2017年2月13日月曜日

原爆基本懇の議事録開示 「援護法」 回避へ誘導



2010年8月1日 東京新聞 

大平内閣から鈴木善幸内閣にかけて国が被爆者に補償する被爆者援護法制定の可否を検討した厚相(当時)の諮問機関「原爆被爆者対策基本問題懇談会」(基本懇)の非公開の議事録が厚生労働省内で見つかった。

民間委員の議論に官僚が介入。財政難などを理由に当初から法律制定に難色を示していたことが浮かび上がった。
基本懇の結論を受け援護法成立は自社さ連立政権下の一九九四年まで見送られた。 

見つかったのは全十四回の会合のうち第十一、十四回会合を除く、十二回分の議事録や資料など八百二十九ページ。

厚労省は当初、本紙の取材に「議事録は残っていない」と回答したが、情報公開請求で、昨年十二月に開示され、本紙で補足取材などを進めていた。
政治家と公務員以外の人名は黒塗りになっていた。 

基本懇は橋本龍太郎元首相が厚相だった一九七九年六月、茅誠司・元東大学長を座長に発足。行政や医学の専門家ら六人が委員を務めた。 

議事録によると、第一回会合で委員の一人が「スモン訴訟や水害訴訟で国家賠償の要求が拡張されている。歯止めをかけないと国家財政が破綻(はたん)する」と発言。

別の委員も「被爆者は三十七万人もおられ、ぴんぴんして何でもない人も多いんでしょう」などと述べていた。 

厚生省も援護法の制定に反対の立場から、会合で積極的に発言。恩給法など国家補償がある軍人・軍属との格差に批判が出ていたため、基本懇の事務方を務めた当時の厚生省公衆衛生局企画課長(76)は第十二回会合で「同一に論ずるわけにはいかないことだけは(答申で)コメントしていただきたい」と発言。

委員が作成した意見書の草案に修正を加えたと説明した。 

また、被爆者援護法という名称について、当時の公衆衛生局長(86)は第十回会合で「事務当局としては、いかなる場面でも援護法という名前は受け入れられない」と強く注文を付けていた。 

野党や被爆者団体は、日本政府が戦争を遂行した責任を認めた上で、被爆死した人への弔慰金や遺族年金の創設を求めていたが、基本懇は八〇年十二月、国の完全な賠償責任は認めず、弔慰金や遺族年金の創設を否定する意見書を園田直厚相(当時)に提出した。 

☆ 

三十年ぶりに明るみに出た原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)の議事録。民間の戦争被害者に我慢を強いる「受忍論」が初めて行政の方針として示されたが、民間委員の間では賛否をめぐり論戦が交わされた様子はない。

被爆者が期待をかけた各界の権威からも補償拡大に消極的な発言が相次いでいた。 

「原爆放射能による健康上の被害は、国民が等しく受忍しなければならない戦争による『一般の犠牲』を超えた『特別の犠牲』…」 

一九八〇年七月、厚生省の会議室で開かれた第十回会合。事務局が朗読する「たたき台」の中で「受忍論」は姿を現した。 

一見、被爆者を救済する表現だが、東京大空襲など「一般の犠牲」の受忍を強要。

それとのバランスを盾に、被爆者の救済も生存者の放射線障害に限定した。
しかし、委員は誰も反応しなかった。 

しばらくして「こういうのもあります」と事務局は別の資料を出した。

基本懇設置のきっかけになった韓国人被爆者の最高裁判決(七八年)に対抗するように、カナダで財産を接収された引き揚げ者が起こした訴訟の最高裁判決(六八年)を読んだ。
「戦争犠牲または戦争災害として国民が等しく受忍しなければならなかった…」 

当時は知られていなかった同判決を基本懇に持ち込んだのは、元最高裁判事の田中二郎委員とする見方が強い。

しかし、賛否を問わず、受忍論に触れる委員はいなかった。 

意見聴取では、母親の胎内で被爆した原爆小頭症の女性の人生を語った被爆者が帰った後、「センチメンタルなものを長々と読み、時間を浪費した」と酷評。

半面、橋本龍太郎厚相(当時)を招いて議論の方向性を確かめるなど、政府への配慮は手厚かった。 

意見書がまとまった後の第十三回会合で、ある委員は「被爆者対策の改善と言いながら内容は何もない。これでいいのか」とつぶやいた。

「相当の反発を予想しなくては」と気にする声も出たが、結論が変わることはなかった。

 

◆憤る被爆者ら 『官僚筋道』『言いなり』

 
「ひどい」「政府の言いなりだ」。基本懇の内幕に、被爆者は憤りを隠さない。 

長崎で被爆し、基本懇当時に日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の事務局次長だった吉田一人さん(78)はあきれる。

