2015年8月7日金曜日

「黒い雨」秋にも提訴へ




「黒い雨」秋にも提訴へ


2015年8月4日 NHK広島



原爆投下直後に降った放射性物質を含むいわゆる「黒い雨」をめぐり、住民グループが支援の対象となる地域の拡大を求めて、今年秋にも広島県や広島市に対して裁判を起こす見通しになりました。

裁判への参加者は当初より大きく増えて、およそ70人となる見込みです。

原爆投下直後に降ったいわゆる黒い雨をめぐっては、健康診断を無料で受けられるなど、国の支援の対象となる地域が爆心地から北西部に広がる南北19キロの範囲に限られています。

このため、対象地域の外で黒い雨を浴びたとする広島市佐伯区や安芸太田町などの住民で作るグループの人たちは、支援となる地域の拡大を求めて、県や市に対し、今年秋にも裁判を起こすことにしています。

当初、裁判に参加しようという人は40人あまりでしたが、その後、参加を求める人が相次ぎ、これまでにおよそ70人が裁判に向けて被爆者健康手帳の申請手続きを行ったということです。

これについて「広島県『黒い雨』原爆被害者の会連絡協議会」の牧野一見事務局長は
「会員がみな高齢化し、最後の手段として裁判に参加しようという人が多い。長年主張してきたことを認めてほしい」と話しています。



2015年8月6日木曜日

クローズアップ2015:被爆70年 原爆症認定なお狭き門



クローズアップ2015:被爆70年 原爆症認定なお狭き門


毎日新聞 2015年08月06日


広島、長崎への原爆投下から70年を迎え、平均年齢が80歳を超えた被爆者の「救済」は時間との闘いになっている。原爆症認定のハードルはいまだ高く、「証人が見つからない」などの理由で被爆者健康手帳を取れない人たちが今もいる。援護策の充実を政府や国会に働きかけてきた被爆者団体は、運動の先細りに危機感を抱いており、「生きているうちに解決を」と訴えている。

◇司法と行政、隔たり

「国は被爆者が死ぬのを待っているかのようだ」。広島で原爆症の認定を求める集団訴訟の原告団長、内藤淑子さん(70)=広島市安佐南区=が嘆く。生後11カ月の時、爆心地から約2・4キロにいた母の背中で被爆した。白内障を患い、2008年に原爆症の認定を申請。今年5月の広島地裁判決は原爆症と認めたが、国は「放射線起因性はない」などとして控訴した。判決が確定するまでは原爆症とは認められない。
被爆者援護法では、被爆した場所などの条件を満たせば被爆者健康手帳が交付される。さらに原爆症と認定されると、月額13万円余りの医療特別手当が支給される。今年3月末現在、手帳所持者18万3519人のうち、原爆症の認定を受けているのは8749人(4・8%)。認定には発症した病気について「放射線起因性」、現に治療が必要な状態である「要医療性」という二つの厳格な要件がある。これまで段階的に認定基準が緩和されてきたが、なお「狭き門」で、現在も全国で訴訟が続いている。
日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の呼び掛けで、未認定被爆者が各地で集団訴訟を起こしたのは03年。遠距離の被ばく線量や内部被ばくを過小評価しがちとする司法判断が相次ぎ、国は敗訴を重ねた。安倍晋三首相は第1次政権時代の07年に認定基準見直しを表明、08年から改められた。09年には麻生太郎首相(当時)と日本被団協が話し合いで問題の解決を約束し、集団訴訟の終結を確認した。それでも提訴の動きはやまなかった。
厚生労働省は民主党政権時代の10年、有識者検討会を設置。日本被団協は、病気の種類や治療の内容に応じて段階的に手当を加算する案を提示した。しかし、13年12月の検討会の報告書は「現在でも科学的知見を超えて認めている」として採用しなかった。
これを受け、厚労省は新基準を発表。心筋梗塞(こうそく)などで積極的に認定する爆心地からの距離を広げたが、見直しは小幅にとどまった。14年以降も4地裁の訴訟の原告28人中18人が原爆症と判断され、行政と司法の隔たりは埋まっていない。
与党の国会議員の一人は「改正したばかりの基準を直ちに否定もできない」と話し、当面は新基準による審査が続く見通しだ。原爆症認定集団訴訟を支援してきた田村和之・広島大名誉教授(行政法)は「原告側が科学的に証明できなくても、個別の事情に応じて認めるべきだ」と指摘する。
一方、「被爆者」と公的に認められない人たちもいる。被爆者健康手帳の交付には、原則2人以上の第三者による証明などが必要だが、歳月の経過で新規の申請は困難を増している。
佐賀県は昨年11月、原爆投下時に長崎市内に勤めていた男性に手帳を交付した。証人はいなかったが、原爆投下時の状況が先に手帳を取得した被爆者の証言と一致し、申請を認めた。
ただ、弾力的な運用は一部に限られる。毎日新聞が昨年実施したアンケートによると、13年度までの10年間に、手帳の交付申請が全国で少なくとも8766件あったが、半数近い4294件が却下されていた。その多くで証人の不在が壁になっていたとみられる。
広島県原爆被害者団体協議会(佐久間邦彦理事長)の被爆者相談所では、手帳取得に関する相談が後を絶たない。相談員を務める波田保子さん(79)は「行政による審査は厳しいが、被爆した事実を否定する材料がない限りは申請を認めてほしい」と訴える。【木村健二、加藤小夜、吉村周平】

