2016年8月4日木曜日

爆心地は語る 被爆71年の長崎(3)不条理な線引き 訴え


上空でさく裂した原爆が熱源となり、発生したきのこ雲は高度1万4千メートルに達した。1945年8月9日、原爆が投下されて約15分後、放射性物質を巻き込みながら成長した巨大な雲が写真に捉えられていた。長崎市松山町の爆心地から南西9・4キロの旧長崎県香焼村(現同市香焼町)の造船所。写真技師だった松田弘道氏が撮影した。

近くの山で仲間3人と航空燃料用の松やにを採取していた中島巌さん(83)は閃光(せんこう)と爆音に驚き、地面に伏せた。巨大なきのこ雲が長崎市内を覆っていた。
爆心地は、医療費や薬代が全額国費で賄われる被爆者健康手帳を取得できる被爆地域の境界を線引きする基点だ。被爆地域は70年代に2度、地区ごとに拡大されたため、爆心地から南北約12キロ、東西は約7キロといびつな形だ。旧香焼村は含まれておらず、国は中島さんのように半径12キロ圏内で原爆に遭った人を「被爆体験者」と定義している。
「爆心地からは平野と海だけで遮るものはない。もっと遠い地域も入っているのに」。中島さんは2007年、被爆体験者訴訟第1陣の原告団に加わった。
20代で心臓に異常がみられ、07年に狭心症などを患った。「老い先は短い。被爆者と認めてほしい」と中島さん。訴えは長崎地裁、福岡高裁で退けられた。
爆心地の東8・5キロの旧矢上村(現同市かき道)で原爆に遭った大町リキ子さん(83)は同訴訟第2陣の原告の1人。爆風で飛んできた木片が腕に刺さった。原子雲から降った灰が庭に10センチほど積もり、食べ物や井戸水に混じった。髪もごっそりと抜けた。20代からさまざまな症状が現れ、49歳で慢性肝炎に。今も下血や不整脈が続く。
国は76年の被爆地域拡大の際に旧矢上村を東西に分断し、西側だけを指定した。東側にいた大町さんは被爆者として認められていない。「同じ村だったのに、違う理由が分からない」。国の線引きが不条理だと訴える。今年2月、地裁は大町さんへの手帳交付を認めたが、長崎県と長崎市が控訴し、高裁で係争中だ。
71年たっても闘う体験者に対して、「今頃になって」と冷ややかな声が浴びせられることもある。被爆者団体を中心に被爆地域拡大運動が盛んだった時代に参加しなかったからだ。だが、かつては「放射線の影響は伝染する」との誤解があり、結婚や就職で子や孫が差別されないかとの不安から、被爆の事実を隠した人が少なくない。「あなたたちがお嫁に行けなくなると困る」。大町さんの母は長崎市内で被爆したが生涯、手帳を取得しなかった。
やっと被害を明かせるようになった体験者。これまでに556人が提訴し、うち67人は亡くなっている。
2016/08/04 西日本新聞