被爆体験を「センチメンタル」と評された部分を「あれだけの被害を受け、感情的になるのは当たり前。被害の実態や本質を受け止める姿勢がない」と批判する。 

被団協の田中熙巳事務局長(78)も「官僚が筋道を作る審議会政治は変わっていなかった」。

被団協は今年六月の総会で国家補償を求める運動強化を再確認し、改正案作りに向け学習会を始めている。 

原爆症認定集団訴訟の山本英典原告団長(77)は「委員には日本の良心を代表する人もいたが、他の戦争被害者にも広がると脅され、厚生省と一体になっていたことが裏付けられた。

国の方針を『すべて受忍せよ』から『すべて補償せよ』に変えたい」。

担当する内藤雅義弁護士は「専門家に任せたと言いながら行政が作った典型例。文書公開の意味は大きい」と話す。 

一方、焼夷(しょうい)弾による空襲被害者にも波紋は広がる。


東京大空襲訴訟の星野弘原告団長(79)は「受忍論の議論は委員に心の準備がないまま、事務局により進められたのでは。
正当と言えるのか、あらためて議論すべきだ」と話している。

 

<基本懇の意見書>


 原爆被害には放射線障害という特殊性があり「広い意味で国家補償の見地に立つべきだ」としつつも、国の完全な賠償責任は認めず、被爆者が求めた国家補償に基づく被爆者援護法の制定を事実上退けた。

近距離被爆者の手当や原爆放射線の研究体制、被爆者の相談事業の充実を挙げるにとどまり、被爆者は激しく反発した。

1994年の自社さ連立政権下で成立した現行の援護法も基本懇の意見書を踏襲。
「国家補償」は盛り込まれず、救済は生存者の放射線被害に限定、死没者補償は含まれなかった。






被爆者補償阻止、旧厚生省が議論誘導 30年前議事録

朝日新聞 2010年10月25日

被爆者援護のあり方を検討するため、1979~80年に非公開で開かれた厚相(当時)の諮問機関「原爆被爆者対策基本問題懇談会」(基本懇)で、民間の戦争被害者全体に国家補償が拡大しないよう、厚生省側が議論を導いていたことが、議事録や関係者の証言からわかった。
基本懇の報告書は被爆者への国家補償に歯止めをかける内容となり、この報告書をもとにできた現行の被爆者援護法に国家補償は明記されなかった。

基本懇の会合は計14回。厚生労働省によると、長年、議事録は保存されていないとしてきたが、昨年末、報道機関からの情報公開請求を機に同省の倉庫を探したところ、見つかった。朝日新聞が8月に入手。計829ページで、第11、14回分は欠落していた。
議事録によると、80年7月の第10回会合で、厚生省側が「報告書に盛り込む事項」を提出。その中に、戦争の被害は「国民が等しく受忍しなければならない」という「戦争被害受忍論」の一文が初めて記入されていた。
さらに、基本懇が意見集約に向かっていた80年11月の第12回会合で、国家補償として実施している旧軍人・軍属への援護策と、被爆者への援護策の間に、金額や対象者の範囲で大きな格差が生じているとの指摘が出ていたことを踏まえ、当時の厚生省公衆衛生局企画課長が「同一に論ずるわけにはいかないということだけは(報告書で)コメントしておいていただきたい」と発言。「補償が独り歩きしないようにいろいろ歯止めをしていただきたい」と求めた。
この発言をした、当時の企画課長・木戸脩(おさむ)氏(76)は朝日新聞の取材に、「財政がもたないと判断した」と述べた。
基本懇の委員からは、国家補償の拡大に歯止めをかけることにほとんど異論は出ず、「(被爆者は)ぴんぴんして何でもない人もずいぶん多いんでしょう」「我々は歯止めのために集まっているというふうに解釈してもいいのではないか」との発言があった。
基本懇が80年12月に園田直厚相(当時)に提出した報告書は、厚生省側の「要望」に沿った内容となった。原爆被爆を救済の必要がある「特別の犠牲」、それ以外の戦争被害は、受忍しなければならない「一般の犠牲」として線引きしつつ、被爆者援護については「国の完全な賠償責任を認める趣旨ではない」とし、対象を生存被爆者の放射線による健康被害に限定した。
94年、この報告書を土台に、原爆医療法と原爆特別措置法の「原爆二法」を一本化して制定された被爆者援護法でも、援護を国家補償に基づいて実施することは明記されなかった。(武田肇)
◇
〈原爆被爆者対策基本問題懇談会〉
 1978年、韓国人被爆者の被爆者健康手帳交付を巡る訴訟の最高裁判決で「原爆医療法には、国家補償的配慮が根底にある」と判断されたことをきっかけに、被爆者対策の理念を明確にするために設置された。
委員(全員故人)は、
▽茅誠司・東京大名誉教授(座長)
▽大河内一男・東京大名誉教授
▽緒方彰・NHK解説委員室顧問
▽久保田きぬ子・東北学院大教授
▽田中二郎・元最高裁判事
▽西村熊雄・元フランス大使
▽御園生圭輔・原子力安全委員会委員
の7人。

2017年1月19日木曜日

黒い雨、救われず70年 自宅近くで線引き、援護外に


2015年11月4日 朝日新聞


原爆ドームから北西へ約20キロ。広島市佐伯区湯来町麦谷(旧・広島県水内〈みのち〉村)の本毛(ほんけ)稔さん(75)は、水内川にかかる橋の上で言った。「この川が私たちの運命を分けた境界線です」