◇被爆者団体、高齢化で岐路

被爆者団体は当事者として政府や国会に対し、援護の充実を求めてきたが、高齢化で活動継続の岐路に立っている。
「私は90歳。いつ死んでもおかしくない」。和歌山市で6月14日にあった県原爆被災者の会の総会で、楠本熊一会長が辞任を切り出した。5年前に胃がんを、今年は大腸がんを発症した。後任は見つからず、解散が決まった。1964年の発足当時、約600人だった会員は113人にまで減っていた。
被爆者の全国組織である日本被団協は56年に結成。活動の大きな財源である機関紙の購読者は、過去5年間で2割減少した。都道府県組織の解散は奈良(2006年)、滋賀(08年)に次いで和歌山が3例目となった。
被爆者健康手帳所持者の平均年齢が85・5歳と全国一高い秋田県。同県原爆被害者団体協議会は会員数27人で、64年から事務局を務める佐藤力美さん(77)は「被爆者の父の思いを受け継ぎ、1人になるまで頑張る」。愛知県原水爆被災者の会は平均年齢が77・67歳で全国一低いが、過去5年ほどは1年間で約100人の会員が亡くなっている。
日本被団協は今年6月の総会決議で「若手被爆者と2世の活躍なしには被爆者運動が維持できない」と確認した。総会では「被爆者でない人や2世でも、相談事業が担えるように養成してほしい」との声が上がったという。
九州では被爆者運動を受け継ごうと、各県の2世の会が合同で勉強会を重ねている。1月末に福岡市内であった会合には約30人が出席。体験のない自分たちが何を目的に活動するかを巡って意見を交わした。
福岡県被団協の事務局長で被爆2世の南嘉久さん(68)は「一番近くで被爆者の悲しみや苦しみを見てきたからこそ、自分たちが代わって発信する力を身につけていきたい」と話す。
【高橋咲子、阿部弘賢】




2015年8月4日火曜日

被爆を認められないヒバクシャたち 広島「黒い雨」被害者・長崎「被爆体験者」



被爆を認められないヒバクシャたち


広島「黒い雨」

長崎「被爆体験者」を知っていますか


2015年08月03日 全日本民医連新聞

こちらの記事から転載しています→ http://www.min-iren.gr.jp/?p=24281






原爆被爆者たちはこれまで、健康障害に苦しみながらも、平和と核兵器廃絶のために声をあげ続けてきました。
その中には、いまだ被爆者と認定されず、被爆者健康手帳を手にできない人たちがいます。
広島では原爆投下直後「黒い雨」にさらされたが、認定区域外にされた地域の人たちが集団訴訟に向け動いています。
また長崎でも「被爆体験者」と呼ばれ、健康被害が放射能によることが認められていない人たちの健康調査を民医連が行い、支援しています。



