2016年8月3日水曜日

同じ所で被爆…姉弟で割れた司法判断(被爆体験者)



■谷山さん姉弟
「同じ場所にいた姉は被爆者と認められたのに」。矢上村(現在の長崎市田中町)で原爆に遭った谷山勇(たにやまいさむ)さん(74)=長崎市東町=は5月下旬、福岡高裁の前で声を落とした。原爆投下時は3歳。姉の下川静子(しもかわしずこ)さん(82)と自宅前の路上で、2人で遊んでいた。
2人がいた矢上村は爆心地の東5~8・6キロに位置。村の東側にいた人たちは国が定める被爆地域の外にいたため被爆者とは認められない「被爆体験者」と呼ばれ、県や長崎市に被爆者と認めるよう求める裁判を起こしている。勇さんと2人の姉は原告の一員で、勇さんは第1陣訴訟に、静子さんと今井(いまい)ツタエさん(84)の2人は第2陣に参加している。
今年2月の第2陣の裁判で、長崎地裁は2人の姉が被爆者に当たると判断したが、5月の第1陣の裁判で福岡高裁は静子さんと同じ場所にいた勇さんを被爆者と認めなかった。
戦後70年が過ぎた今も明確な基準はなく、司法の判断が分かれている被爆体験者の問題と、それに戸惑う姉弟の半生をたどった。
谷山さんは8人きょうだいの末っ子として生まれた。1945年当時は3歳で、母ときょうだいの6人暮らし。父は出征中で長男は谷山さんが生まれる前に旧満州で戦死。長姉は双子だったが、1人は養子に出された。左官だった3番目の兄はすでに家を出ており、家にいたきょうだいは次兄と3人の姉、谷山さんの5人だった。
そのうち次兄は三菱兵器大橋工場に、長姉は旧長崎市内の貯金局にそれぞれ働きに出ていた。それらの収入と、母がしていた農業で、生計を立てていたという。
谷山さんの当時の記憶はおぼろげだが、帽子をかぶった警防団員が、メガホンのような拡声機で「空襲警報発令」と家の近くに知らせにきていた。幼心に覚えている戦争の光景だった。長崎原爆戦災誌によると、長崎市では原爆投下までに5回にわたって空襲を受け、344人が死亡。空襲警報と警戒警報は45年だけで220回あまり発令されていた。
45年8月当時、3歳だった谷山さんには、よく世話をしてもらった2人の姉がいた。次女で10歳年上のツタエさんと、三女で8歳年上の静子さんだ。
2人は矢上国民学校(現在の矢上小学校)に通っていた。当時13歳だったツタエさんは教室で授業を受けているときに、隣の職員室から戦況を知らせるラジオの音が、しばしば聞こえてきたのが印象的だ。授業は空襲警報が出てよく中断し、「内容はほとんど覚えていないほど」だった。
矢上国民学校では5年生以上の生徒は、夏休みを返上し、勤労に従事させられていた。河原の開墾作業にかり出され、繊維にするため、木の樹皮をむいて、干したこともあった。
そんな生活の中でツタエさんと静子さんは国民学校を交代で休み、まだ幼かった弟の世話をしていた。母は畑へ、三菱兵器大橋工場と貯金局に勤めていた次兄と長姉は長崎市内へ、それぞれ働きに出ていたためだった。
谷山さんは3歳で、8歳年上の姉、静子さんと一緒にいるとき原爆に遭った。静子さんは当時、13歳だった姉ツタエさんと交代で学校を休み、弟の勇さんの世話をしていた。45年8月9日。弟の面倒を見る当番だった静子さんは、普段は泣かない弟が畑へ出かける母親にすがって大泣きしたことを覚えている。「おかしかね。なんかあっとやろうか」と思った。静子さんは「その後のことを感じていたのかも」と振り返る。
「昼食用にカボチャをとってくる」と母が出かけ、現在は長崎市田中町の自宅前の道路で弟と遊んでいるときだった。ピカッと、閃光(せんこう)が正面から来た。とっさに弟の背中に覆いかぶさったが、押し寄せた爆風に2人とも吹き倒された。手とひざに擦り傷ができた。