1945年8月6日朝、5歳だった本毛さんは麦を俵に入れる作業を自宅前で手伝っていた。突然「ピカーッ」とまぶしい光が広がり、「ドーン」と爆音が響いた。直後に広島市中心部がある山の向こう側から灰色の雲がもくもくと立ち上がり、空が暗くなった。間もなく雨が降り出し、そばにいた三つ年下の弟のシャツに黒い染みができた。

弟は日に日に体調が悪くなり、翌月に肝硬変で亡くなった。一緒に麦を俵に入れる作業をしていた母は戦後に白内障と緑内障を患って失明し、85歳だった2004年に胆囊(たんのう)がんで死亡。本毛さんはなかなか止まらない鼻血に20代まで悩まされ、母と同じ白内障の手術も3回受けた。

原爆投下から31年後の1976年、国は黒い雨が多く降ったとみられる地域を「大雨地域」として援護対象区域に指定。雨を浴びた人は公費で健康診断が受けられ、がんや肝硬変などにかかれば被爆者健康手帳を受け取れるようにした。一方で、「小雨地域」は援護対象から外された。

本毛さんが暮らしていた水内村では、村を流れる水内川が大雨地域と小雨地域の境界線となった。本毛さんの自宅は川のすぐ近く。目の前の対岸は大雨地域だったが、本毛さんが住む所は小雨地域とされた。

ログイン前の続き「川を挟んだだけで、雨の降り方が大きく変わるとは思えない」。そう考えた本毛さんは、援護区域の拡大を求める「広島県『黒い雨』原爆被害者の会連絡協議会」に入会。数年前からは70年前に目撃した「きのこ雲」の方角などを記した図を作り、水内川を援護対象区域の境界線とすることの不合理さを訴えている。本毛さんは言う。「言葉で訴えても伝わらない。機械的に線引きする理不尽さを分かってほしい」

原爆ドームから約20キロ北の広島県安芸太田町穴(旧・広島県安野村穴)にも、黒い雨が降った。松本正行さん(90)は雨を浴びた野菜を食べ、谷の水を飲んだが、住んでいた所は小雨地域とされた。

米作りの肥料にするために雨にぬれた下草を刈った際、手が真っ黒になったという。松本さんは「当時は何が危険なのかという情報さえなかった。毎日、黒い雨を食べていたようなもんじゃ」と振り返る。



■被爆認定求め4日提訴

黒い雨が降った地域にいた本毛さんら64人は4日、広島地裁に訴訟を起こす。いずれも広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会の会員たちで、被爆者健康手帳などの申請を却下した広島県や広島市を相手に処分の取り消しを求める。

黒い雨をめぐるこうした規模の集団訴訟は初めてとみられる。本毛さんらは国が定めた大雨地域と小雨地域の線引きについて「著しく不平等」と主張。黒い雨を体に浴びたり、雨が降った所で育った野菜を食べたりしたことで放射能の影響を受けたと訴える。

支援の輪も広がる。原爆症の認定訴訟などに携わってきた弁護士8人が弁護団を発足。被爆者団体の会員や大学生らが黒い雨を浴びた状況や今の健康状態などを聞き取り、裁判所に出す陳述書を作った。

訴訟費用のカンパといった面で協力する会のメンバーの青木克明さん(67)は言う。「在外被爆者の医療費訴訟をはじめ、国は裁判で負けなければ制度を変えない。法廷に立つ人たちを精いっぱい支援したい」

これに対し、広島県と広島市は「申請については現行の法令に基づいて判断している」との立場だ。一方で、ほかの2市5町とともに「黒い雨は国が言う範囲より広い地域で降った」とも指摘。県などが主張する降雨地域では、国が2013年度から健康相談を実施している。(岡本玄)

◇

《広島大平和科学研究センター・川野徳幸教授の話》 黒い雨の問題には、被爆の瞬間だけではなく、その後の人生にも長く影響を及ぼす「核被害の本質」が表れている。原爆の投下から70年。黒い雨をどこで、どれだけ浴びたのかについて科学的に証明するのは簡単ではない。一方で、訴訟を起こそうとしている人たちは1本の線引きで援護を受けられず、放射線への不安を抱えて生きてきた。原発事故に見舞われた福島にも通じる問題でもあり、訴訟の行方に注目していきたい。

◇

〈黒い雨〉 核爆発で生じた放射性物質と焼けた建物の煤などが上空に達し、雨雲ができた。広島の気象台は爆心地の「東西15キロ、南北29キロ」で黒い雨が降り、このうち「東西11キロ、南北19キロ」が大雨地域と分析。国は76年に大雨地域を援護対象区域に指定した。一方、被爆地・長崎でも限られた地域で黒い雨が降ったとされ、雨を浴びて被爆したと訴える訴訟も起きている。長崎地裁は12年6月の判決で「証拠がない」と退け、福岡高裁で控訴審が続いている。