広島「黒い雨」認定区域拡大求め「ワシらも被爆した」


今年三月、七〇~八〇代の三六人が、広島市役所に被爆者健康手帳などの交付を申請しました。手帳は原爆被爆者の「証明」で、これを持っていれば医療費無料や健診などの国の支援が受けられます。原爆投下から七〇年も経って申請したのは、国の指定から外れた地域で「黒い雨」にあい、被爆を認めてもらえていない人たちです。

「黒い雨」とは、原爆が炸裂した時の塵や埃を含んだ雨です。熱線や爆風を免れた地域にも降り、放射能汚染を拡大しました。この雨にうたれて下痢や脱毛、出血傾向、急性白血病などの急性放射線障害を発症した人もいます。


申請者の一人、清水博さん(77)は爆心地から北に一七kmほどの亀山村(現・安佐北区可部町)の国民学校二年生でした。原爆投下時は始業直後の教室に居て、閃光とドンという衝撃をくらいました。一時間ほど裏山の横穴に避難してから帰宅を始めた時、山向こうの空から、真っ黒な雲がもくもくと迫り、黒い雨に降られました。


「その後も黒い雨が注いだ川の水を飲み、飯も炊いた。『キュウリを切ったら黒い汁が出た』と話した友人もいた」と、清水さん。二〇代から胃の疾患に悩まされ、五〇代でがんを発症、全摘しました。二歳上の姉も甲状腺疾患です。


「近くの山にはアメリカの気象観測の落下傘が三つ落ちた。落下傘が来たのは、あの日、広島市からの風がこちらに吹いていた証拠。当然、放射性物質も流れてきていた。わしらが病気ばかりしてきたのは原爆のせいじゃ。国はなぜ、被害者の話が聞けんのだろう」。


届かない支援策

地図直接被爆や入市被爆の人への被爆者健康手帳の交付は原爆投下から一二年後の一九五七年に始まりましたが、黒い雨の被害者についてはさらに一九年後の七六年になって「健康診断特例区域」を指定。区域内で黒い雨にあった人には無料健診の第一種健康診断受診者証を交付し、がんなどの特定疾患になれば被爆者手帳に切り替えるようにしました。しかし区域は大雨だった範囲に限られました。

区域拡大を求め「黒い雨の会」が各地でできたのはこの時期です。現在運動する「黒い雨」原爆被爆者の会へとつながっていきます。


会などの運動で、広島県・市が二〇一〇年、三万六〇〇〇人を対象に大規模調査を実施。実際の降雨は当時発表された以上に広く、「未指定地域の住民は被爆者に匹敵する健康不良状態」という結果に。これに基づき、県と三市五町の首長が連名で、援護対象区域を六倍に拡大(地図)するよう国に求めましたが、厚生労働省の検討会は「降雨地域の特定は困難」と否定(一二年)。未指定地域にいた人に保健師などが話を聞くだけの相談事業を、一三年から始めた程度の対応しかしていません。


川で遊んでいた子どもたち

さらに爆心地から離れた地域でも、証言があります。

北北西に約二八kmの加計町穴阿(あなあ)地区(現・安芸太田町)にいた石井隆志さん(78)と斉藤義純さん(82)は、川で遊泳中、黒い雨にあいました。

「河原に脱いであった白いシャツがドロドロに汚れていた。黒い筋だらけになったお互いの顔を見て『なんじゃぁ?』と笑うた」。


降ったのは雨だけではありませんでした。上空がかすみ、たくさんの紙くずが落ちてきました。子どもたちは、好奇心で紙を追いかけました。この地域でもドンという音は聞こえましたが、それがどれほど危険な爆弾で、広島市内で何が起きていたか、知るよしもありませんでした。「爆風で舞い上がった物が、放射能と一緒に落ちてきていたんじゃな…」二人はうなずきあいました。


一緒に遊んでいたのは六人ですが、四人はがんや白血病などで早逝。原爆症だと主治医に言明された人もいましたが、指定地域でないため、何もできませんでした。残る二人も若い頃から体調不良に悩んできました。