2人が原爆に遭ったという場所を訪ねた。住宅地から爆心地がある西の方角を見ても、小高い山に視界を遮られる。上空で爆発した原爆の爆風はここまでどのように来たのだろうと、しばらく想像をめぐらせた。
谷山家の次女、ツタエさんは矢上普賢山で原爆に遭った。国民学校高等科(現在の中学校)に通っていたが、夏休みを返上し開墾作業などの勤労にかり出されていた。8月9日は航空機の燃料にするための松ヤニをとりに、同級生と矢上普賢山に登った。
午前11時2分。ピカッと光ったあと「顔が熱くなった」。西の空は赤くなり、煙が立ちのぼった光景は忘れられない。爆風が来て吹き倒されたところまでは覚えているが、気がついたときには家に戻っていた。「どこをどうして帰ったのか分からないほど、無我夢中だったのでしょう」と振り返る。帰るとすぐさま母に飛びつき、泣いたという。手とひざには擦り傷ができていた。ツタエさんが家に帰り大泣きしていた様子は、三女の静子さんも覚えているという。
自宅は爆風で引き戸や障子が壊れ、食器棚は倒れ、ガラスが散乱していた。母と静子さん、末っ子の勇さんは、ツタエさんが戻ると4人で、隣家にあった防空壕(ごう)に避難した。
矢上普賢山で原爆の火を見て自宅に戻り、防空壕に一時避難したツタエさんは、夕方ごろから現在の県警機動隊(長崎市田中町)の近くにあった運転免許試験場の近くで、次兄と長姉の帰りを待っていた。
2人は三菱兵器大橋工場と貯金局に勤め、それぞれ長崎市内に出勤していた。現在の長崎市田中町を南北に通る国道34号は、長崎市内から矢上村を通り諫早市方面へ向かう、当時からの主要街道で、原爆でけがややけどを負って血を流した人たちが、ぞろぞろと歩いてくるのを、ツタエさんは見た。
矢上村の自宅前で弟と原爆に遭った三女の静子さんの記憶だと、原爆が落ちて2~3時間もすると、原爆の負傷者とみられる人たちが、村のあちこちの家に入ってきていた。自宅にいた静子さんは出会った人に、「おじちゃん、どこの人ね」と話しかけたが、放心したような様子で、会話にならなかったことを覚えている。
長崎市内に働きに出ていた谷山家の次兄と長姉は、その日のうちに矢上村の自宅に帰ってきた。三菱兵器大橋工場で働いていた次兄は原爆で崩れたがれきの下敷きになっていたが、壁との間にはすき間があり、助かったと聞いた。長姉は長崎市築町の貯金局で働いていたが、茂木を経由して夜に戻ってきた。
だが戻ってきた兄姉は体調がすぐれなかった。三女の静子さんは次兄の症状が特に重かったことが忘れられない。上半身は裸で、両肩を支えられるようにして帰ってきた兄の顔は、灰かススかで真っ黒になっていた。高熱でうなされ続け、吐血することも。
ただ母は働きに出ていたため、きょうだいで1カ月ほど看病を続けた。体をまめに拭いてやり、ぬらした布で頭を冷やしてあげた。
次兄の勤務先の工場では、次兄の服を着た遺体が見つかった。会社から自宅に遺骨を届けるとの連絡があり、会社関係者らしい弔問客が生きている次兄の姿を見て驚いていた。その光景が、静子さんの記憶に残っている。
矢上村で原爆に遭い、長崎市内から帰ってきた兄姉を看病した谷山勇さんと2人の姉、ツタエさんと静子さんは原爆直後に下痢の急性症状が出たほか、それぞれ体調不良に悩まされた。
勇さんは19歳で肛門(こうもん)に悪性の腫瘍(しゅよう)を患った。あるとき、高熱が出たため医者にかかると腫瘍の存在を指摘され、「これはとらないと死ぬよ」と言われた。「そのときの恐怖は忘れられない」と話す。1カ月ほど入院し、手術をした。
ツタエさんは山の上から見た原爆の火や、村を歩く負傷者の姿を夢に見るのが怖く、不眠症になった。近年は呼吸器の調子が悪く、呼吸が苦しい。12歳のときに原爆に遭った三女の静子さんは、中学生に上がったころから、肌が弱くなったと感じている。3人は現在も、日常的に通院している。
