2015年5月30日土曜日

長崎民医連:「放射線、健康に影響」 被爆体験者を調査 /長崎



毎日新聞 2015年05月30日 地方版

長崎市内の医療機関などで作る「長崎県民主医療機関連合会」は29日、爆心地から12キロ以内で原爆に遭いながら被爆者と認められない被爆体験者193人の証言を聞き取り、非被爆者と健康状態を比較した調査結果をまとめ、発表した。被爆体験者の方が急性症状の割合の多いことなどから「放射線による健康への影響はあったと考えられる」と結論づけ、国などに被爆地域拡大を求めた。
調査は、被爆体験者でつくる長崎被爆地域拡大協議会と共同で、2011年1月〜13年10月に、長崎市周辺の香焼▽深堀▽伊王島−−などで実施。爆心12キロ圏内に30年以上居住しているが、原爆投下から1年間は同圏内にいなかった非被爆者152人と比較した。被爆当時の証言や急性症状の有無、病歴などを聞き取った。
報告書によると、原爆投下後から半年以内に下痢、鼻血、脱毛など急性症状があったと回答したのは被爆体験者が56%で1人当たりの平均症状数は1・7、非被爆者は13・8%で同0・3だった。戦後の病歴では、心臓病や糖尿病、高血圧など21種類について罹患(りかん)したことがあるか質問。1人当たりの疾病数は被爆体験者は7・8、非被爆者は5・8だった。
長崎民医連の山口喜久雄事務局長(59)は「国は(被爆地域拡大に)科学的、合理的な根拠を示せというが、被害者の主張を退ける方便に過ぎない。今回まとめた証言を真摯(しんし)に受け止めてほしい」と訴えた。
【大平明日香】
〔長崎版〕



2015年5月20日水曜日

被爆し白内障、2人を原爆症と認定 広島地裁




朝日新聞  2015年5月20日



広島の原爆で被爆した影響で白内障になったのに、原爆症と認めないのは不当だとして、被爆者4人が国に認定申請の却下処分取り消しなどを求めた訴訟の判決が20日、広島地裁であった。梅本圭一郎裁判長(小西洋裁判長代読)は4人のうち2人を原爆症と認め、却下処分を取り消した。1人あたり300万円の国家賠償請求は退けた。


国は「救済範囲を広げる」として2013年12月に認定の新基準を設けた。新基準で認定されなかった被爆者を原爆症と認めた判決は5例目で、白内障の症状は初めて。認定行政の見直しを求める声がさらに高まりそうだ。
4人は広島県内に住む70~84歳の男女。白内障を患い、07~08年に認定申請をしたが却下され、11年に提訴。国は新基準に照らし、4人については改めて認定しないと判断していた。
原爆症と認定された原告2人のうち1人は、爆心地から約2・4キロで被爆し、新基準で積極認定する「爆心地から約1・5キロ以内で被爆」の対象外だったが、広島地裁の判決は放射能を含む「黒い雨」を浴びるなど「相当程度、被爆した」とし、被爆と白内障の関連性を認めた。医療の必要性もあるとした。もう1人は積極認定の対象となる「爆心地から約1・5キロ」で被爆。判決は「点眼薬の効果を見ながら手術の時期を判断していた」として医療の必要性を認めた。
白内障は他の病気と比べて原爆の影響か加齢による発症かを判断するのが難しいとされる。厚生労働省によると昨年、新基準の下で審査された申請1744件は1153件(66%)が原爆症と認定されたが、白内障の認定は11件にとどまり、114件が却下。旧基準だった13年も認定は4件で、46件が却下された。
原爆症をめぐっては03年以降、認定を求める被爆者の集団訴訟で国の敗訴が相次いだ。新基準になってからも、がんや心筋梗塞(こうそく)、甲状腺機能低下症などの被爆者について、国敗訴の判決が大阪、熊本地裁で4件出ている。「ノーモア・ヒバクシャ訴訟全国弁護団」によると、今回の原告を含め約90人が5地裁・2高裁で却下処分の取り消しを求めてなお争っている。
(根津弥)