「こんな私らに『原爆の被害がなかった』と言い渡すのは人間のすることだろうか」と石井さん。斉藤さんとともに、黒い雨地域拡大を求める訴訟に参加すると決めています。「国には筋を通せと言いたい」。


訴訟へ

降雨の指定区域が拡大されなくても、泣き寝入りはできませんでした。

五地域約四八〇人の会員を束ねる「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会が訴訟に踏み切ると決めたのが去年。三月に行った手帳と健診受診者証の申請が却下されれば、集団提訴するつもりです。

「原告は二〇人程度集まればいいと思っていたのですが、七〇人が手をあげました」と、同協議会の牧野一見事務局長。牧野さんは広島中央保健生協の組合員でもあります。住んでいた町が、川を隔てて指定区域と未指定区域に分断されて以来、この運動に関わっています。


「申請した本人に被爆の証明を求め、できなければ救わないという国のやり方は正しくない。健康への影響という一番の証拠があるではないですか」。

降雨地域の罹患率の高さや、黒い雨の健康影響を科学的に示したデータも研究者から出されています。地元の大学生の協力も。


「年内に裁判になると思います。長崎の『被爆体験者』とも連携し原爆症の訴訟に関わる民医連医師の支援ももらいながらたたかいます」。
(木下直子記者)





長崎「被爆体験者」精神的影響しか認められず


長崎原爆で指定されている「被爆地域」は、旧長崎市の行政区域に限定されています。

被爆者の援護救済制度は、被爆した地域や条件で何段階にも区分され、爆心から六・七~一二km以内の地域のうち、「被爆未指定地域」で被爆した人々は「被爆体験者」と呼ばれ、精神疾患とその合併症にしか医療費が給付されていません。被爆体験者に生じた健康被害は「精神的要因」とされているからです。

図そもそも、原爆症認定の実態から分かるように、国は原爆の放射線による健康影響を爆心に近い場所にしか認めていません。放射性降下物による低線量の内部被曝は考慮していないのです。しかし現実には遠距離でも多くの被爆体験者が、被爆直後に脱毛・下痢・鼻血などの急性症状を発し、その後も多くの疾病に罹患しています。


健康調査が被爆示す

長崎民医連では、被爆体験者の健康被害を非被爆者と比較する調査を行い、被爆体験者に生じた健康影響の実態を明らかにしました。

たとえば急性症状については、被爆体験者の
五六・五%が何らかの急性症状があったと回答、非被爆者と大きな開きがあります。一三種類の急性症状全てで、明らかに被爆体験者の方が多いと分かりました。その後も、被爆体験者は各疾病の罹患率が高く、六割を超す被爆体験者が、七種類以上の疾病を抱えていました()。

また、被爆体験者の証言からは、「黒い雨」の降雨、爆心方向から来た灰や燃えかすの降灰、原爆投下後の原子雲が、広範に広がっていたことも分かりました。このことは、被爆未指定地域が放射能環境にあったことを示しています。 健康被害の実態と合わせ、被爆体験者が放射性降下物によって被曝した証拠です。


原爆放射線の健康被害を過小に見ている国の姿勢は誤りです。さらに、被爆未指定地域も爆風・熱線の被害が多いことも分かりました。原爆被爆の継承をすすめる上でも、これらは忘れてはならない事実です。
(松延栄治、県連事務局)






全国被爆体験者協:控訴審で勝利を 長崎で総会 /長崎




全国被爆体験者協:控訴審で勝利を 長崎で総会 /長崎


毎日新聞 2015年08月02日 地方版

長崎原爆の被爆体験者でつくる全国被爆体験者協議会は7月31日、長崎市内で定期総会を開き、約150人が参加した。参加者は、長崎市と県、国に被爆者健康手帳の交付を求めた控訴審の勝訴に向け、団結して闘うことを誓った。
同団体は、2007年から被爆体験者395人が被爆者健康手帳の交付を求めて長崎地裁に提訴した原告団の母体。地裁では12年6月に敗訴し、福岡高裁で係争中の控訴審は11月に結審する見通しとなっている。提訴時の原告のうち、小川博文原告団長ら既に50人が死亡した。
上戸大典副会長は「これまでに50人が亡くなったのは大変残念だが、最後まで助け合って闘おう」とあいさつ。「被爆体験者訴訟を支援する会」の平野伸人相談役は「何としても高裁で勝訴し、国に被爆地域の拡大を迫りたい。最後まで心を一つにすれば、勝利への展望が開ける」と話した。
【樋口岳大】
〔長崎版〕

