2010年8月1日 東京新聞
大平内閣から鈴木善幸内閣にかけて国が被爆者に補償する被爆者援護法制定の可否を検討した厚相(当時)の諮問機関「原爆被爆者対策基本問題懇談会」(基本懇)の非公開の議事録が厚生労働省内で見つかった。
民間委員の議論に官僚が介入。財政難などを理由に当初から法律制定に難色を示していたことが浮かび上がった。
基本懇の結論を受け援護法成立は自社さ連立政権下の一九九四年まで見送られた。
見つかったのは全十四回の会合のうち第十一、十四回会合を除く、十二回分の議事録や資料など八百二十九ページ。
厚労省は当初、本紙の取材に「議事録は残っていない」と回答したが、情報公開請求で、昨年十二月に開示され、本紙で補足取材などを進めていた。
政治家と公務員以外の人名は黒塗りになっていた。
基本懇は橋本龍太郎元首相が厚相だった一九七九年六月、茅誠司・元東大学長を座長に発足。行政や医学の専門家ら六人が委員を務めた。
議事録によると、第一回会合で委員の一人が「スモン訴訟や水害訴訟で国家賠償の要求が拡張されている。歯止めをかけないと国家財政が破綻(はたん)する」と発言。
別の委員も「被爆者は三十七万人もおられ、ぴんぴんして何でもない人も多いんでしょう」などと述べていた。
厚生省も援護法の制定に反対の立場から、会合で積極的に発言。恩給法など国家補償がある軍人・軍属との格差に批判が出ていたため、基本懇の事務方を務めた当時の厚生省公衆衛生局企画課長(76)は第十二回会合で「同一に論ずるわけにはいかないことだけは(答申で)コメントしていただきたい」と発言。
委員が作成した意見書の草案に修正を加えたと説明した。
また、被爆者援護法という名称について、当時の公衆衛生局長(86)は第十回会合で「事務当局としては、いかなる場面でも援護法という名前は受け入れられない」と強く注文を付けていた。
野党や被爆者団体は、日本政府が戦争を遂行した責任を認めた上で、被爆死した人への弔慰金や遺族年金の創設を求めていたが、基本懇は八〇年十二月、国の完全な賠償責任は認めず、弔慰金や遺族年金の創設を否定する意見書を園田直厚相(当時)に提出した。
☆
三十年ぶりに明るみに出た原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)の議事録。民間の戦争被害者に我慢を強いる「受忍論」が初めて行政の方針として示されたが、民間委員の間では賛否をめぐり論戦が交わされた様子はない。
被爆者が期待をかけた各界の権威からも補償拡大に消極的な発言が相次いでいた。
「原爆放射能による健康上の被害は、国民が等しく受忍しなければならない戦争による『一般の犠牲』を超えた『特別の犠牲』…」
一九八〇年七月、厚生省の会議室で開かれた第十回会合。事務局が朗読する「たたき台」の中で「受忍論」は姿を現した。
一見、被爆者を救済する表現だが、東京大空襲など「一般の犠牲」の受忍を強要。
それとのバランスを盾に、被爆者の救済も生存者の放射線障害に限定した。
しかし、委員は誰も反応しなかった。
しばらくして「こういうのもあります」と事務局は別の資料を出した。
基本懇設置のきっかけになった韓国人被爆者の最高裁判決(七八年)に対抗するように、カナダで財産を接収された引き揚げ者が起こした訴訟の最高裁判決(六八年)を読んだ。
「戦争犠牲または戦争災害として国民が等しく受忍しなければならなかった…」
当時は知られていなかった同判決を基本懇に持ち込んだのは、元最高裁判事の田中二郎委員とする見方が強い。
しかし、賛否を問わず、受忍論に触れる委員はいなかった。
意見聴取では、母親の胎内で被爆した原爆小頭症の女性の人生を語った被爆者が帰った後、「センチメンタルなものを長々と読み、時間を浪費した」と酷評。
半面、橋本龍太郎厚相(当時)を招いて議論の方向性を確かめるなど、政府への配慮は手厚かった。
意見書がまとまった後の第十三回会合で、ある委員は「被爆者対策の改善と言いながら内容は何もない。これでいいのか」とつぶやいた。
「相当の反発を予想しなくては」と気にする声も出たが、結論が変わることはなかった。
◆憤る被爆者ら 『官僚筋道』『言いなり』
「ひどい」「政府の言いなりだ」。基本懇の内幕に、被爆者は憤りを隠さない。
長崎で被爆し、基本懇当時に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の事務局次長だった吉田一人さん(78)はあきれる。
被爆体験を「センチメンタル」と評された部分を「あれだけの被害を受け、感情的になるのは当たり前。被害の実態や本質を受け止める姿勢がない」と批判する。
被団協の田中熙巳事務局長(78)も「官僚が筋道を作る審議会政治は変わっていなかった」。
被団協は今年六月の総会で国家補償を求める運動強化を再確認し、改正案作りに向け学習会を始めている。
