しかったので、きちんと認めて欲しいという気持ちから裁判に立ち上がりました。
ガンのような重い病気にならなければ原爆症と認めないような制度はおかしいと思います。国には、被爆者の苦しみをきちんと分かって欲しいと思います。また、私も含めみんな高齢です。死んでから原爆症と認められても意味はありません。裁判所には、被爆者を救済する判決を出して頂くよう、お願い致します。

以上



米留範昭さん(熊本地裁で敗訴後、国に対して控訴し福岡高裁で争う)

原告米留の骨折、骨髄炎等は原爆放射線の影響で治癒が遅れた
弁護士 寺内 大介

1 原告米留の右足外果骨折、骨髄炎等は、治癒が遅れた
被告は、あたかも原告米留の骨折の治癒が遅れていないかの如き尋問をしたが(牟田証人96頁)、骨折から1年近く入退院を繰り返しながら治療を続けていたのであり、治癒が遅れたことは明らかである。

2 原告米留は、申請疾病の治療をしていた
被告は、あたかも原告米留は、申請疾病である骨折、骨髄炎の治療はしていなかった如き尋問をしたが(牟田証人97頁)、消炎鎮痛剤の処方やリハビリも、骨折や骨髄炎の治療であることは明らかである。

3 原告米留の免疫力は低下していた
被告は、原告米留の免疫力は低下していなかったとなど主張するが(第7準備書面26頁)、被爆時の頭の外傷が2ヶ月後に手術を必要とするほど長引くこと自体、免疫力の低下を伺わせるし、原爆放射線の影響以外では原告米留の治癒の遅れを説明できない。

4 原告米留の喫煙歴は、治癒の遅れとは関係がない
被告は、あたかも原告米留の喫煙歴が、治癒の遅れと関係があるかの如き尋問をしたが(牟田証人97頁)、このような知見は存在しない。

したがって、原告米留の各申請疾病については、原爆症と認定すべきである。



米留範昭さんのお話
私は2歳9か月の時に、長崎の爆心地から2.4kmの立山町にある自宅の井戸端でたらいで水遊びをしている時に被曝しました。翌朝左頭部が10センチくらい腫れました。私は、終戦後の10月に母の実家である鹿児島に帰り、病院で頭部の切開手術を受けました。小学校の時には疲れやすく突然倒れることもあり、5年生の時に被爆者健康手帳をもらいました。
19歳から大阪で働きましたが、立っているのもつらいほど足腰が痛み、多発性関節炎と診断されました。平成4年に熊本に帰り、平成18年にバイクで倒れてから松葉杖の生活になりました。その後 脳梗塞を患い、臀部痛、腰痛、腰部脊柱管狭窄症などで入退院を繰り返し、最近は高血圧、動悸、息切れなどで体調も悪く毎日14種類の薬を飲んでいます。
元の体に戻してほしいですが、それが無理ならせめて私の障害を原爆症と認めて、生活に困らないようにしてほしいと思います。


米留範昭さんの意見陳述
私は、2歳のとき、長崎の自宅で被爆しました。
自宅は、爆心地から約2.4キロの立山町にありました。
私は、原爆が落ちるとき、自宅の井戸端のたらいで水遊びをしていました。土間にいた母の話しでは、ものすごい爆風で、タンスが倒れたり、窓ガラスが割れたり、井戸端の屋根も吹き飛んだそうです。
翌朝、私の左頭が10センチくらいはれたので、母は私が死ぬんじゃないかと思って、勝山国民学校に連れて行ってくれました。医者からは、「ばい菌が入ったんだろう」と言われたそうです。
母は、たくさんの病気をしましたが、前の裁判で原爆症と認定されました。
私は、小学生の頃、疲れやすく、突然倒れることがありました。
しょっちゅう病院に行くようになりましたので、5年生のとき、被爆者手帳をもらいました。
18歳で大阪の印刷会社に就職しました。
2ヶ月くらいして、立っているのもつらいほど足腰が痛みましたので、病院に行ったら「多発性関節炎」と診断されました。
2週間くらい入院し、1ヶ月くらい会社を休みました。
その後、手の関節も痛むようになりました。
平成18年にバイクで倒れ、右足関節を痛めましたので、熊本市民病院に入院して手術をしました。
最初、先生は、「大丈夫、1週間か10日で治る」と言われていましたが、なかなか治らず、結局、松葉杖の生活になりました。
私が原爆の話しをすると、市民病院の先生は、「被爆の影響で治りが悪くなっているのかもしれない」と言われました。
もともと足腰が悪いうえ、右足の松葉杖で、買い物に行くのも不自由しています。
もとの体に戻して欲しいですが、それが無理なら、せめて私の障害を原爆症と認めて、生活に困らないようにして欲しいと思います。
みなさんのご支援をよろしくお願いします。


