「黒い雨、私も浴びた」区域外36人、被爆者手帳を申請
2015年3月24日
朝日新聞
70年前の原爆投下直後に降った「黒い雨」で被爆したと認めてほしい――。広島市で暮らす80~70代の男女36人が23日、被爆者健康手帳などの交付を求めて集団申請した。公的な援護の枠の外に置かれ続け、すでに亡くなった人も少なくないという。「もう時間がない」。申請者は切実な思いで行政の扉をたたいた。
「黒い雨」が降った地域と援護区域
36人の内訳は男性18人、女性18人。1945年8月6日に米軍が原爆を投下した時に広島市やその周辺に住んでおり、投下直後に降った「黒い雨」を浴びたと訴えている。24日には、広島県の安芸高田市と安芸太田町の計6人が県に申請することにしている。
国は76年、被爆者援護法にもとづいて「黒い雨」が激しく降った地域(大雨地域)を援護の対象区域に指定。この区域で雨を浴びた人には、被爆者と同じ健康診断を受けられる「第一種健康診断受診者証」を交付するようになった。また、がんなどの疾病にかかった人は被爆者健康手帳に切り替えられるようにした。
これに対し、広島県と広島市は2008年度の調査で「援護対象区域の6倍の範囲で黒い雨が降った可能性がある」として国に区域の拡大を求めた。しかし、厚生労働省の検討会はこの可能性を認めず、国は区域を拡大しなかった。
「黒い雨」を浴びたと訴え、被爆者健康手帳の交付などを申請する人たち=23日、広島市中区の広島市役所
23日に集団申請した36人は「援護の対象区域があまりに狭い」と訴え、第一種健康診断受診者証の交付を申請。「放射性物質を含む黒い雨の影響を受けた」とし、被爆者健康手帳の交付も求めている。申請が認められなかった場合は「司法の判断を仰ぎたい」としており、集団提訴をする構えだ。
広島市援護課は「厚労省と協議し、適正に判断していく」としている。
■「命の限り、国の姿勢問う」
「すでに亡くなった人もいます」。被爆者健康手帳の交付などを求める36人のうち十数人が広島市内で記者会見し、集団申請に踏み切った思いを語った。その中に、胃がんや白内障と闘う高野正明さん(76)がいた。
70年前の8月6日。高野さんは爆心地から北西に20キロほど離れた広島県上水内村(現・広島市佐伯区湯来町)の国民学校で朝礼中だった。突然、閃光(せんこう)が走り、数秒後に爆音が響いた。家に戻る途中、山の上にきのこ雲が見えた。紙や木片が空から舞い落ち、中には爆心地近くの銀行支店の伝票もあったという。
しばらくして周囲が暗くなり、夕立のような雨が降ってきた。「雨に触れると粘り気があり、油っぽかった」。高野さんは当時を振り返る。家に帰って服をゆすいだが、なかなか落ちなかったという。
その後、谷の水を飲み、畑の野菜を食べた。下痢や高熱が続き、高校生のころまで鼻血や貧血に悩まされた。だが、上水内村は国が認める「黒い雨」の大雨区域の外側。高野さんは「広島県『黒い雨』原爆被害者の会連絡協議会」の会長として援護区域の拡大を求め続けたものの、国に願いは届かなかった。
泣き寝入りせず、新たな形で訴えるほかない――。高野さんら援護区域の外で「黒い雨」を浴びたと訴える人たちはこう考え、今回の集団申請を決めた。「命ある限り、被爆した人を地域で線引きする国の姿勢を問い続けたい」。高野さんは思っている。
【岡本玄】
〈黒い雨〉 原爆投下後に降った放射性物質を含む雨を指す。国は1976年、広島市の爆心地の「東西約11キロ」「南北約19キロ」で大雨が降ったとして、公費で健康診断が受けられる援護区域に指定した。小雨だったとされる地域、広島県と8市町が「黒い雨が降った」とする区域の人には健康相談が実施されている。援護区域は長崎でも指定されている。区域外で黒い雨の影響などを訴える人が被爆者と同じ対応を求める訴訟を起こしたが、長崎地裁は2012年に「証拠がない」と判断。控訴審が続いている。
■広島に降った「黒い雨」をめぐる主な動き
1945年8月 原爆の投下後、放射性物質やちりを含んだ「黒い雨」が降る
53年 日本学術会議の原子爆弾被害調査報告集で広島管区気象台の気象技師が東西11キロ、南北19キロで「激しい雨が降った」と発表
57年 原爆医療法が施行され、被爆者健康手帳の交付開始
68年 原爆特別措置法が施行され、被爆者への健康管理手当などの支給開始
76年 原爆投下後に大雨が降った地域が健康診断特例地域に指定される
78年 「広島県『黒い雨』原爆被害者の会連絡協議会」の前身団体ができる
95年 原爆医療法と原爆特別措置法を一本化した被爆者援護法が施行
2010年7月 広島県と広島市などの首長が健康診断特例地域の拡大を求める要望書を国に提出
12年7月 厚生労働省の検討会が援護地域外での放射線による身体的影響について「科学的判断は困難」と結論。国が拡大を見送る