2015年8月1日土曜日

【原爆症認定の今】被爆70年、今なお訴訟 原告ら「最終解決を」 首相、この夏どう応える



広島、長崎への原爆投下から70年。放射線で病気になった被爆者を支援する原爆症認定制度は、見直しが重ねられ、救済対象を広げてきた。だが、認定を求める訴訟は今も各地で続き、訴えを認める司法判断も相次いでいる。高齢化が進み「最終解決」を願う被爆者の声に、安倍晋三首相はこの夏、どう応えるのか。(2015年7月23日  共同通信)




国基準、改定後もギャップ 残留放射線どう評価

原爆症認定を求める被爆者約90人の訴訟が東京など全国5地裁・3高裁で続く。集団訴訟が2003年に始まって後、国は制度を3度改定したが、昨年度に審査した2041件のうち、却下は689件。多くは遠距離・入市被爆や、がん以外の病気で、残留放射線の影響などを総合的に捉える被爆者側と、「科学的根拠」にこだわる国側との溝は埋まっていない。
被爆者援護法に基づき手当を支給する認定制度は
①病気の原因が放射線
②治療が必要
が要件で受給者は被爆者手帳を持つ人の5%に満たない。
厚生労働省は01年、放射線の影響で特定の病気になる確率を数値化した「原因確率」を導入。原爆が爆発した際に出た初期放射線による影響を判断の軸としてきたが、相次ぐ敗訴を受け、08年に「被爆実態に一層即したものとする」として、がんや白血病を積極認定する今の基準に改めた。
それまで被ばく線量をほぼゼロとし「影響が必ずしも明らかではない」としてきた人も対象となる転換だったが、実際の審査や法廷では、従来の推定方法による数値化された線量を重視。
一方、被爆者側は、脱毛や下痢といった被爆後の急性症状などから、残留放射線により相当量の被ばくをしたといえると主張し、対立している。
訴訟では、14年以降に限っても、大阪、熊本、広島の3地裁で国の判断を覆し、25人中17人を原爆症と認定する5判決が出た(一部係争中)。
うち、白内障の被爆者を原爆症と認めた5月の広島地裁判決は「(国は)線量を過小評価している疑いがある」と指摘。爆心地からの距離は国の基準を満たしていなかったが、放射性降下物を含む「黒い雨」による被ばくや放射線への感受性が高い生後間もなくの被爆だったことを考慮した。
訴訟が絶えない中、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は、距離や入市時間による制限を設けず、病名や治療内容で手当を加算する制度への改革を求めるが、見直しの動きはない。
被団協は「被爆70年に当たり、認定問題の最終的な解決を期す」と表明している。14年度末で全国の被爆者の平均年齢は初めて80歳を上回った。原爆の日に被爆者と面会する安倍晋三首相の発言が注目される。