原爆症 なぜ救えない




(聞きたかったこと 広島)原爆症 なぜ救えない




朝日新聞 2015年5月20日


原爆の放射線の影響で患ったがんや白血病、白内障などの原爆症。これまで多くの被爆者が国に認定申請を却下され、裁判で争ってきた。広島市南区の吉村蔦子(つたこ)さん(74)もその一人。昨年2月、申請から6年越しで心筋梗塞(こうそく)が原爆症と認定された。原爆の影響が認められず国と争わねばならなかった思いを聞いた。


5歳の時、被爆した。爆心地から約1・5キロの千田町1丁目(現・中区)の鷹野橋電停前の家には、父の三村芳三郎さんと母勝子さん、弟と4人で住んでいた。

6日午前8時15分、爆風で家が崩れた。縁側で弟と遊んでいて家の下敷きになった吉村さんを、母が引っ張り出してくれた。体は打撲や擦り傷だらけ。父は朝、親戚の家に行き、不在だった。
母と弟と一緒に、京橋川にかかる御幸橋まで線路沿いを裸足で歩いた。地面が焼けるように熱かった。御幸橋には多くの人が集まり、カチカチのおむすびを1個もらって一夜を明かした。「夜、家があった方が真っ赤に燃えていてね。今も忘れられない」
翌朝、父に会うため、3人は爆心地の近くを歩いた。たまたま父と合流でき、家族はみな無事だった。道すがら路面電車の運転席に炭の塊のような、運転士の遺体を見たことを覚えている。
微熱と下痢が10日ほど続き、髪の毛が抜けたと母から聞いた。左耳の後ろの傷が深く、べったりとうみがついたガーゼをはがすたびに、大声で泣いたという。左耳はつぶれ、今も耳たぶは首にくっついたままだ。
23歳で小学校の同級生だった憲二さん(74)と結婚した。憲二さんも、爆心地から約2・5キロの南千田町(現・中区)の自宅前で被爆していた。結婚後は子育てやパートで忙しく、あまり被爆のことは考えなかったという。
2003年、心筋梗塞で2週間入院した。08年に国はがん、心筋梗塞などの5疾病は「爆心地から3・5キロで被爆」などの条件を満たせば、積極的に原爆症と認める新基準を導入し、吉村さんは認定を申請した。甲状腺機能低下症の憲二さんも申請した。
しかし10年、2人とも却下された。放射線が原因(放射線起因性)と認められなかった。あの日、確かに家の下で生き埋めになり、焼け野原になった町を歩き回った。
「病気の難しいことは分からんよ。でも、なんで? 却下するなら積極的に認めるなんて言わなければいいのに」。各地で被爆者が原爆症の認定を求めて提訴し、吉村さんも10年10月、広島地裁で裁判を起こした。憲二さんも翌年1月に原告に加わった。
13年12月、原爆症認定訴訟で敗訴が続いた国は、爆心地近くで被爆した人らの心筋梗塞や甲状腺機能低下症などを認定しやすくする新基準を設けた。裁判が続く中、昨年2月、吉村さんは原爆症と認定された。
だが、憲二さんはいまも認定されていない。吉村さんは「自分が認められておしまいではない。全員を認めてほしい」と言う。13年の基準には、心筋梗塞や甲状腺機能低下症の積極認定の対象が「爆心地から約2キロ以内で被爆」などとする条件が加わり、憲二さんは500メートルほど遠かった。
憲二さんはこぼす。「あの日、みんな原爆に遭った。なぜ全員を救ってくれないんだろう。条件をころころ変えて、おかしいよね」
広島地裁で20日、白内障の被爆者4人が原爆症認定を求めた裁判の判決がある。吉村さんは傍聴するつもりだ。
「孫やひ孫にも恵まれ、幸せだった」。今の日本の出発点が、戦争で亡くなった多くの命と広島と長崎の経験だったと思う。「戦争そのものが間違いじゃ。それで戦争で初めて核兵器まで使われた。だから、原爆で大変な目にあった人を国が区別してほしくないの」
(根津弥)