だがつい最近まで、3人はそれぞれの体調不良が原爆の影響のためだとは考えていなかった。
矢上村で暮らしていたときに原爆に遭った谷山さん一家は戦後、長崎市内に引っ越したが、ツタエさんと静子さんは10代後半で家を出て働き始め、3姉弟は別々に暮らすようになった。
そのころ、谷山家があった矢上村田中名の集落の住民が、集団で被爆者健康手帳を申し込むか、地域で議論になったことがあったらしい。姉弟の母キトさんは「被爆者になると、結婚できなくなるかもしれない」と子どもたちを気遣い反対。家族の中で被爆者について良い印象はなく、勇さんは「原爆について改めて話すこともなかった」と振り返る。
旧長崎市以外も被爆地域と認めるよう求める被爆地域拡大の運動が高まった76年、矢上村の西側の一部は被爆者と同じ援護を受けられる「健康診断特例区域」になったが、谷山家があった地域はそのままだった。
勇さんから最近になって母が反対していたことを聞いた静子さんは「私たちにも相談してくれたらよかったのに」と悔やんだ。
「おかしかね」。戦後長らく、原爆の影響を考えていなかった谷山さんだったが、2000年代に被爆体験者の支援事業が始まったころから、疑問を抱き始めた。被爆体験者向けの手帳をもらったが、被爆者健康手帳とは別物。地域で被爆者健康手帳を申し込むという話があったことを思い出し、「どうして違う手帳とやろうか」と思った。
そのころ、勇さんは被爆体験者について裁判を起こす人がいると聞いた。長崎市役所で連絡先を尋ね、被爆体験者訴訟の初代の原告団長で、13年に亡くなった小川博文さんの家を、2人の姉を誘って訪ねた。小川さんは原爆は上空約500メートル近くで爆発したことに触れ、「放射性物質は同心円に広がった」と語った。谷山さんは、「自分たちも放射線の影響を受けた被爆者だ」と思うようになった。
当時は体調不良は深刻ではなかったため、2人の姉は参加しなかったが、「あんた1人だけで入らんね」と促され、勇さんは被爆体験者訴訟の原告団に加わった。
ツタエさんと静子さんは、原爆投下時に3歳だった勇さんが訴訟の準備で当時の話を聞きたがったため、それまであまり振り返ることはなかった原爆の話をするようになった。
普段から連絡をとることが多かった静子さんは、自宅前で一緒に遊んでいるときに原爆に遭ったことや、兄姉の看病をしたことなどを弟と改めて振り返った。勇さんからは内部被曝(ひばく)などの、原爆や放射線に関する知識も教わり、「被爆者と何が違うとやろうか」と次第に疑問を抱くようになった。将来の体調不良への不安もあり、静子さんは裁判に参加することにした。ひざに人工関節を入れるなど体調がすぐれなかったツタエさんも「十分な治療を受けられるように」と訴訟に加わる決断をし、第2陣として11年6月に提訴した。
長崎地裁は今年2月、第2陣として提訴した2人の姉が被爆者に当たると判断した。一方、原爆投下時、姉と同じ場所にいて第1陣の訴訟に参加していた谷山さんは5月の福岡高裁での控訴審で敗訴。司法の判断は分かれた。でも、勇さんは諦めてはいない。「裁判がなければ弁護士の先生や仲間との出会いはなかった。姉と、当時を振り返って原爆について学ぶこともなかったかもしれない」と思うからだ。判決後の集会では落ち込む仲間に声をかけ、翌日の集会には姉弟3人で参加。3人そろって被爆健康手帳を手にするまで闘い抜くつもりだ。
同じ場所にいたのに――。谷山さん姉弟は、国が定めた被爆地域の範囲に翻弄(ほんろう)されてきた。判決はいずれも未確定で裁判は続く。爆心地からの距離や放射線量など被爆者の線引きの基準は様々だが、本当に必要な人に援護が行き届いてほしい、と改めて思った。
2016年8月2日 朝日新聞(真野啓太・25歳)