「二度とこんな地獄は」 東京訴訟の女性原告」

真っ暗な荒野に死体の臭いが立ちこめ、爆心地の焼けた土から「青い火の玉」が立ち上がっていた。13歳の女学生は父の背中をしっかりとつかみ、地獄を見ないように下を向いて歩いた。
1945年8月9日、長崎。自宅近くで防空 壕 (ごう) を掘る手伝いをしていて、被爆した東京都杉並区の 立野季子 (たての・すえこ) さん(83)にとって、決して忘れられない記憶だ。「二度とこんな経験をする人が出ませんように」。小中学校で証言を続けるが、話した後には必ず夢に見て、声を上げて目を覚ます。
疎開先で、泡をたくさん寄せたようなイボが指先にできた。「鬼娘」「病気がうつる」といじめられ、「これで死ぬのか」と覚悟した。1年後、体が痛いと訴え、ずっと寝て過ごしていた母が亡くなり、自身も原因不明の腹痛に悩まされた。
一番つらかったのは、長女が20代の頃に付き合っていた相手の親から「両親が被爆した人を家には受け入れられない」と結婚を断られたこと。
「畳に額を擦り付けて、ごめんなさい、ごめんなさいと言いました。それしか言葉がなかった。健康なのに悲しくて悔しくて、涙を流した」
心筋梗塞を患ったのは6年前。大腸腫瘍などそれまでに経験したさまざまな病気と同じく「原爆のせいかな」との思いが頭をよぎった。
国の審査基準では爆心地から約2キロ以内の被爆なら、心筋梗塞は原爆症の積極認定の対象だが、立野さんの場合は約3キロ。申請を却下され、「同じように苦しむ人の役に立てば」と、認定を求める集団訴訟に参加した。
訴訟では、残留放射線や内部被ばくで相当量の被ばくをしたと主張したが、国は「極めて低線量の被ばくで、影響はない」と反論した。
法廷で国側の代理人から問い詰められ、家族の病歴まで公開される訴訟は苦痛だった。「被爆から70年もたって、まだこんな思いをしなくてはいけないのか」。 訴訟は東京地裁で続いている。

原爆症認定制度

原爆症認定制度 原爆による放射線で病気になり、治療が必要だと国が認めた被爆者に月額約13万 8千円 の医療特別手当を支給する。認定をめぐる訴訟で敗訴が相次ぎ、国は2008年に爆心地から約3・5キロ以内での被爆といった一定の条件で、がんや白血病など特定の病気を積極的に認める審査基準を導入。13年末にも対象となる病気を増やし基準を見直した。

2015年7月31日金曜日

きのこ雲の下で:「原爆小頭症」半世紀

きのこ雲の下で:「原爆小頭症」半世紀/上 

「息子守る」母の執念 国の認定勝ち取る


毎日新聞 2015年06月25日 大阪朝刊

70年前に米軍が広島、長崎に投下した原子爆弾の放射線は母体にいた胎児をも貫き、それが原因で知的障害などを生じる「原爆小頭症」を発症させた。患者の存在が広く明らかになったのは、日本が高度成長期を迎えていた1965年。患者と支援者でつくる「きのこ会」は今月27日、結成から50年を迎える。生まれる前に命を傷つけられ、懸命に生きてきた「きのこ雲の下の胎児」たちと、支える人たちの半世紀を追った。
70歳を前に白髪が増え、しわが額に目立つようになった。知的障害に加えて、不整脈や糖尿病などの持病。視力も衰え、よくつまずく。しかし、小さい体と頭、あどけない表情が、不釣り合いな幼さを醸し出す。
広島市南部の古びたアパート。1人暮らしの男性(69)は原爆小頭症で、長年一緒だった母は12年前に逝った。4日に1度、様子を見に来る弟に生活を支えてもらっている。弟は「きのこ会」会長の長岡義夫さん(66)。おかずを届け、洗濯や掃除をする。
兄弟の母、長岡千鶴野さんは2003年に79歳で亡くなるまで、きのこ会の第2代会長を30年間務めた。障害を原爆の影響と国に認めさせ、子どもたちを支える活動に奔走した。母の没後、空白だった会長を義夫さんが09年に引き継いだ。振り返って言う。「母は、兄を守らなければという一心だったんです」
千鶴野さんの手記によると、被爆したのは爆心地から約900メートル。46年2月に兄が生まれた。「頭は小さなコーヒーカップと同じくらい」。医師は「頭囲が小さく厚くて脳の容積が少ない。能力が最高に発揮されても小3程度」と告げた。
兄が小学生の頃、米原爆傷害調査委員会(ABCC)から原因は「母体の栄養失調」と説明されたが、ABCCの職員が「成績表を見たい」と頼みにきた。障害と被爆の関係を探っていたのだ。千鶴野さんは「栄養失調を訂正してからにしてちょうだい。親子で野垂れ死にしても、世話にはなりたくありません」と追い返した。
ABCCは遅くとも50年代半ばには、被爆地で小頭症児が生まれた事実を把握していた。60年代に入り広島大医学部も確認したが、社会に伝わることはなかった。隠された存在を知った元中国放送記者の故秋信利彦さんが、本にしようと訪ねてきた。千鶴野さんは覚悟を問うた。「あんたらは本に書いたら終わりでも、私らは世間の目にさらされて生きねばならん。一生、責任をもって付き合ってくれるんか」
この出会いを機に秋信さんが尽力し、65年6月、きのこ会が結成された。子どもたちは20歳になろうとしていた。
子どもと寄り添って生きてきた親に存命の人は既にいない。義夫さんは母の死後、兄を近くに呼び寄せたが、すぐに母との思い出が詰まったアパートに戻ってしまった。
小頭症患者は来年には70歳を迎える。きのこ会は国に援護の充実を求め続けている。義夫さんは「兄たちには穏やかな老後を送ってほしい」と言う。そのためには社会の理解が欠かせない。
いつものように、生活費として1000円札5枚と小銭を補充した弟を横目に、兄はつぶやいた。「兄弟が逆やったらよかったのう」。目に悲しみの色が宿っていた。



