2015年5月20日水曜日

原爆症 なぜ救えない




(聞きたかったこと 広島)原爆症 なぜ救えない




朝日新聞 2015年5月20日


原爆の放射線の影響で患ったがんや白血病、白内障などの原爆症。これまで多くの被爆者が国に認定申請を却下され、裁判で争ってきた。広島市南区の吉村蔦子(つたこ)さん(74)もその一人。昨年2月、申請から6年越しで心筋梗塞(こうそく)が原爆症と認定された。原爆の影響が認められず国と争わねばならなかった思いを聞いた。


5歳の時、被爆した。爆心地から約1・5キロの千田町1丁目(現・中区)の鷹野橋電停前の家には、父の三村芳三郎さんと母勝子さん、弟と4人で住んでいた。

6日午前8時15分、爆風で家が崩れた。縁側で弟と遊んでいて家の下敷きになった吉村さんを、母が引っ張り出してくれた。体は打撲や擦り傷だらけ。父は朝、親戚の家に行き、不在だった。
母と弟と一緒に、京橋川にかかる御幸橋まで線路沿いを裸足で歩いた。地面が焼けるように熱かった。御幸橋には多くの人が集まり、カチカチのおむすびを1個もらって一夜を明かした。「夜、家があった方が真っ赤に燃えていてね。今も忘れられない」
翌朝、父に会うため、3人は爆心地の近くを歩いた。たまたま父と合流でき、家族はみな無事だった。道すがら路面電車の運転席に炭の塊のような、運転士の遺体を見たことを覚えている。
微熱と下痢が10日ほど続き、髪の毛が抜けたと母から聞いた。左耳の後ろの傷が深く、べったりとうみがついたガーゼをはがすたびに、大声で泣いたという。左耳はつぶれ、今も耳たぶは首にくっついたままだ。
23歳で小学校の同級生だった憲二さん(74)と結婚した。憲二さんも、爆心地から約2・5キロの南千田町(現・中区)の自宅前で被爆していた。結婚後は子育てやパートで忙しく、あまり被爆のことは考えなかったという。
2003年、心筋梗塞で2週間入院した。08年に国はがん、心筋梗塞などの5疾病は「爆心地から3・5キロで被爆」などの条件を満たせば、積極的に原爆症と認める新基準を導入し、吉村さんは認定を申請した。甲状腺機能低下症の憲二さんも申請した。
しかし10年、2人とも却下された。放射線が原因(放射線起因性)と認められなかった。あの日、確かに家の下で生き埋めになり、焼け野原になった町を歩き回った。
「病気の難しいことは分からんよ。でも、なんで? 却下するなら積極的に認めるなんて言わなければいいのに」。各地で被爆者が原爆症の認定を求めて提訴し、吉村さんも10年10月、広島地裁で裁判を起こした。憲二さんも翌年1月に原告に加わった。
13年12月、原爆症認定訴訟で敗訴が続いた国は、爆心地近くで被爆した人らの心筋梗塞や甲状腺機能低下症などを認定しやすくする新基準を設けた。裁判が続く中、昨年2月、吉村さんは原爆症と認定された。
だが、憲二さんはいまも認定されていない。吉村さんは「自分が認められておしまいではない。全員を認めてほしい」と言う。13年の基準には、心筋梗塞や甲状腺機能低下症の積極認定の対象が「爆心地から約2キロ以内で被爆」などとする条件が加わり、憲二さんは500メートルほど遠かった。
憲二さんはこぼす。「あの日、みんな原爆に遭った。なぜ全員を救ってくれないんだろう。条件をころころ変えて、おかしいよね」
広島地裁で20日、白内障の被爆者4人が原爆症認定を求めた裁判の判決がある。吉村さんは傍聴するつもりだ。
「孫やひ孫にも恵まれ、幸せだった」。今の日本の出発点が、戦争で亡くなった多くの命と広島と長崎の経験だったと思う。「戦争そのものが間違いじゃ。それで戦争で初めて核兵器まで使われた。だから、原爆で大変な目にあった人を国が区別してほしくないの」
(根津弥)