「黒い雨」で被爆、認めて=仲間と集団提訴へ-広島の森園さん

「私はあの雨で被爆した」。70年前の原爆投下時に爆心地から約17キロ離れた現在の広島市安佐北区(旧安佐郡亀山村)で雨に打たれた森園カズ子さん(78)=同区=。長年の不調はあの「黒い雨」の影響ではないか。生き証人が少なくなる中、「原爆の影響がどこまであったのか明らかにしてほしい」との思いから、仲間と共に4日、被爆者手帳などの交付を求める訴訟を広島地裁に起こす予定だ。

1945年8月6日、綾西国民学校2年生だった森園さんは空が光り、校舎が揺れたのを感じた。防空壕(ごう)に入り1時間ほどして外に出ると、空が真っ黒に変わっていた。家に帰る頃には雨が降りだし、びしょぬれになって姉に怒られたのを覚えている。


直後から下痢や喉の腫れが続いた。大人になっても体調は改善しなかったが、仕事に追われ、気にする暇はなかった。40代のとき、テレビのニュースで黒い雨の認定範囲を知った。実家は範囲外で、「雨や粉が降ってきたのに」と思った。


その後、甲状腺に異常があると診断された。被爆したかと聞かれ、認定範囲外であることを伝えると、医師は「原爆に遭った人の症状だが」と首をひねった。卵巣の摘出手術などを受けており、70年前の雨との関係を疑いだした。


定年後、仲間と共に黒い雨の被害を訴える活動を始めた。影響はなかったと主張し続ける国に対し、「科学的な根拠を出せというが、今となっては記憶だけが頼り」と悔しさをにじませる。
森園さんは20代前半まで同じ土地に住み、雨が降り注いだ野菜などを食べていた。放射能については何も知らなかった。「影響はあったと思う」とつぶやいた。


訴訟について、「被爆者手帳をもらうことだけが目的ではない」と力を込める。「この範囲まで被爆したという事実を訴えたい。核兵器をつくるとどれだけの影響があるのか、若い人たちに伝えたい」。森園さんは裁判に最後の望みをかける。


(2015/11/02)




小2男児が観察した「黒い雨」

小2男児が観察した「黒い雨」 

2015.8.16 産経


雨滴は懸濁液だった
小学校2年生の男の子は、大人に交じって市街を一望できる山の中腹に立っていた。
大人たちが騒然としている。降り始めた雨について話しているのだ。男の子は、右手を差し伸べ、手のひらに雨粒を受け止めて凝視した。
黒い雨だった。
昭和20年8月6日。爆心地から太田川放水路を隔てて北東約2キロに位置する広島市内の丘陵地での光景だ。
「敵は油を撒(ま)いとる」とつぶやく声も聞こえてきた。
眼下の市街地は、ことごとく破壊され、焦土と化していた。朝8時過ぎまでの日常は、別世界となって消えている。
そこに黒い雨が降ってきたのだ。大粒の雨だった。
《きっとこの雨は、大変重要なことだ。しっかり見て記憶しておこう》
2年生は、手のひらの黒い雨を観察した。
「透明な雨滴の中に、目に見えるほどの大きさの黒い小さな粒々がたくさんあって、それらが集まっている状態でした」
専門的に表現すればサスペンジョン(懸濁液)だったのだ。液体中に固体の微細粒子が浮遊している分散系の相である。

大人が見過ごした細部
爆心地から2・1キロしか離れていない三滝町の小学校の教室で原爆の爆風とガラスの破片を浴びて流血しながら、燃え上がった仮校舎を脱し、たった1人で山に逃れた男の子の人生に、70年の歳月が流れた。
「あの黒い雨が溶液でなかったと理解したのは、高校で物理や化学を学んだときでした」
東京農工大学客員教授で、旭化成の専務や特別顧問を務めた瀬田重敏さんが、黒い雨の記憶を語ってくれた。東大工学部応用化学科出身の科学者で、被爆者健康手帳も持っている。
黒い雨は、瀬田さんにとって気になる現象であり続けた。機会あるごとに、多くの証言記録を確認してきた。
「コールタールのような」「油のような」「ほこり混じり」の「真っ黒い雨」という表現は、共通項のように語られているのだが、7歳の小学生が手のひらで観察した、懸濁液としての黒い雨を明確に表現した描写には出合っていない、ということだ。
その理由は何か。都市の壊滅的破壊による極度の混乱と次なる攻撃への警戒などで大部分の人には黒い雨を詳細に見詰める暇はなかったのだろう。瀬田さんが見た雨以外に、別の所では異なる性状の黒い雨が降った可能性があるかもしれない。
いずれにしても素晴らしい観察力だと感心してしまう。大人たちからは報告例のない黒い雨の細部構造に、幼い子供が気付いていたのだから。

