記者の目:
原爆小頭症患者の被爆69年
=田中博子(大阪学芸部)
毎日新聞 2014年07月23日 東京朝刊
◇社会は見捨てるのか
母親の胎内で原爆の放射線を浴び、脳や身体に障害を負って生まれた原爆小頭症患者とその家族が集う「きのこ会」。会員の中で、患者の親ではただ一人健在だった川下兼子さん(享年92)が今春、亡くなった。被爆と障害という二重の差別から我が子をかばい生きてきた親がいなくなったことは、戦後70年を来年に控え、被爆者が歩んできた過酷な年月の積み重なりを象徴する出来事のように感じる。
5月24日、広島市であった同会の総会で、涙をぬぐう兼子さんの長女ヒロエさん(68)は、迷子になった幼子のように見えた。身長は140センチほどで、表情はあどけない。いつも寄り添うようにしていた兼子さんは今年に入って体調を崩し、3月9日に亡くなった。
原爆小頭症患者は、妊娠初期の母親の胎内で近距離被爆したことにより、頭が小さく、知的障害などの複合的な障害を負って生まれた人々。全国で20人(3月末現在)が患者に認定され、うち17人がきのこ会に入っている。
◇43歳でようやく被爆の影響認定
2006年夏、私は兼子さんの被爆体験を聞いた。爆心から約1キロ、広瀬北町(現広島市中区)の自宅で被爆した時、妊娠2カ月だったという。屋外にいた夫は4日後に亡くなった。
翌年3月に生まれたヒロエさんは体重が500グラムしかなかった。兼子さんは「長くは生きられんだろう」と思ったという。ヒロエさんは体が小さかったために1年遅れで小学校に入学し、病弱で入退院を繰り返した。中学を卒業したのは20歳だった。兼子さんは土木作業などをして母子二人の暮らしを支えた。
年をとって兼子さんが働けなくなり、それまで暮らしていた北九州市から被爆者支援に手厚い広島市に戻る。ヒロエさんは43歳の時に原爆小頭症に認定され、障害が被爆の影響であることがようやく認められた。
「私たちは一度も離れて暮らしたことがありません。この子が一人になった時のことを思うと本当に不安で……」。兼子さんの口調が切実なものに変わったのは、将来の話になった時だった。
ここ数年はヒロエさんに家事を覚えさせ、市の相談員にお金の管理を相談するなどしていたという。ヒロエさんは今、同会の支援者に支えられながら一人で暮らしている。
◇行き届かない生活のケア
患者が自立して生活するのは難しい。原爆小頭症手当など経済的な援護は整っているが、自分で生活費を管理できない人が多い。きのこ会の要望で国は11年、原爆小頭症患者専任の相談員を広島市に1人配置したが、生活ケアは行き届かず、市外の患者は取り残されたままだ。
昨春亡くなった患者の小草信子さん(享年67)は1992年に父(同89)を亡くして以降、孤独な生活を送っていた。知的障害があり、右足の指は生まれつきなかった。母は幼いころ、姉2人を連れて家を出たきりだった。
信子さんは50代半ばから肝臓障害のため、愛媛県の病院に入院していた。05年に信子さんの病院を訪れたことがある。当時、体調は落ち着いていたが、信子さんが自宅に戻って一人になるのを嫌がり、病院側の好意で入院を続けていることを聞いた。
私が訪ねた時、信子さんは近所に大衆演劇を見に出かけていた。唯一の楽しみだった。劇場に行くと、一番前で舞台にかぶりつくような姿が目に入った。家に戻るつもりはないのかと聞くと、信子さんは「帰っても寂しいだけだもん」と少し笑って答えた。ストレスを感じると手首をかむくせがあるといい、手首の肌は赤くひきつったようになっていた。全身で原爆の理不尽を訴えているように感じた。
昨年3月に信子さんが肝不全で亡くなった時、葬儀に参列したのはきのこ会の長岡義夫会長(65)ら5人だけだったという。
小頭症の兄がいる長岡会長は「67年の人生の最後を見送るのがたった5人とは、いったい何なのか」と悔しさを押し殺すように言った。親が亡くなり、近くに頼れる人がいなければ、世間から見捨てられたも同然だ。小頭症患者の現実を突きつけられたようで、私は胸が苦しくなった。
患者自身も年をとり、取り巻く状況は厳しくなる一方なのに、社会からは見向きもされないまま時間ばかりが過ぎていくことに焦りを覚える。原爆の悲劇を象徴する患者たちにもっと関心を持ち、安心して暮らせる環境づくりを急がなければならない。