2015年11月4日 朝日新聞
原爆ドームから北西へ約20キロ。広島市佐伯区湯来町麦谷(旧・広島県水内〈みのち〉村)の本毛(ほんけ)稔さん(75)は、水内川にかかる橋の上で言った。「この川が私たちの運命を分けた境界線です」
1945年8月6日朝、5歳だった本毛さんは麦を俵に入れる作業を自宅前で手伝っていた。突然「ピカーッ」とまぶしい光が広がり、「ドーン」と爆音が響いた。直後に広島市中心部がある山の向こう側から灰色の雲がもくもくと立ち上がり、空が暗くなった。間もなく雨が降り出し、そばにいた三つ年下の弟のシャツに黒い染みができた。
弟は日に日に体調が悪くなり、翌月に肝硬変で亡くなった。一緒に麦を俵に入れる作業をしていた母は戦後に白内障と緑内障を患って失明し、85歳だった2004年に胆囊(たんのう)がんで死亡。本毛さんはなかなか止まらない鼻血に20代まで悩まされ、母と同じ白内障の手術も3回受けた。
原爆投下から31年後の1976年、国は黒い雨が多く降ったとみられる地域を「大雨地域」として援護対象区域に指定。雨を浴びた人は公費で健康診断が受けられ、がんや肝硬変などにかかれば被爆者健康手帳を受け取れるようにした。一方で、「小雨地域」は援護対象から外された。
本毛さんが暮らしていた水内村では、村を流れる水内川が大雨地域と小雨地域の境界線となった。本毛さんの自宅は川のすぐ近く。目の前の対岸は大雨地域だったが、本毛さんが住む所は小雨地域とされた。
ログイン前の続き「川を挟んだだけで、雨の降り方が大きく変わるとは思えない」。そう考えた本毛さんは、援護区域の拡大を求める「広島県『黒い雨』原爆被害者の会連絡協議会」に入会。数年前からは70年前に目撃した「きのこ雲」の方角などを記した図を作り、水内川を援護対象区域の境界線とすることの不合理さを訴えている。本毛さんは言う。「言葉で訴えても伝わらない。機械的に線引きする理不尽さを分かってほしい」
原爆ドームから約20キロ北の広島県安芸太田町穴(旧・広島県安野村穴)にも、黒い雨が降った。松本正行さん(90)は雨を浴びた野菜を食べ、谷の水を飲んだが、住んでいた所は小雨地域とされた。
米作りの肥料にするために雨にぬれた下草を刈った際、手が真っ黒になったという。松本さんは「当時は何が危険なのかという情報さえなかった。毎日、黒い雨を食べていたようなもんじゃ」と振り返る。
■被爆認定求め4日提訴
黒い雨が降った地域にいた本毛さんら64人は4日、広島地裁に訴訟を起こす。いずれも広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会の会員たちで、被爆者健康手帳などの申請を却下した広島県や広島市を相手に処分の取り消しを求める。
黒い雨をめぐるこうした規模の集団訴訟は初めてとみられる。本毛さんらは国が定めた大雨地域と小雨地域の線引きについて「著しく不平等」と主張。黒い雨を体に浴びたり、雨が降った所で育った野菜を食べたりしたことで放射能の影響を受けたと訴える。
支援の輪も広がる。原爆症の認定訴訟などに携わってきた弁護士8人が弁護団を発足。被爆者団体の会員や大学生らが黒い雨を浴びた状況や今の健康状態などを聞き取り、裁判所に出す陳述書を作った。
訴訟費用のカンパといった面で協力する会のメンバーの青木克明さん(67)は言う。「在外被爆者の医療費訴訟をはじめ、国は裁判で負けなければ制度を変えない。法廷に立つ人たちを精いっぱい支援したい」
これに対し、広島県と広島市は「申請については現行の法令に基づいて判断している」との立場だ。一方で、ほかの2市5町とともに「黒い雨は国が言う範囲より広い地域で降った」とも指摘。県などが主張する降雨地域では、国が2013年度から健康相談を実施している。(岡本玄)
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《広島大平和科学研究センター・川野徳幸教授の話》 黒い雨の問題には、被爆の瞬間だけではなく、その後の人生にも長く影響を及ぼす「核被害の本質」が表れている。原爆の投下から70年。黒い雨をどこで、どれだけ浴びたのかについて科学的に証明するのは簡単ではない。一方で、訴訟を起こそうとしている人たちは1本の線引きで援護を受けられず、放射線への不安を抱えて生きてきた。原発事故に見舞われた福島にも通じる問題でもあり、訴訟の行方に注目していきたい。
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〈黒い雨〉 核爆発で生じた放射性物質と焼けた建物の煤などが上空に達し、雨雲ができた。広島の気象台は爆心地の「東西15キロ、南北29キロ」で黒い雨が降り、このうち「東西11キロ、南北19キロ」が大雨地域と分析。国は76年に大雨地域を援護対象区域に指定した。一方、被爆地・長崎でも限られた地域で黒い雨が降ったとされ、雨を浴びて被爆したと訴える訴訟も起きている。長崎地裁は12年6月の判決で「証拠がない」と退け、福岡高裁で控訴審が続いている。
「黒い雨」で被爆、認めて=仲間と集団提訴へ-広島の森園さん
「私はあの雨で被爆した」。70年前の原爆投下時に爆心地から約17キロ離れた現在の広島市安佐北区(旧安佐郡亀山村)で雨に打たれた森園カズ子さん(78)=同区=。長年の不調はあの「黒い雨」の影響ではないか。生き証人が少なくなる中、「原爆の影響がどこまであったのか明らかにしてほしい」との思いから、仲間と共に4日、被爆者手帳などの交付を求める訴訟を広島地裁に起こす予定だ。1945年8月6日、綾西国民学校2年生だった森園さんは空が光り、校舎が揺れたのを感じた。防空壕(ごう)に入り1時間ほどして外に出ると、空が真っ黒に変わっていた。家に帰る頃には雨が降りだし、びしょぬれになって姉に怒られたのを覚えている。
直後から下痢や喉の腫れが続いた。大人になっても体調は改善しなかったが、仕事に追われ、気にする暇はなかった。40代のとき、テレビのニュースで黒い雨の認定範囲を知った。実家は範囲外で、「雨や粉が降ってきたのに」と思った。
その後、甲状腺に異常があると診断された。被爆したかと聞かれ、認定範囲外であることを伝えると、医師は「原爆に遭った人の症状だが」と首をひねった。卵巣の摘出手術などを受けており、70年前の雨との関係を疑いだした。
定年後、仲間と共に黒い雨の被害を訴える活動を始めた。影響はなかったと主張し続ける国に対し、「科学的な根拠を出せというが、今となっては記憶だけが頼り」と悔しさをにじませる。
森園さんは20代前半まで同じ土地に住み、雨が降り注いだ野菜などを食べていた。放射能については何も知らなかった。「影響はあったと思う」とつぶやいた。
訴訟について、「被爆者手帳をもらうことだけが目的ではない」と力を込める。「この範囲まで被爆したという事実を訴えたい。核兵器をつくるとどれだけの影響があるのか、若い人たちに伝えたい」。森園さんは裁判に最後の望みをかける。
(2015/11/02)