2015年5月19日火曜日

被爆体験者訴訟:控訴審 本田医師の調書、原告側が提出 /長崎





毎日新聞 2015年05月19日 地方版

長崎の爆心地から12キロ以内で原爆に遭った被爆体験者388人が、国と県、長崎市に被爆者健康手帳の交付を求めた第1陣訴訟控訴審の口頭弁論が18日、福岡高裁(永松健幹裁判長)であった。原告側は、長崎地裁で4月にあった第2陣訴訟の証人尋問で、県保険医協会会長の本田孝也医師が「原告らは原爆放射線で健康被害を受けた可能性がある」などと証言した調書を提出した。
原告側は、控訴審でも本田医師の証人尋問をするよう求めており、高裁は同調書の内容を検討したうえで判断する。
【樋口岳大】
〔長崎版〕



2015年5月11日月曜日

原爆投下70年の長崎〔甲状腺がんとの闘い〕「被爆者」なぜ認めぬ




2015年5月10日〔東京新聞〕掲載記事



東京電力福島第1原発事故の放射線被害で、多発が懸念される甲状腺がん。70年前、原爆が投下された長崎には、この病気に悩まされる人たちがいる。米田フサエさん(77)と松本ナル子さん(71)の姉妹もそうだ。だが、爆心地からの距離が影響し、国は「被爆者」と認めず、二人は満足ゆく医療サポートを受けられない。「放射線の影響は考えにくい」と、被災者を切り捨てようとする福島の構図とよく似ている。(榊原崇人)




長崎市の中心部から山を隔てて東側に、かつて古賀村と呼ばれた地域がある。戦後の市町村合併で長崎市に組み込まれたこの村で、フサエさんとナル子さんは苗木農家を営む赤瀬家の長女と次女として生まれた。
父親は1944年8月に出征したが、のどかな農村は「あの日」を迎えるまで戦禍と縁が薄く、空襲警報が鳴り響くこともほとんどなかった。




爆心から9キロ、降り積もる灰



45年8月9日の昼前。当時7歳だったフサエさんは、1歳7か月のナル子さんを背負い、二人の弟や近所の友達ら10人ほどと一緒にいた。自宅前にある柿の木の日陰にゴザを敷き、わら草履などを作っていたことを覚えている。

空を見上げると、二機の飛行機が旋回していた。次の瞬間、目がくらむほどの閃光が走った。近くの家屋に逃げ込み、およそ20分後。外に出ると太陽は真っ赤だった。

空から紙くずや灰が降ってきた。爆心地からの距離は、9・7キロ。フサエさんは「自分の家は傷んだ様子もなく、何が起きたのか、さっぱり見当がつかなかった」と振り返る。

後に米軍が原爆を投下したことを知るが、放射性物質が健康に及ぼす影響に関する知識などもちろんない。内部被ばくの原因になり得る食べ物や飲み物に気を配ることはなかった。

家の周りに積もった灰は「肥料になる」と母親から言われ、子供たちで集めては畑に持っていった。その畑で収穫した野菜を家族で食べた。

当時、自宅に水道はなく、近くの溜め池に生活用水を汲みに行っていた。この溜め池にも灰は舞い降りたが、原爆投下前と同じように飲み続け、煮炊きにも使われた。

原爆投下から15年近くが経ったころだ。定時制高校を卒業後、会社勤めをしていた21歳のフサエさんは首の左側に違和感を抱いた。手で触れるとしこりがある。長崎大附属病院(現在での長崎大病院)での診察を受け、甲状腺の手術をした。