放射性ナトリウムの元
人々の体をぬらした黒い雨には放射性物質が含まれていた。
中公新書『核爆発災害』によると、マンガン56(半減期2・6時間)とナトリウム24(同15時間)であるという。
広島の原爆は地上600メートルの空中で炸裂(さくれつ)した。その一瞬で半径100メートル、中心温度100万度の火球が発生し、衝撃波の形で爆風が地上を襲った。
地面で反射した衝撃波は、建物を粉砕し、壁土など大量の土砂類を上空に巻き上げた。
原爆からの閃光(せんこう)熱線で、木材などの可燃物は一瞬で炎上し、煙や灰が空に昇った。
衝撃塵(じん)や火災煙中の物質は、原爆の核分裂連鎖反応で放出された中性子を浴びて放射化されていたのだった。
7歳の瀬田さんの手のひらでは、放射能を帯びたマンガンとナトリウムが、安定した鉄とマグネシウムに変わるべく、放射線の一種のベータ線を出しながら崩壊していたはずだ。
マンガンは屋根瓦や壁土などが供給源だが、『核爆発災害』によると、ナトリウムの一部は数万人の犠牲者に由来するという。人体にはナトリウムが多く含まれているためだ。
そう考えると、黒い雨の悲劇は重層性を帯びて原爆の残酷さを物語る。
幸いにも瀬田さんの一家は全員無事だった。お母さんと、この山で偶然の合流がかなうという僥倖(ぎょうこう)にも恵まれた。
瀬田さんの体験をうかがって「観察」ということの大切さを考えた。対象を深く見詰める行為は知的活動の源だ。その芽は幼年期から育つ。小学2年生の目を通して、黒い雨のひとつの姿が明確になったのだ。
体が何とか回復したのは4年生になってからと聞いた。

(論説委員・長辻象平)


2017年1月17日火曜日

カガツの底の住民証言・広島「黒い雨」



黒い雨:70年後の新証言 谷間の集落出身10人 広島

毎日新聞 2015年08月03日

◇被爆者援護対象区域外 健康手帳、集団申請きっかけに

広島原爆の爆心地から北西約20キロの広島県安芸太田町にある集落の出身者10人が今年、原爆投下後に降った放射性物質を含む「黒い雨」に遭ったと新たに証言した。うち4人は甲状腺にがんなどを患っている。この集落は国が被爆者援護法で定めた援護対象区域から外れており、10人は被爆者健康手帳の交付申請が却下されれば提訴する構えだ。広島市・県への同様の申請は計71人に上り、被爆から70年を経てなお、「被爆者認定」を求める動きが広がっている。

安芸太田町船場(ふなば)を中心とする集落で、地元では「すり鉢の底」を意味する「カガツの底」と呼ばれる。中国山地の切り立った山の間を蛇行して流れる太田川に沿った狭い谷間の集落だ。
10人は現在、集落に住んでいない。今年3月、広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会の呼びかけで、黒い雨体験者42人が広島市・県に被爆者健康手帳の交付を申請したのを知り、親族で連絡を取り合うなどして名乗りを上げた。
「川で泳いでいると、石の上に置いた白い体操服に黒い染みがついた」(当時10歳の女性)、「服を洗濯しても落ちなかった」(当時10歳の別の女性)。申請者たちの証言だ。原爆で母と姉、祖父を失った田村知子さん(81)=広島市中区=は当時、集落にいた。中学卒業後は兵庫県の紡績工場など職を転々とした。約30年前から甲状腺機能低下症に苦しみ、「体がだるくてどうにもならない。もう私も早く逝きたい」とこぼす。
7月中旬、70年前に黒い雨に打たれた3人のきょうだいが集落を訪ねた。上の姉(82)は「空が光り『ドーン』という音がしてしばらくすると、夕立が降った。落ちてきた(爆心地に近い)国民学校の出席簿を拾った」。下の姉(75)は「習字の燃えかすが落ちてきたが、黒い雨で真っ黒になっていた」と語り、弟(73)も「近所のおじさんと降ってきたものを拾って歩いた」と振り返った。
上の姉は白内障や肝炎、下の姉は肺を患う。幼い頃にリンパ節が腫れて高熱を出したという弟は5年前に前立腺がんになった。「大雨もよく覚えとる。被爆の対象外にされるのは歯がゆい」と憤る。
広島県「黒い雨」原爆被害者の会連絡協議会事務局次長の松本正行さん(90)=安芸太田町=はこの集落で眠っていた証言を掘りおこし、甲状腺疾患やがんの発病者が多いことを突き止めた。「山に囲まれたこの地域では、放射性降下物がたまった可能性がある。援護の線引きから外れているのに体調が悪い人が多い。一刻も早く手帳を交付してほしい」と求める。
【加藤小夜】