原爆症認定集団訴訟の山本英典原告団長(77)は「委員には日本の良心を代表する人もいたが、他の戦争被害者にも広がると脅され、厚生省と一体になっていたことが裏付けられた。
国の方針を『すべて受忍せよ』から『すべて補償せよ』に変えたい」。
担当する内藤雅義弁護士は「専門家に任せたと言いながら行政が作った典型例。文書公開の意味は大きい」と話す。
一方、焼夷(しょうい)弾による空襲被害者にも波紋は広がる。
東京大空襲訴訟の星野弘原告団長(79)は「受忍論の議論は委員に心の準備がないまま、事務局により進められたのでは。
正当と言えるのか、あらためて議論すべきだ」と話している。
<基本懇の意見書>
原爆被害には放射線障害という特殊性があり「広い意味で国家補償の見地に立つべきだ」としつつも、国の完全な賠償責任は認めず、被爆者が求めた国家補償に基づく被爆者援護法の制定を事実上退けた。
近距離被爆者の手当や原爆放射線の研究体制、被爆者の相談事業の充実を挙げるにとどまり、被爆者は激しく反発した。
1994年の自社さ連立政権下で成立した現行の援護法も基本懇の意見書を踏襲。
「国家補償」は盛り込まれず、救済は生存者の放射線被害に限定、死没者補償は含まれなかった。
被爆者補償阻止、旧厚生省が議論誘導 30年前議事録
朝日新聞 2010年10月25日
被爆者援護のあり方を検討するため、1979~80年に非公開で開かれた厚相(当時)の諮問機関「原爆被爆者対策基本問題懇談会」(基本懇)で、民間の戦争被害者全体に国家補償が拡大しないよう、厚生省側が議論を導いていたことが、議事録や関係者の証言からわかった。基本懇の報告書は被爆者への国家補償に歯止めをかける内容となり、この報告書をもとにできた現行の被爆者援護法に国家補償は明記されなかった。
基本懇の会合は計14回。厚生労働省によると、長年、議事録は保存されていないとしてきたが、昨年末、報道機関からの情報公開請求を機に同省の倉庫を探したところ、見つかった。朝日新聞が8月に入手。計829ページで、第11、14回分は欠落していた。
議事録によると、80年7月の第10回会合で、厚生省側が「報告書に盛り込む事項」を提出。その中に、戦争の被害は「国民が等しく受忍しなければならない」という「戦争被害受忍論」の一文が初めて記入されていた。
さらに、基本懇が意見集約に向かっていた80年11月の第12回会合で、国家補償として実施している旧軍人・軍属への援護策と、被爆者への援護策の間に、金額や対象者の範囲で大きな格差が生じているとの指摘が出ていたことを踏まえ、当時の厚生省公衆衛生局企画課長が「同一に論ずるわけにはいかないということだけは(報告書で)コメントしておいていただきたい」と発言。「補償が独り歩きしないようにいろいろ歯止めをしていただきたい」と求めた。
この発言をした、当時の企画課長・木戸脩(おさむ)氏(76)は朝日新聞の取材に、「財政がもたないと判断した」と述べた。
基本懇の委員からは、国家補償の拡大に歯止めをかけることにほとんど異論は出ず、「(被爆者は)ぴんぴんして何でもない人もずいぶん多いんでしょう」「我々は歯止めのために集まっているというふうに解釈してもいいのではないか」との発言があった。
基本懇が80年12月に園田直厚相(当時)に提出した報告書は、厚生省側の「要望」に沿った内容となった。原爆被爆を救済の必要がある「特別の犠牲」、それ以外の戦争被害は、受忍しなければならない「一般の犠牲」として線引きしつつ、被爆者援護については「国の完全な賠償責任を認める趣旨ではない」とし、対象を生存被爆者の放射線による健康被害に限定した。
基本懇が80年12月に園田直厚相(当時)に提出した報告書は、厚生省側の「要望」に沿った内容となった。原爆被爆を救済の必要がある「特別の犠牲」、それ以外の戦争被害は、受忍しなければならない「一般の犠牲」として線引きしつつ、被爆者援護については「国の完全な賠償責任を認める趣旨ではない」とし、対象を生存被爆者の放射線による健康被害に限定した。
94年、この報告書を土台に、原爆医療法と原爆特別措置法の「原爆二法」を一本化して制定された被爆者援護法でも、援護を国家補償に基づいて実施することは明記されなかった。(武田肇)
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〈原爆被爆者対策基本問題懇談会〉
1978年、韓国人被爆者の被爆者健康手帳交付を巡る訴訟の最高裁判決で「原爆医療法には、国家補償的配慮が根底にある」と判断されたことをきっかけに、被爆者対策の理念を明確にするために設置された。
委員(全員故人)は、
▽茅誠司・東京大名誉教授(座長)
▽大河内一男・東京大名誉教授
▽緒方彰・NHK解説委員室顧問
▽久保田きぬ子・東北学院大教授
▽田中二郎・元最高裁判事
▽西村熊雄・元フランス大使
▽御園生圭輔・原子力安全委員会委員
の7人。