2015年7月31日金曜日

きのこ雲の下で:「原爆小頭症」半世紀

きのこ雲の下で:「原爆小頭症」半世紀/上 

「息子守る」母の執念 国の認定勝ち取る


毎日新聞 2015年06月25日 大阪朝刊

70年前に米軍が広島、長崎に投下した原子爆弾の放射線は母体にいた胎児をも貫き、それが原因で知的障害などを生じる「原爆小頭症」を発症させた。患者の存在が広く明らかになったのは、日本が高度成長期を迎えていた1965年。患者と支援者でつくる「きのこ会」は今月27日、結成から50年を迎える。生まれる前に命を傷つけられ、懸命に生きてきた「きのこ雲の下の胎児」たちと、支える人たちの半世紀を追った。
70歳を前に白髪が増え、しわが額に目立つようになった。知的障害に加えて、不整脈や糖尿病などの持病。視力も衰え、よくつまずく。しかし、小さい体と頭、あどけない表情が、不釣り合いな幼さを醸し出す。
広島市南部の古びたアパート。1人暮らしの男性(69)は原爆小頭症で、長年一緒だった母は12年前に逝った。4日に1度、様子を見に来る弟に生活を支えてもらっている。弟は「きのこ会」会長の長岡義夫さん(66)。おかずを届け、洗濯や掃除をする。
兄弟の母、長岡千鶴野さんは2003年に79歳で亡くなるまで、きのこ会の第2代会長を30年間務めた。障害を原爆の影響と国に認めさせ、子どもたちを支える活動に奔走した。母の没後、空白だった会長を義夫さんが09年に引き継いだ。振り返って言う。「母は、兄を守らなければという一心だったんです」
千鶴野さんの手記によると、被爆したのは爆心地から約900メートル。46年2月に兄が生まれた。「頭は小さなコーヒーカップと同じくらい」。医師は「頭囲が小さく厚くて脳の容積が少ない。能力が最高に発揮されても小3程度」と告げた。
兄が小学生の頃、米原爆傷害調査委員会(ABCC)から原因は「母体の栄養失調」と説明されたが、ABCCの職員が「成績表を見たい」と頼みにきた。障害と被爆の関係を探っていたのだ。千鶴野さんは「栄養失調を訂正してからにしてちょうだい。親子で野垂れ死にしても、世話にはなりたくありません」と追い返した。
ABCCは遅くとも50年代半ばには、被爆地で小頭症児が生まれた事実を把握していた。60年代に入り広島大医学部も確認したが、社会に伝わることはなかった。隠された存在を知った元中国放送記者の故秋信利彦さんが、本にしようと訪ねてきた。千鶴野さんは覚悟を問うた。「あんたらは本に書いたら終わりでも、私らは世間の目にさらされて生きねばならん。一生、責任をもって付き合ってくれるんか」
この出会いを機に秋信さんが尽力し、65年6月、きのこ会が結成された。子どもたちは20歳になろうとしていた。
子どもと寄り添って生きてきた親に存命の人は既にいない。義夫さんは母の死後、兄を近くに呼び寄せたが、すぐに母との思い出が詰まったアパートに戻ってしまった。
小頭症患者は来年には70歳を迎える。きのこ会は国に援護の充実を求め続けている。義夫さんは「兄たちには穏やかな老後を送ってほしい」と言う。そのためには社会の理解が欠かせない。
いつものように、生活費として1000円札5枚と小銭を補充した弟を横目に、兄はつぶやいた。「兄弟が逆やったらよかったのう」。目に悲しみの色が宿っていた。