◇対象区域の拡大、国側は認めず

黒い雨体験を訴える人たちによる被爆者健康手帳交付の集団申請は、今年3月に最初の42人が広島市と広島県に手続きを取り、その後も続いている。いずれも被爆者援護法に基づく援護対象区域外の住民。市と県は却下するとみられ、住民らは却下処分の取り消しを求める訴訟を広島地裁に起こす方針だ。
終戦直後に広島を調査した気象台技師らは、爆心地北西の楕円(だえん)状の地域(長径約19キロ、幅約11キロ)で大雨が降ったとまとめた。原爆の爆風で、すすやほこりが巻きあげられ、放射性物質を含む雨になった。国は1976年、この区域を援護対象区域に指定。区域内にいた人は定められた病気になれば被爆者健康手帳を取得でき、医療費が無料になる。
市と県は2010年、独自のアンケート結果を基に区域を約6倍に拡大するよう要望したが、これまで国側は認めていない。


2017年1月7日土曜日

長崎原爆:「救護被爆者」がん多発



長崎に原爆が投下された直後、長崎県大村市の「大村海軍病院」に収容された被爆者らを救護した軍医や衛生兵、看護師らが、がんや肝機能障害、白内障などを、一般より高い率で発症していることが、弁護士らの調査で分かった。

被爆者援護法は、広島・長崎市外で救護活動に携わった人も「救護被爆者」として原爆症認定の対象にしているが、認定例は報告されていない。調査に加わった澤田昭二・名古屋大名誉教授(素粒子物理学)は「被爆者の衣服や髪に付いた放射性微粒子を医療従事者が吸い込み、体内で被ばくし続ける内部被ばくによる健康被害の可能性が高い」と指摘。調査結果は、救護被爆者の原爆症認定に向けた一助となりそうだ。

調査は05年11月~06年11月、同病院の元職員約700人に救護状況や健康状態に関する質問状を送付して実施。遺族を含め約120人から回答があり、うち実際に救護活動に当たった人は73人(男性32人、女性41人)だった。救護被爆者への原爆放射線の影響に関する調査は過去に例がない。

1945年8月9日の原爆投下後、長崎市の北約20キロの同病院には、救援列車やトラックで被爆者千数百人が運び込まれ、約860人の病院職員が救護に当たった。
全国で266人の被爆者が起こしている原爆症認定訴訟の原告に、当時の同病院看護師1人も参加。同病院で救護に当たった人にがん死亡者が異常に多いと聞いたことから、近畿弁護団が統計の専門家と共に調査した。

調査結果は、被爆者278人、非被爆者530人を対象にした「04年くまもと被爆者健康調査プロジェクト04」などと比較して分析。同病院の救護被爆者73人のうち25人(34.2%)ががんを発症しており、「くまもと04」の非被爆者の発症率(9.7%)や遠距離・入市被爆者(19.9%)よりも高率だった。また、肝炎の発症率も「くまもと04」の非被爆者の約2倍。白内障や変形性関節症、前立腺肥大(男性)の発症率も、他調査での非被爆者に比べて高かった。脱毛や下痢など被爆者特有の急性症状も多くの回答者にみられた。

被爆者手帳所持者のうち、疾病が原爆に起因し治療が必要な「原爆症」と認定された人には医療特別手当が支給されるが、認定は手帳所持者の1%未満の2242人。爆心から2キロ以遠の「遠距離被爆」や、被爆地に後日入った「入市被爆」でも、ほとんど認定されていない。

救護被爆として手帳を所持する2万5566人については、放射線の影響はほとんどないとして、原爆症認定申請を却下されてきた。

 (毎日新聞 2007.08.04)

2016年12月7日水曜日

「被爆」認定(被爆体験者)長崎地裁判決(2016年2月22日)の波紋



「もっとひどい被害を受けた人もいる。まず私たちが被爆者健康手帳をもらうことで、原告のみんなを勇気づけたい」-。23日午前、長崎市役所で被爆体験者訴訟2陣原告らは、三藤義文副市長に訴えた。


長崎原爆に遭った場所が爆心地から12キロ以内の被爆地域外だったため「被爆者」と認められない被爆体験者が県、市に被爆者健康手帳の交付を求めた同訴訟。22日の2陣判決で長崎地裁は、年間積算被ばく線量25ミリシーベルト以上という新たな外部被ばく基準を据え、原告161人のうち10人を「被爆者」と初めて認めた。被爆地域外の認定は、すなわち現被爆地域の枠組みを否定し被爆地域拡大の必要性を是認する意味合いも帯びる。

判決から一夜明け、市役所に出向いた原告からは、勝訴原告10人への手帳即時交付とともに「まさか控訴しないですよね」などの発言が相次いだ。市は昨年7月、救済の観点から「被爆地域の拡大是正」を国に要望する活動を14年ぶりに再開し、田上富久市長も同8月の平和祈念式典で「被爆地域拡大を強く要望します」と高らかに宣言した経緯がある。市が判決をとにかく不服として控訴すれば、被爆地域拡大を訴えながら地域拡大を補強する判断を否定することになり、ダブルスタンダード(二重基準)との批判を免れない。