きのこ雲の下で:「原爆小頭症」半世紀/中

被爆者にも階層 患者発掘し光当てる 


「やっぱりそうですか。この子の障害は原爆に関係あると思うとったんじゃ」


後に原爆小頭症と判明する小菅信子さん(2013年死去)の隣で、父親の栄三さん(1992年死去)は、ため息をついた。65年、広島県廿日市市の作家、文沢隆一(87)が瀬戸内海の小さな島を訪ねた時のことだ。元中国放送記者の故秋信利彦さんと共に、文沢さんは小頭症患者の発掘に努めていた。
秋信さんは、米原爆傷害調査委員会(ABCC)と広島大の産婦人科医が相次いで調査し、作成した匿名の小頭症患者のリストを入手した。広島県内の障害者施設や中学校の特殊学級(当時)を回り、生年月日や頭囲が一致する子供を探した。
文沢さんは栄三さんに「ぜひ放射能被害を明らかにしましょう」と訴えた。栄三さんは「やりましょう」と即答した。信子さんは知的障害があるだけでなく、生まれつき右足の指がなかった。妻は島を出て行き、栄三さんは一人で娘を育てていた。原爆の罪を告発したい気持ちが強くなっていた。
文沢さんは「ノブちゃんは人なつっこくて、私を父親のように慕ってくれたんだ」と目を細める。この出会いで、文沢さんは、活動に一層の力を注ぐようになった。
65年6月、見つかった6人の患者が親と一緒に集い、広島市内で初会合を開いた。支援者と共に「きのこ会」を作ることで一致した。原爆症認定が一番の目標となったが、厚生省(当時)は「障害は対象外」と退けた。陳情の場で、1人の母親が怒りの声をあげた。「この子らは被爆者健康手帳を持っとるんです。何のための手帳ですか」
粘り強い運動が実り、厚生省に研究班ができて調査を始めた。67年、「近距離早期胎内被爆症候群」の病名で認定を獲得した。
当時、中国新聞記者だった元広島市長の平岡敬さん(87)は、初会合にも参加した。「経済成長の裏側で、被爆者の間に階層化が生じていた時期だった。秋信さんらは、社会の底辺に落ち込んだ人々に光を当てようとしていた」と述懐する。きのこ会初代表事務局長を務めた文沢さんは語る。「生まれる前の人間、そしてその未来にまで影響する放射線の恐ろしさを原爆小頭症は示していた。彼らを支えなければと思った」


