2015年5月10日〔東京新聞〕掲載記事
東京電力福島第1原発事故の放射線被害で、多発が懸念される甲状腺がん。70年前、原爆が投下された長崎には、この病気に悩まされる人たちがいる。米田フサエさん(77)と松本ナル子さん(71)の姉妹もそうだ。だが、爆心地からの距離が影響し、国は「被爆者」と認めず、二人は満足ゆく医療サポートを受けられない。「放射線の影響は考えにくい」と、被災者を切り捨てようとする福島の構図とよく似ている。(榊原崇人)
長崎市の中心部から山を隔てて東側に、かつて古賀村と呼ばれた地域がある。戦後の市町村合併で長崎市に組み込まれたこの村で、フサエさんとナル子さんは苗木農家を営む赤瀬家の長女と次女として生まれた。
父親は1944年8月に出征したが、のどかな農村は「あの日」を迎えるまで戦禍と縁が薄く、空襲警報が鳴り響くこともほとんどなかった。
爆心から9キロ、降り積もる灰
45年8月9日の昼前。当時7歳だったフサエさんは、1歳7か月のナル子さんを背負い、二人の弟や近所の友達ら10人ほどと一緒にいた。自宅前にある柿の木の日陰にゴザを敷き、わら草履などを作っていたことを覚えている。
空を見上げると、二機の飛行機が旋回していた。次の瞬間、目がくらむほどの閃光が走った。近くの家屋に逃げ込み、およそ20分後。外に出ると太陽は真っ赤だった。
空から紙くずや灰が降ってきた。爆心地からの距離は、9・7キロ。フサエさんは「自分の家は傷んだ様子もなく、何が起きたのか、さっぱり見当がつかなかった」と振り返る。
後に米軍が原爆を投下したことを知るが、放射性物質が健康に及ぼす影響に関する知識などもちろんない。内部被ばくの原因になり得る食べ物や飲み物に気を配ることはなかった。
家の周りに積もった灰は「肥料になる」と母親から言われ、子供たちで集めては畑に持っていった。その畑で収穫した野菜を家族で食べた。
当時、自宅に水道はなく、近くの溜め池に生活用水を汲みに行っていた。この溜め池にも灰は舞い降りたが、原爆投下前と同じように飲み続け、煮炊きにも使われた。
原爆投下から15年近くが経ったころだ。定時制高校を卒業後、会社勤めをしていた21歳のフサエさんは首の左側に違和感を抱いた。手で触れるとしこりがある。長崎大附属病院(現在での長崎大病院)での診察を受け、甲状腺の手術をした。
さらに15年ほどが過ぎ、今度は32歳になっていたナル子さんが甲状腺がんを発症した。フサエさん同様に首の左側にしこりがあり、やはり長崎大附属病院で手術を受けた。
二人とも当時、甲状腺がんと原爆を結びつけて考えなかった。「原爆で皮膚がただれたりしたのは、旧長崎市内の人たち。古賀村は少し離れていたから」
やがて二人の意識を大きく変える出来事が起きる。86年のチェルノブイリ原発事故だ。90年代に入ると放射線によって甲状腺がんが多発していると報道され始めた。
フサエさんは「私たちのがんも原爆のせいだったと確信した」。ナル子さんも「赤ん坊だった私は姉に世話してもらい、いつも一緒にいた。姉と同じように放射性物質を体に取り込み、同じように甲状腺にがんができた」と思っている。
放射線の怖さ、肌身に
しこりの発見が早かったおかげか、二人は手術後に社会復帰でき、子や孫にも恵まれた。現在、フサエさんは長崎県諫早市で、ナル子さんは長崎市で暮らす。
とはいえ、体験がつらくなかったわけではない。首には長さ15センチほどの手術の痕が残る。「手術は結婚前の若いころ。痕を見られるのが恥ずかしかった。手術で少し声帯に触ったのか、高い声が出にくくなった」とフサエさん。手術痕を目にした知人から「自殺しようとしたの?」と尋ねられたこともある。
そして、甲状腺の病気以外でも急性すい臓炎や白内障などを患う。年を重ねるにつれ、健康面で「何より心配なのは、がんの再発」とナル子さんは言う。二人の兄弟のうちのひとりで、原爆投下時に一緒にいた赤瀬敏郎さんは99年に「血液のがん」とされる白血病で亡くなった。
命をむしばまれる恐怖を感じるフサエさんとナル子さんが望んだのは、被爆者健康手帳を手にすることだった。手帳があれば年4回まで健康診断が受けられ、医療費は公費負担のため、がん再発の早期発見、早期治療を見込める。
その願いはかなっていない。原爆による健康被害を国が認めないからだ。
国の被爆者援護制度で「被爆者」と認められ、健康手帳が交付されるのは、原爆投下時に旧長崎市内を中心にした場所にいた人らだ。爆心地から南方は約12キロまで、その他の方角は約6~7キロまでが対象地域で、東に10キロほど離れた旧古賀村にいた人たちは被爆者と認定されない。
2002年に制度変更があり、対象地域外でも爆心地から12キロ圏以内にいた人は「被爆体験者」として国が支援するようになった。旧古賀村も含まれる。しかし「被爆体験者」に対しては、被爆のトラウマなどによる精神疾患などの医療支援にとどまる。
「被爆者と同じように放射線によって健康被害が生じた」のに「被爆者」から外されたと訴える人たちは、07年、国などを相手取った訴訟に踏みきる。フサエさんとナル子さんも訴訟に翌年から参加した。
既に原爆投下から60年以上がたち、原告はみな高齢で、裁判の途中で亡くなった人もいる。集会をしようにも体力的にきつく、頻繁に開けない。
原爆とがんの関連を訴える上でも、時間の経過が壁になる。フサエさんの場合、手術のカルテが残っておらず、がんを患った証明さえ難しくなっている。
2012年、長崎地裁の判決は敗訴。原告は控訴し、今は福岡高裁で争う。「行政が親身になってくれないのが本当に悔しい」
ナル子さんはそう語る。
福島の人たちも同じ。声上げ続けて
似たような状況が、福島の原発事故の被災地でも生まれつつある。
福島県は事故当時18歳以下だった全県民を対象に甲状腺検査を実施している。がんやがんと疑われる患者は百人を超えたが、県側は「放射線の影響は考えにくい」と健康不安の払拭に躍起となり、健康手帳の交付まで至らない。その上、「風評被害をあおる」として、放射線による健康被害を語ること自体、避けられる傾向にある。
フサエさんとナル子さんはこう思う。「福島の人たちは今、頑張って声をあげないと、満足な援助を受けられなくなる。行政は思わせぶりに寄り添う姿勢を見せるだけ。私たちと同じような苦労を味わって欲しくない」