「まだ(控訴の)方向性を申し上げる状況ではない」と三藤副市長は厳しい表情。やりとりの後、市のある職員はこうつぶやいた。「(1陣の)高裁がまだ控えている」

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2012年の1陣長崎地裁判決は、原告の訴えを全面的に却下。続く同地裁での2陣訴訟では、原告側証人が新たに原告全員の推計被ばく線量を推計し今回の一部勝訴につながった。3月28日に控訴審判決を控える1陣も、高裁に全原告の推計線量を出しており、原告388人のうち25ミリシーベルト以上は37人とみられる。ただし地裁とは別の裁判長だ。

2陣勝訴原告の今井ツタヱさん(84)、下川静子さん(82)姉妹は、弟で1陣原告の谷山勇さん(74)と一緒に爆心地から8・3キロの旧西彼矢上村で原爆に遭った。下川さんは「弟は同じ場所にいたのできっと認められる」と期待を込める。

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被爆体験者が被爆地域外での被ばくと被害をめぐり県、長崎市と争い、被爆71年目に下された地裁判決の波紋を追った。

「なぜ25ミリシーベルトでの線引きなのか」。22日の被爆体験者2陣訴訟判決で長崎地裁は、原告161人中、年間積算被ばく線量25ミリシーベルト以上と推定される10人を被爆者と認めた。科学的に未確定な低線量被ばく(100ミリシーベルト以下)の健康被害に踏み込んだ司法判断だが、原告らは唐突感のある独自基準に戸惑いもみせた。


25ミリシーベルト以上とした理由について、判決では自然放射線による年間被ばく線量の平均2・4ミリシーベルトの10倍を超える場合、健康被害を生じる可能性があると説明。被告の長崎市や県の担当者は「根拠が曖昧」と困惑し、原告側も線量での新たな線引きを懸念する。


「25ミリシーベルト」という数値は、官民一体で進めた過去の被爆地域拡大是正運動とも深く関わる。この運動の一環で県市が実施した長崎原爆残留放射能プルトニウム調査(1990~91年)では、市東部の被爆未指定地域の生涯被ばく線量を最大2・5センチグレイ(25ミリシーベルト相当)と推計。しかし国は94年に「健康影響はない」と結論づけた。

地裁判決はこうした国の判断に疑問を投げかけた格好だ。採用した原告側証人、本田孝也県保険医協会長による全原告の外部被ばく線量推定値は、米マンハッタン管区原爆調査団測定の放射線量データ(45年9~10月)を基に算出。勝訴原告10人は、線量25・5~64・9ミリシーベルトだった。

市が被爆地域拡大などのため2013年設置した市原子爆弾放射線影響研究会(朝長万左男会長)は、同プルトニウム調査と同調査団測定の双方を検証済み。いずれも被爆未指定地域の生涯被ばく線量の最大値は「25ミリシーベルト」相当と推計され、焦点は低線量による健康影響に移っている。

研究会委員の松田尚樹長崎大教授(放射線生物・防護学)は、地裁判決で「25ミリシーベルト」の根拠の一つに、福島第1原発事故を踏まえ住民の健康リスクを推計した世界保健機関(WHO)の報告書を挙げた点に着目。「報告書でも25ミリシーベルトは福島原発周辺住民の被ばく線量の最大値だが、健康影響が出たという報告にはなっていない」とする。

その上で「例えば白血病の労災認定基準は『年間の被ばく線量が5ミリシーベルト以上で、被ばくから発症までの期間が1年超』など、それぞれ基準、数値は異なる。科学にも限界がある。明らかに健康リスクがあるともないとも言えない中で裁判所が出した結論だろう」と推察する。

旧北高戸石村(現長崎市、爆心地から約11キロ)で原爆に遭った矢野ユミ子さん(81)は、22日の被爆体験者2陣訴訟の長崎地裁判決で敗訴。被爆者として認められなかった。


「原爆の後、灰が積もった畑で作られた野菜を食べ、井戸水を飲んだ。熱が出たり髪の毛が抜けたりして数年前に胃がんになった。なのに、なぜ被爆者ではないの」。原爆投下後に降り注いだ放射性降下物が野菜や水に混じり、体内に取り込んで「内部被ばく」の影響を受けたと矢野さんは思っている。

訴訟は、爆心地から一定離れた場所での内部被ばくによる健康影響が認められるかどうかが焦点だった。原告側証人の本田孝也・県保険医協会長(59)は原告161人全員を対象に、原爆投下後1年間に浴びた線量を推計。外部被ばく線量は0・3~64・9ミリシーベルト、甲状腺の内部被ばく線量は5・6~1341ミリシーベルトと推計。「健康被害が生じる可能性があった」と訴えた。

だが、地裁判決は内部被ばくについて線量測定や影響の判定は困難とし、本田氏の推計方法の一部に誤りがあると判断。原告について「内部被ばくが生じるような状況にあった」としながらも「具体的な程度(線量)は明らかでない」と結論づけ、外部被ばく線量だけを判断材料にした。このため原告161人のうち被爆者認定は外部被ばく線量が高い10人にとどまった。