きのこ雲の下で:「原爆小頭症」半世紀/中

被爆者にも階層 患者発掘し光当てる 


「やっぱりそうですか。この子の障害は原爆に関係あると思うとったんじゃ」


後に原爆小頭症と判明する小菅信子さん(2013年死去)の隣で、父親の栄三さん(1992年死去)は、ため息をついた。65年、広島県廿日市市の作家、文沢隆一(87)が瀬戸内海の小さな島を訪ねた時のことだ。元中国放送記者の故秋信利彦さんと共に、文沢さんは小頭症患者の発掘に努めていた。
秋信さんは、米原爆傷害調査委員会(ABCC)と広島大の産婦人科医が相次いで調査し、作成した匿名の小頭症患者のリストを入手した。広島県内の障害者施設や中学校の特殊学級(当時)を回り、生年月日や頭囲が一致する子供を探した。
文沢さんは栄三さんに「ぜひ放射能被害を明らかにしましょう」と訴えた。栄三さんは「やりましょう」と即答した。信子さんは知的障害があるだけでなく、生まれつき右足の指がなかった。妻は島を出て行き、栄三さんは一人で娘を育てていた。原爆の罪を告発したい気持ちが強くなっていた。
文沢さんは「ノブちゃんは人なつっこくて、私を父親のように慕ってくれたんだ」と目を細める。この出会いで、文沢さんは、活動に一層の力を注ぐようになった。
65年6月、見つかった6人の患者が親と一緒に集い、広島市内で初会合を開いた。支援者と共に「きのこ会」を作ることで一致した。原爆症認定が一番の目標となったが、厚生省(当時)は「障害は対象外」と退けた。陳情の場で、1人の母親が怒りの声をあげた。「この子らは被爆者健康手帳を持っとるんです。何のための手帳ですか」
粘り強い運動が実り、厚生省に研究班ができて調査を始めた。67年、「近距離早期胎内被爆症候群」の病名で認定を獲得した。
当時、中国新聞記者だった元広島市長の平岡敬さん(87)は、初会合にも参加した。「経済成長の裏側で、被爆者の間に階層化が生じていた時期だった。秋信さんらは、社会の底辺に落ち込んだ人々に光を当てようとしていた」と述懐する。きのこ会初代表事務局長を務めた文沢さんは語る。「生まれる前の人間、そしてその未来にまで影響する放射線の恐ろしさを原爆小頭症は示していた。彼らを支えなければと思った」


きのこ雲の下で:「原爆小頭症」半世紀/下 

患者、迫る高齢化 不十分な支援体制


台所のカレンダーは、昨年3月のままだ。広島市内で1人暮らしをしている原爆小頭症患者の川下(かわしも)ヒロエさん(69)は、新しいものに取り換えられない。知的障害のあるヒロエさんを一人で育てた母親の兼子さんは昨年3月、92歳で亡くなった。「忘れちゃいけんと思うてね」。ヒロエさんが、かみしめるように言った。
妊娠2カ月だった兼子さんは広島の爆心地から約1キロで被爆し、夫は4日後に亡くなった。出生時、ヒロエさんの体重は500グラムほどしかなかったという。病弱で小学校卒業は15歳だった。兼子さんは日雇いの土木作業に出て生計を立てた。
60歳を過ぎて体力が衰え、娘の将来を案じた兼子さんは初めて被爆者支援制度を調べる。きのこ会の存在を知るとすぐに、長く暮らした北九州市から広島市に移り住んだ。ヒロエさんが原爆小頭症と認定されたのは、他の患者より22年も遅い1989年だった。43歳になっていた。
きのこ会の親の高齢化が進んでいた95年、支援者で医療ソーシャルワーカーの村上須賀子さん(70)=広島県廿日市市=は県内在住の会員家族の生活実態を調査した。どの親も「自分が死んだ後はどうなるのか。この子より一日でも長く生きたい」と願っていたが、何の手だてもされていなかった。村上さんは「患者と家族を取り巻く福祉関係者の連携がなく、一人一人を支える体制ができていない。国は小頭症手当など金銭を給付するだけで、十分な援助になっていない」と感じた。
きのこ会は厚生労働省に対し、小頭症患者の生活支援を考える担当者の設置を求めた。2011年、広島市に1人が配置された。しかし、村上さんはそれでは不十分と考える。「患者の高齢化もあり、1人暮らしの場合は、特に医療や福祉の知識を備えて生活の細かな相談に乗れる体制が必要だ」と訴える。
ヒロエさんは簡単な料理などの家事はできるが、役所の手続きは担当者の説明だけでは理解できない。支援者の付き添いが欠かせない。先日は地下街で迷っても地図を見ることもできず、支援者に電話で助けを求めた。
今は検査で通院する程度で、平穏に暮らしている。飼っている手乗り文鳥の説明をする表情は清らかで、懸命な話し方もあって少女のようにさえ見える。兼子さんの勧めでヒロエさんは2年前、詩を書き始めた。ノートは10冊ほどになっていた。最近の一編には、こうつづられている。
「私のいのちは20才までいきられないと 病院の先生からきいた いまだに病院がよい 私は69才 いまだにいきている 神様にいかされている」
【田中博子】