以上





渡邉敏幸さん(熊本地裁で敗訴後、体力の限界を理由に控訴は断念)

原告渡邉の変形性脊椎症には、放射線起因性が認められる
弁護士 中島 潤史

1 原爆放射線への被曝について
被告は、原告渡邉の初期放射線による被曝線量は0.0047グレイであり、その後の誘導放射線による被曝線量も0.000012グレイであり、内部被曝の影響も健康被害を生じさせるものではないから、原告渡邉の被曝線量が極めて低線量であると主張している。
しかし、この被曝線量の算定方法は、DS02などに依拠した表に被曝距離や被曝時間を縦軸横軸にあてはめただけのものである。このように算定基準を機械的に適用して被曝線量を算定するやり方は、これまでの多くの判決で、被曝線量の過小評価であると批判され続けてきた。本件訴訟においても、いまだにこのような主張をすること自体許し難い行為である。
そもそも、被告の主張によれば、原告渡邉の被曝線量は、現在病院で行われているCT検査の1回あたりの被曝線量と同程度だったということになる。しかし、本当にそんなことがありうるのだろうか。
原告渡邉は、長崎の爆心から約3kmの屋外で初期放射線に直接被曝し、その2日後には友人の兄を捜すために爆心地から約1.3kmのところまで行って残留放射線に被曝するなどした。さらに、その後被爆前にはなかった下痢や吐き気に襲われたほか、現在に至るまで白内障など様々な病気に罹患してきた。
これらの事情を総合すれば、原告渡邉は、変形性脊椎症を発症させ、または発症を促進させるのに十分な原爆放射線に被曝していることは明らかである。

2 変形性脊椎症に対する原爆放射線の影響について
被告は、変形性脊椎症の原因となる骨粗鬆症や骨折が、被爆者に統計学上有意に増加しているという文献はないと主張している。
しかしながら、現時点において統計学上有意な増加を指摘する文献がないのは、疫学的な研究が十分になされていないからである。
むしろ、骨の放射線被曝に関する研究によれば、①骨は活発に代謝を営んでいる組織であり、放射線被曝によって骨萎縮を生じたり、骨組織の再生が障害を受けたりすること、②残留放射線による内部被曝があった場合、ストロンチウム90及びプルトニウム239は骨に沈着しやすく、その集中的被曝によって外部被曝と同様の障害を生じることが考えられること、③骨組織の微小骨折と再生障害を繰り返した結果、脊椎骨の変形を生じると考えられることなどが指摘されている。
過去の裁判例においても、骨の疾患と放射線被曝との間に統計学上有意な関係が認められていないとしつつも、これらの研究を踏まえて、変形性脊椎症の放射線起因性が認められている。

3 結 論
以上を踏まえて、原告渡邉の被爆状況、被爆後の行動、被爆直後に生じた症状、被爆後の健康状態、そして骨に対する放射線被曝の影響に関する知見などを総合すれば、原告渡邉の変形性脊椎症は、原爆症と認定されなければならない。
以 上



渡邉 敏幸さんの意見陳述
1 はじめに
私は、原告の渡邉敏幸です。現在、80歳です。14歳のとき、長崎で被ばくしました。被ばくしたのは、爆心地から約3㎞のところにある、飽浦町三菱造船所28工場でした。
その影響で、30代のころから腰痛に悩まされるようになり、その後も、胃潰瘍や白内障、前立腺肥大症などさまざまな病気にかかりました。

2 被ばくした日のこと
昭和20年8月9日、28工場は約1週間前の空襲で壊滅状態になっていました。そのため、私は、支給された国民服を着て、工場内から瓦礫を運び出す作業をしていました。
そのとき、誰かが「空に落下傘が浮いているぞ」と叫びました。私は、広島でも落下傘の新型爆弾が落とされたことを聞いていたので、急いで工場の外に出て空を見ました。すると、長崎駅方面からやや左側の空に、落下傘が浮かんでいるのが見えました。
その瞬間、真っ白い光が私を襲いました。私はとっさにその場で身を伏せました。爆風や爆音などは今では覚えておりません。
その後、私が気づいたときは、周囲は粉じんが巻き上がり、視界が悪い状態でした。私の意識がなかった時間は、短時間だったと思います。
そのとき私がいた場所は、工場そばの鉄板を山積みにしていたところでした。そこは、私が白い光を見たところから30メートルくらい離れた場所です。私は、原子爆弾の爆風で吹き飛ばされ、鉄板の山に体を叩きつけられたようでした。私の回りには同じように吹き飛ばされてきたと思われる者が5、6人いました。
私は、鉄板に叩きつけられた痛みで、体が思うように動きませんでしたが、数分後にはその場を離れて、近くの防空壕へ避難しました。

