長崎原爆
「被爆指定地域、適切でない」 研究会、長崎市意向で削除
専門家の資料案
毎日新聞 2015年04月03日 西部朝刊
長崎原爆の放射性降下物の影響などを検討するため長崎市が設置した「原爆放射線影響研究会」で、専門家の配布資料を市が事前にチェックし、国が指定した被爆地域(被爆者援護区域)の設定を「適切でない」と記述した専門家の見解部分が、市の意向で削除されていたことが分かった。会合を傍聴した被爆体験者たちは「なぜ、区域拡大のために最も重要な部分が削除されたのか」と批判している。
長崎の被爆地域は、被爆当時の行政区域などを基に国が指定しており、爆心地から南北に各約12キロ、東西に各約7キロと細長い形をしている。東西の約7〜12キロにいた人は「被爆体験者」とされ、被爆者と比べ医療支援などが限定されている。被爆体験者たちは区域を半径12キロに拡大するよう要望。市は「国への要望に必要な科学的根拠を探すため」として、2013年12月に研究会を設置した。
問題の資料は3月31日の第4回会合での講演で配布するため、放射線物理学が専門の静間清・広島大大学院特任教授が作成した。市などによると、3月下旬に静間氏が長崎市に送った文案には、結論の部分に「被爆指定地域を(爆心地から)6・7キロとすることは適切でない」「拡大是正要望地域は16キロまでとすることが適切である」と記されていた。
その後、市がその部分を削除した文案を提案し、静間氏も了承したという。会合では削除部分も口頭で説明した。静間氏は取材に「市から『適切でない、という表現はちょっとどうか』と言われ、私としてもデータから言えることだけでいいと思った。不満はない」としている。野瀬弘志・市原爆被爆対策部長は「多くの傍聴者がおり、資料を分かりやすくするためにやっただけで、何かを隠そうとかいう意図は全くない」と説明した。
しかし、市などに被爆者健康手帳の交付などを求めた被爆体験者訴訟第1陣原告団の岩永千代子事務局長(79)は「失望しかない。削除には意図的なものを感じる」と批判している。
【樋口岳大】
刻む・戦後70年:/2
「体験者」という差別 /長崎
毎日新聞 2015年02月15日 地方版
長崎市茂木町の峯誠孝(まさたか)さん(82)は、長崎原爆に遭ってから69年後の昨年8月に肺がんと診断された。両肺にがんがあり、息苦しい。だが、原爆投下時にいた爆心の南東約8・5キロの旧茂木町は国が指定する被爆地域の外のため、被爆者ではなく「被爆体験者」と扱われている。被爆者なら国が負担するはずのがんの治療費も援護の対象外だ。峯さんは「差別をやめてほしい」と声を振り絞った。
昨年1月、X線検査で胸に異常が見つかった。同8月、両肺にたまった水を抜くと約1リットルもあった。詳しい検査で肺がんと診断された。呼吸は徐々に苦しさを増し、外出できなくなった。医師からは「片方の肺なら手術できたかもしれないが、両肺は無理だ」と告げられ、抗がん剤治療を受けた。
13歳だった1945年8月9日午前、朝から出た空襲警報が解除されたため、防空壕(ごう)から自宅に戻った。家族で昼食を取っていた午前11時2分、ピカッという閃光(せんこう)に驚いて外に出ると、近所の家のガラスが割れていた。「近くの学校に爆弾が落ちた」と思った。しばらくすると、長崎市内の方角に黒い雲がもくもくと上がった。空からは灰や紙切れが降って来た。灰にまみれた野菜を食べ、灰が浮いた井戸からくんだ水を飲んだ。
近くの料亭が救護所になり、爆心方面から運ばれてきた多くの負傷者が収容された。母は救護所の食事の世話に行った。海岸では、救護所で亡くなった人が焼かれていた。母は戦後、がんになり、86歳で亡くなった。父はビルマで戦死。峯さんは戦後、トラックの助手や運転手として働いた。被爆して倒壊した工場などのがれきを片付けに行ったこともあった。
国は1957年に被爆者援護を始めたが、旧茂木町は国による援護の線引きの外になった。国は2002年から峯さんら被爆地域の外で原爆に遭った人を「被爆体験者」と名付け、医療費助成を始めたが、助成は精神疾患などに限定され、がんは対象外だ。妻千鶴枝さん(78)は夫の医療費や交通費の明細を見ながら「ふとかとですよ」と嘆く。
「同じ原爆に遭(お)うとるのにおかしい」。峯さんは被爆者としての援護を求めた集団訴訟に加わり、集会や法廷には欠かさず足を運んでいた。83歳の誕生日でもある16日には、福岡高裁で控訴審の口頭弁論があるが、体がつらくて、もう行くことができない。その日は、放射線治療を始めるため長崎市内の病院に入院する。
峯さんと同じ第1陣訴訟の原告395人のうち、既に47人がこの世を去った。
【樋口岳大】
〔長崎版〕