「期待していたが、内部被ばくに関して非常に厳しい司法判断が示された」。判決後の集会で本田氏は硬い表情を崩さなかった。

本田氏が期待していたのには訳がある。被爆者の原爆症認定をめぐり「内部被ばくといった残留放射線の影響も十分に考慮すべき」とした昨年10月の東京地裁判決など、内部被ばくの影響を肯定する司法判断は定着しつつあるからだ。

本田氏は「今回の長崎地裁判決は、内部被ばくを認めたふりをして認めていない。線量を全く評価しないのはおかしい」と語る。

原告側は、敗訴した151人について控訴する方針。一方、原告が388人に上る1陣控訴審の福岡高裁判決の言い渡しは1カ月後に迫る。

原告側の三宅敬英弁護士(41)は「地裁と高裁に提出した資料はほぼ同じで、原告全員の線量も同じ手法で出している。しかし裁判長が違う。内部被ばく線量を参考にした高裁判決を期待したい」と語る。


長崎新聞(2016年2月26日)


2016年12月6日火曜日

(追記)訂正の申し入れに対するNPO法人・ヒューマンライツ・ナウの、その後の対応について




「被爆者援護法は、年間1ミリシーベルトを基準と定める」という誤りの記載について
ヒューマンライツ・ナウに出版物の訂正を申し入れました

(詳細リンク)




上記の通り、2016年8月に出版物記載の一部訂正を求めましたが、その後のヒューマンライツ・ナウの対応には真摯な姿勢が感じられません。
指摘を受けても、すみやかに訂正の行動をとらない当該団体の姿勢は、むしろ内容を間違えたことより問題があるのではないでしょうか。

ここであらためて私の感想と批判を率直に述べます。

本書は、「年間1ミリシーベルトを基準とする被害者の権利」を解説する中で、原爆被爆者の援護施策に関する法律「被爆者援護法」について触れ、伊藤氏の寄稿および巻末の「日本のNGO・専門家のコメント」等としても言及してあります。

そこでは、「被爆者援護法は年間1ミリシーベルトを基準として定めている」と紹介しつつ論拠の柱とし、それらと同様に原発事故の被害者にも1ミリシーベルト基準の施策が与えられなくては不平等であるとの主張が展開されており、こうした説明が数箇所にわたり見受けられました。

しかしながら、被爆者援護法に 1ミリシーベルト基準が定められている事実などなく、これは間違った認識です。従って主張の根拠になりません。記述されていたのは表面をなぞった知識で、象徴的なのが、厚労省がインターネット上で公開した単なる「絵図」を文書と表現したり、本来の法律条文を何も確かめていないといった安易な引用です。

原爆については70年以上を経ても、いまだに訴訟は絶えることがなく、原爆被爆者が直面し続けてきた隠蔽や抑圧、厳しい闘いの現実があります。その史実、被害実相に関する知識、原発と原爆という両問題の繋がりなど、日頃の報道等でも注意深さを持てば大筋を知ることは可能で、一般常識の範囲で正しい問題意識を持てるはずです。それは過去のものではなく現在進行形で続いている社会問題です。

本書に寄稿したそれぞれの筆者たちの原発事故被害者に対する想いは理解できますが、刊行した団体関係者に視野の偏りがあり、比較として持ち出された原爆被害者に関しては不勉強なところを感じました。

グローバー勧告自体は重要なものでしたが、一部誤った説明が記載されているため、まだ救済されてない方々の訴えを皮肉にも邪魔する格好となり、現行の被爆者援護施策に関する誤解という弊害を社会に拡げてしまっています。法律家が出版物でそう説明していれば、知らない人はそれを疑わずに事実と受け取ってしまうでしょう。

間違った知識は誤解を生み、無理解や偏見に結びつきます。これは被害の特殊性ゆえに社会から理解されにくい被爆者が、長く苦しんできたことのひとつです。

福島原発事故以後、原爆の放射線被害にも関心が集まり、話題に取り上げられることが多くなりました。しかし原発事故の被害や補償権利を主張する人達が利用する「材料」や「ネタ」として被爆者が存在しているわけではありません。残念なことに、そこにとても 鈍感なまま無自覚に踏み荒らしてしまう人も増えたように思います。

また、虚偽を根拠にしてしまえば大切であるはずの主張の信頼性、正当性も当然毀損されます。それは情報を発信する側に立つ場合において十分気をつけなければならない点です。出版関係者の思い込みと独善傾向が先走り、注意を払うべき事実精査に慎重さを欠いている印象を受けます。

各分野の専門性を伴った主張を行う場合、一部関係者だけで固まらず、特によく知らない事柄については外部からの査読を複数受けるなどの確認作業が必要だと思います。公に出版するのであれば尚更です。そして今回のように後で誤りが見つかった場合、すぐに適切な対応が望まれます。他人の人生の深い部分に影響を及ぼすことだからです。

第三者が情報の質を軽率に扱えば(そして訂正しなければ)、実際に不利益を被るのは当事者(原爆被害者)です。
出版した団体は責任をもって今後の対応を再考して頂きたいところです。(2016年12月)


被爆70年 原爆症認定なお狭き門

被爆70年、今なお訴訟

被爆を認められないヒバクシャたち