きのこ雲の下で:「原爆小頭症」半世紀/下 

患者、迫る高齢化 不十分な支援体制


台所のカレンダーは、昨年3月のままだ。広島市内で1人暮らしをしている原爆小頭症患者の川下(かわしも)ヒロエさん(69)は、新しいものに取り換えられない。知的障害のあるヒロエさんを一人で育てた母親の兼子さんは昨年3月、92歳で亡くなった。「忘れちゃいけんと思うてね」。ヒロエさんが、かみしめるように言った。
妊娠2カ月だった兼子さんは広島の爆心地から約1キロで被爆し、夫は4日後に亡くなった。出生時、ヒロエさんの体重は500グラムほどしかなかったという。病弱で小学校卒業は15歳だった。兼子さんは日雇いの土木作業に出て生計を立てた。
60歳を過ぎて体力が衰え、娘の将来を案じた兼子さんは初めて被爆者支援制度を調べる。きのこ会の存在を知るとすぐに、長く暮らした北九州市から広島市に移り住んだ。ヒロエさんが原爆小頭症と認定されたのは、他の患者より22年も遅い1989年だった。43歳になっていた。
きのこ会の親の高齢化が進んでいた95年、支援者で医療ソーシャルワーカーの村上須賀子さん(70)=広島県廿日市市=は県内在住の会員家族の生活実態を調査した。どの親も「自分が死んだ後はどうなるのか。この子より一日でも長く生きたい」と願っていたが、何の手だてもされていなかった。村上さんは「患者と家族を取り巻く福祉関係者の連携がなく、一人一人を支える体制ができていない。国は小頭症手当など金銭を給付するだけで、十分な援助になっていない」と感じた。
きのこ会は厚生労働省に対し、小頭症患者の生活支援を考える担当者の設置を求めた。2011年、広島市に1人が配置された。しかし、村上さんはそれでは不十分と考える。「患者の高齢化もあり、1人暮らしの場合は、特に医療や福祉の知識を備えて生活の細かな相談に乗れる体制が必要だ」と訴える。
ヒロエさんは簡単な料理などの家事はできるが、役所の手続きは担当者の説明だけでは理解できない。支援者の付き添いが欠かせない。先日は地下街で迷っても地図を見ることもできず、支援者に電話で助けを求めた。
今は検査で通院する程度で、平穏に暮らしている。飼っている手乗り文鳥の説明をする表情は清らかで、懸命な話し方もあって少女のようにさえ見える。兼子さんの勧めでヒロエさんは2年前、詩を書き始めた。ノートは10冊ほどになっていた。最近の一編には、こうつづられている。
「私のいのちは20才までいきられないと 病院の先生からきいた いまだに病院がよい 私は69才 いまだにいきている 神様にいかされている」
【田中博子】


2015年7月14日火曜日

〔被爆体験者訴訟〕:国側証人尋問で原告立証を否定



被爆体験者訴訟:国側証人尋問で原告立証を否定




長崎NCC、テレビニュース
2015年6月23日放送



国に被爆地域の拡大を求める被爆体験者訴訟(第2陣、長崎地裁)は22日、原告側の立証を真っ向から否定する国側の証人尋問が行われました。





この裁判は長崎原爆の縦長の被爆地域の半径12km圏内の被爆地域外に住む「被爆体験者」555人が国などを相手取り被爆者と同じ援護を求めているものです。



3年前(2012年6月)、1陣が長崎地裁で敗訴し福岡高裁で控訴審が続いています。




長崎地裁で開かれた第2陣の証人尋問は国側の主張を立証する鈴木 元教授が証言台に立ちました。




これに先立ち原告側も4月、原爆投下の2ヵ月後にアメリカのマンハッタン調査団が測定した県内全域の残留放射線の値を解析し、その影響を肯定する本田孝也医師の証人尋問を行っています。




22日の尋問で鈴木 元教授は「本田医師が用いたセシウム汚染密度の計算式は不適切で健康被害を過大評価している」などと答え、国側は原告側の立証の切り崩しを図りました。




また原告の多くが「原爆投下のあと脱毛があった」と答えた聞き取り調査についても記憶違いや「脱毛があった」と報告したい心理が働いた可能性もあり信憑性に欠けると指摘しました。



これについて原告側は「原爆被害と向き合わず被爆地域拡大を否定するための論理をつくっている」と憤っています。



2陣の原告、160人のうち7人が亡くなっていて原告側は訴訟の早期解決を望んでいます。



本田医師と鈴木教授の証人尋問の内容は(第1陣、福岡)控訴審にも採用されます。