3 被曝後の状況 
私は、防空壕で2、3時間過ごした後、友人と2人で飽浦寮へ向かいました。痛みで体が思うように動きませんでしたが、友人と助け合いながら歩き、その日の夕方ころには、飽浦寮に帰り着きました。
その夜、私は、手と腰に強い痛みを感じたほか、吐き気を感じるようになりました。
翌日、私は、痛みや吐き気があったことから、飽浦にある三菱病院で診療治療を受けました。そのときは、手首の脱臼と全身打撲を指摘されました。
8月11日ころ、私の体調が体を動かせる程度に回復しました。そこで、友人と2人で、爆心地の方向にあった三菱長崎製鋼所へ歩いて行くことにしました。その製鋼所には友人の兄が勤めていたので、二人でその死体を探すためでした。
私たちは、飽浦寮を出て、海沿いを歩き、稲佐橋を渡りました。稲佐橋を渡ったあたりは、建物がほとんど潰れており、建物から煙が上がって火がくすぶっているような状態でした。
その後、線路沿いに北上しました。しかし、浦上駅に到達する前に、建物がつぶれてどこがどこだか分からないような状況になりました。そのため、私たちは、友人の兄の死体を探すことをあきらめ、そのまま来た道をとおり、飽浦寮に帰りました。
食べ物は、飽浦寮で出される食事を主に食べていました。
もっとも、飽浦寮の近くに缶詰工場があったことから、知人らがその工場から缶詰を寮に持って帰って食べようとしていました。缶詰は爆弾の影響で、パンパンに膨れている状態でした。それを見つけた寮の人が、缶詰は捨てるように指示しました。そのため、缶詰は寮の近くに捨てられました。
しかし、私や知人らは、空腹のひもじい思いを満たすため、捨てられた缶詰を取りに行き、この缶詰を食べました。とてもおいしかったのを覚えています。
8月17日ころ、私は、どうせ死ぬなら故郷でと思い、稲佐橋を通って、長崎駅へ行き、汽車に乗って熊本の天草に帰郷しました。

4 病気のこと
私は天草の山の中で育ち、被ばく前まで健康上の問題はありませんでした。
ところが、被ばく直後は、被ばく前にはなかった下痢や吐き気に襲われました。
その後、吐き気は自然と良くなりましたが、下痢については天草へ帰郷後も続いていました。
昭和22年ころ、右腰から右太股にかけて、あざのようなものが出来はじめました。当時3cmくらいだったのが現在では20cmくらいに広がっています。平成20年になって、扁平母班との診断を受けました。
昭和25年ころ、天草中央病院で副睾丸炎と診断され、摘出手術を行いました。医師の説明では、淋菌性でも結核性でもなく、ちょっとおかしいとのことでした。私は、今振り返ってみると、原爆の放射線の影響ではないかと思っています。
その後、40歳前後ころから、さまざまな病気になりました。例えば、めまいがひどいメニエール病、十二指腸潰瘍と胃潰瘍、大腸ポリープ、白内障、前立腺肥大症、高血圧などの病気で治療を受けてきました。
今回の申請疾病である変形性脊椎症については、30代後半ころから、腰痛が強くなり、腰を曲げての仕事ができず苦労するようになりました。病院で治療を受けていましたが、40代後半ころには、変形性脊椎症との診断を受けました。
現在では電気治療、牽引治療、湿布薬等の処方を受けています。しかし、最近は、2、30歩歩くのがやっとで、足腰のしびれがくる状態です。

5 最後に
私も既に80歳となり、もう先も短いわけですので、1日も早く原爆症と認定して欲しいと思います。死んでから認定されても、なんの意味もありません。
申請している変形性脊椎症については、既に裁判所で認定されている病気なのに、私の申請が却下されたことは、とても不公平で、おかしいと感じています。
裁判所におかれては、私の被ばく状況を正面から受け止めていただき、一刻も早く原爆症と認定していただくよう、お願い申し上げます。

以 上