さらに15年ほどが過ぎ、今度は32歳になっていたナル子さんが甲状腺がんを発症した。フサエさん同様に首の左側にしこりがあり、やはり長崎大附属病院で手術を受けた。

二人とも当時、甲状腺がんと原爆を結びつけて考えなかった。「原爆で皮膚がただれたりしたのは、旧長崎市内の人たち。古賀村は少し離れていたから」

やがて二人の意識を大きく変える出来事が起きる。86年のチェルノブイリ原発事故だ。90年代に入ると放射線によって甲状腺がんが多発していると報道され始めた。

フサエさんは「私たちのがんも原爆のせいだったと確信した」。ナル子さんも「赤ん坊だった私は姉に世話してもらい、いつも一緒にいた。姉と同じように放射性物質を体に取り込み、同じように甲状腺にがんができた」と思っている。




放射線の怖さ、肌身に



しこりの発見が早かったおかげか、二人は手術後に社会復帰でき、子や孫にも恵まれた。現在、フサエさんは長崎県諫早市で、ナル子さんは長崎市で暮らす。

とはいえ、体験がつらくなかったわけではない。首には長さ15センチほどの手術の痕が残る。「手術は結婚前の若いころ。痕を見られるのが恥ずかしかった。手術で少し声帯に触ったのか、高い声が出にくくなった」とフサエさん。手術痕を目にした知人から「自殺しようとしたの?」と尋ねられたこともある。

そして、甲状腺の病気以外でも急性すい臓炎や白内障などを患う。年を重ねるにつれ、健康面で「何より心配なのは、がんの再発」とナル子さんは言う。二人の兄弟のうちのひとりで、原爆投下時に一緒にいた赤瀬敏郎さんは99年に「血液のがん」とされる白血病で亡くなった。

命をむしばまれる恐怖を感じるフサエさんとナル子さんが望んだのは、被爆者健康手帳を手にすることだった。手帳があれば年4回まで健康診断が受けられ、医療費は公費負担のため、がん再発の早期発見、早期治療を見込める。

その願いはかなっていない。原爆による健康被害を国が認めないからだ。

国の被爆者援護制度で「被爆者」と認められ、健康手帳が交付されるのは、原爆投下時に旧長崎市内を中心にした場所にいた人らだ。爆心地から南方は約12キロまで、その他の方角は約6~7キロまでが対象地域で、東に10キロほど離れた旧古賀村にいた人たちは被爆者と認定されない。

2002年に制度変更があり、対象地域外でも爆心地から12キロ圏以内にいた人は「被爆体験者」として国が支援するようになった。旧古賀村も含まれる。しかし「被爆体験者」に対しては、被爆のトラウマなどによる精神疾患などの医療支援にとどまる。

「被爆者と同じように放射線によって健康被害が生じた」のに「被爆者」から外されたと訴える人たちは、07年、国などを相手取った訴訟に踏みきる。フサエさんとナル子さんも訴訟に翌年から参加した。

既に原爆投下から60年以上がたち、原告はみな高齢で、裁判の途中で亡くなった人もいる。集会をしようにも体力的にきつく、頻繁に開けない。

原爆とがんの関連を訴える上でも、時間の経過が壁になる。フサエさんの場合、手術のカルテが残っておらず、がんを患った証明さえ難しくなっている。

2012年、長崎地裁の判決は敗訴。原告は控訴し、今は福岡高裁で争う。「行政が親身になってくれないのが本当に悔しい」
ナル子さんはそう語る。


福島の人たちも同じ。声上げ続けて


似たような状況が、福島の原発事故の被災地でも生まれつつある。

福島県は事故当時18歳以下だった全県民を対象に甲状腺検査を実施している。がんやがんと疑われる患者は百人を超えたが、県側は「放射線の影響は考えにくい」と健康不安の払拭に躍起となり、健康手帳の交付まで至らない。その上、「風評被害をあおる」として、放射線による健康被害を語ること自体、避けられる傾向にある。

フサエさんとナル子さんはこう思う。「福島の人たちは今、頑張って声をあげないと、満足な援助を受けられなくなる。行政は思わせぶりに寄り添う姿勢を見せるだけ。私たちと同じような苦労を味わって欲しくない」